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なぜ陽菜のチョーカーは壊れ、帆高は高島平に向かうのか【『天気の子』考察】

『天気の子』は何も考えずに楽しめるエンターテイメント作品ですが、構造がしっかりしていて考察しがいのある作品だと思います。

この記事では、陽菜のチョーカーが壊れる意味、水没後の東京で帆高が高島平に向かう意味などに触れながら、映画の構造、問題設定、メッセージといった全体像について考察していきます。
あらすじ等は省略します。ネタバレあり。

なお、この記事では重要人物である須賀にあえて触れてません。須賀についてはもう一つのより深く考察した記事で扱っています。


作品の構造

まず、2つのキーワードから、この作品の構造を読み解いていきます。

1つ目のキーワードは「円環・循環」です。
指輪、チョーカー、手錠など、作品の中には「円環」のイメージが何度も出てきます。
電車のシーンもほとんどが環状線である山手線です。
空の上へ飛躍して降りてくるのも円環的な動きですし、天気自体も、大気や水の「循環」によるものです。
繰り返される「環」のイメージは、この作品が何かの「円環・循環」を巡る物語であることを示唆しています。


2つ目のキーワードはこの映画の中心でもある「天気」です。
天気は陽菜の心情を反映するものですが、それを別にして考えると「晴れ」と「雨」はそれぞれ何を表しているのでしょうか。
「晴れ」は社会のみんなが望むものであり、反対に「雨」は浸水被害をもたらすような反社会的なものです。

また、「アメ」と名付けられた猫が、帆高や須賀が良心に反したことをしようとすると責めるような態度をとることから、アメ=雨はイノセンス(純粋さ・純真さ)のようなものも表していると言えるでしょう。
別の言い方をすれば、イノセントであることを貫けば、社会を逸脱してしまうということであり、逆に、社会を維持するためには欺瞞が必要とされてしまうということでもあります。

つまり、
「晴れ」=(裏に欺瞞がある)社会、秩序などのメタファー
「雨」=(裏にイノセンスがある)社会からの逸脱、無秩序などのメタファー
とまとめることができます。

(これを踏まえれば、冒頭甲板で帆高が豪雨を浴びて喜んでいるシーンは、それまでの社会から逃れた開放感を表現していると解釈できます。人の流れに逆らって甲板に向かうのも社会から逸脱していることを象徴的に表しています。)

また、晴れと雨は本来循環し、入れ替わるはずですが、作品内ではずっと雨が続いてしまっています。
この「天気」の「円環・循環」に晴れ女が組み込まれることによって、天気は本来の循環を取り戻すことができますが、晴れ女は最終的には人柱として犠牲になってしまいます。
この「晴れ女の犠牲を必要とする円環構造」が物語の中心だと整理できます。

作品の問題設定

次に、2つのモチーフを通して、主人公たちが直面する2つの問題について考察していきます。

1つ目のモチーフは、「『君の名は。』の反転」です。
『天気の子』は『君の名は。』の中の要素を反転させて出来上がった作品と見ることができるのです。

例えば、
『君の名は。』ではヒロインが地方出身者で主人公が東京にいる。『天気の子』では主人公は離島出身でヒロインが東京にいる。
『君の名は。』では地方が災害にあう。『天気の子』では東京が災害にあう。
『君の名は。』では過去への時間的な飛躍をする。『天気の子』では空の上へ空間的な飛躍をする。
『君の名は。』では二人を繋ぐキーアイテムは伝統・運命を感じさせる組紐。『天気の子』ではキーアイテムはありふれた商品である指輪。

まだまだありますが、2つはことごとく要素が反転した作品になっています。
一番重要なのは、『君の名は。』では、世界を救うことと君を救うことがイコールで結ばれていましたが、『天気の子』では世界を救うことと君を救うことが両立できないジレンマ的な状況にあることです。

この反転が必然的に「世界か君かどちらを取るか」という問いを孕むことになります。
そしてこの究極の問いに答えることによって帆高は、「結果をどう受け止めるか」というもう1つの問いへと導かれていきます。


もう1つのモチーフは、帆高が持ち歩いていた小説『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(以下『キャッチャー』と省略。)です。
これが『天気の子』を読み解く上で最も重要な要素です。

『キャッチャー』は大人のインチキに我慢出来ず、イノセンスを求める主人公ホールデンの物語です。
タイトルは、将来なりたいものを聞かれたホールデンが「ライ麦畑で遊んでいる子供たちが崖から落ちないようにキャッチしてあげるライ麦畑の捕まえ手(キャッチャー・イン・ザ・ライ)になりたい」と答えたセリフから取られています。

