ドゥルーズ『フーコー』の賭金


『フーコー』の賭金は何だろうか。一度、論文の冒頭に立ち返って確かめたい。

ドゥルーズはある事柄に着目する。つまり、古文書学者は方針にしたがって振る舞っているということである。

彼〔=古文書学者〕はじぶんの方針にしたがってふるまっているだけではないだろうか。

ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳、河出文庫、13頁。

さらに、ドゥルーズはある事に言及する。人は、古文書学者の著作に、哲学における新しいもの、美しさがあると言うのだ。

何か新しいもの、根本的に新しいものが哲学のなかに生まれ、その著作は決して自分では望まない美しさを備えている、と言うものもあるのだ。

ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳、河出文庫、13頁。

今後、古文書学者の方針、その著作の新しさ、美しさという問題が賭金であると仮定して、論を進めていく。

今まで確認したように、ドゥルーズの仮想敵は論理学や言語学である。彼はそれらとの差異を強調しつつ、フーコーの思想に迫っていく。

ところで、フーコーの新しさにいまだ翳りがないのは残念だ。ドゥルーズは(成功しているかどうかはともかく)意味の生産から離れて、〈主体〉を基礎づけようとしている。しかし、昨今の哲学界のブームを見ていると、意味生産の根源としての主体がむしろ復権しているように見える。こうした動きを見るにつけ、今世紀はドゥルーズの世紀なのかもしれないなあ、と思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?