この小説から多くのモチーフがとられていますが、帆高がホールデンと重なる存在であることが重要です。
二人は、家出状態であること、都会をさまよっていることなど、共通点が多くあります。年齢も同じです。
帆高はホールデンのようにイノセンスを求め、陽菜をつかまえて助ける役目を果たすことになります。

1度目は雨の中で水商売に勧誘されていた陽菜をつかまえて助けます。
そしてクライマックスでも、社会を逸脱してでも陽菜のもとへ向かい、空の上で陽菜をつかまえます。
(空に至るまでに帆高が手にした拳銃や手錠はイノセントであるがゆえに社会を逸脱してしまうことの象徴でしょう。)

「世界か君かどちらを取るか」という問題に対し、帆高が出した答えは、世界ではなく君を取るということでした。
これは、先に確認した「晴れ女の犠牲を必要とする円環構造」を否定するということであり、晴れではなく雨を選ぶということでもあります。

陽菜は地上に戻ってきたとき、首のチョーカーが切れていますが、これは円環構造から陽菜が脱したことを意味しています。

円環構造から逃れたことは、その後の電車のシーンにも表れています。
高校を卒業して東京に戻った帆高は都営三田線に乗って高島平に向かいますが、環状線である山手線以外の電車に乗っていることが明確なシーンは、恐らくここだけです。
また、小説版によると山手線自体が半分くらい水没して失われてしまっているようです。
これらは、円環構造から脱したこと、円環構造が壊れたことを象徴的に示しています。


水没した東京に戻った帆高は「結果をどう受け止めるか」という2つ目の問いに直面しました。
立花冨美や須賀は「世界は元に戻っただけ」「世界は元々狂っていたのだから気にしなくて良い」と話します。
それらは気象神社の神主の発言にも通じますし、ある種の真理でしょう。

しかし最終的に帆高は彼らのような考え方ではなく、「自分たちが狂った世界を選んだんだ。自分たちが決定的に世界を変えたんだ。」という考え方を選びます。
立花や須賀のような考え方は正しくても、この結果を招いた当人である帆高がその考え方を選ぶことは、陽菜を犠牲にしておきながら見て見ぬ振りをした社会の欺瞞と同じです。

あくまで純真であろうとする帆高は欺瞞を拒否し、自分たちがしたことをきちんと見つめ、その結果とともに生きていくことを選ぶのです。

帆高が農学部に進学することを選んだことにも、変わってしまった世界とともに生きていくためにやれることを探すという姿勢が表れています。

大学関係の書類の中に書いてある「人新世」という言葉は、人類の活動によって地球規模の環境変化が起きていることを鑑み、「現在の地質年代はもはや「完新世」ではなく「人新世」だ」として提唱され、注目されている概念です。
この言葉には環境に対する人間の影響の大きさをきちんと反省して対応すべきだという問題意識も含まれているそうです。
この言葉が作品の中に出てきたのも、帆高の「変えてしまった世界とともに生きていく」という意識を表すためだと考えられます。

そして「自分のために願って」と言われた陽菜も、「世界が君の小さな肩に乗っている」という歌詞が示唆しているように、自分のことだけではなく世界のことも祈り続けてきたように見えます。

2人は決して自分たちのために世界を犠牲にしてしまったことに開き直っているわけではなく、自分たちなりに責任を取ろうとしていると言えるのではないでしょうか。


ラストの「僕たちは、大丈夫だ」というセリフは、「願い・思い」をキーワードにして考えると分かりやすくなります。

東京は水没しており、客観的に大丈夫と断言できる根拠は何もありません。
なので、これは客観的な根拠に基づいた事実を述べた言葉ではなく、願いや決意といった思いを伝えている言葉だと解釈することが妥当です。

この作品では、願いや思いが重要な役割を果たしてきました。
陽菜は願うことで天気を晴れに変える能力を持っていましたし、その能力を得たのも晴れを強く願ったことがきっかけでした。
帆高も陽菜にもう一度会いたい、助けたいと強く願うことで陽菜を助けることができました。

願うことの力を知っている帆高は、自分の決意や願いを伝えることを通して陽菜への愛を伝え、「大丈夫」の歌詞に「君の大丈夫になりたい」とあるように、ともに生きていこうというメッセージを伝えているのだと思います。

作品のメッセージ

「円環・循環」「天気」「『君の名は。』の反転」「キャッチャー・イン・ザ・ライ」「願い」といったキーワードで作品を読み解いてきました。新海誠監督がこの映画を通して伝えたいことは何なのでしょうか。

RADWIMPSの野田洋次郎さんは小説版『天気の子』の解説の中で、陽菜の話はすべての人に当てはまる話だというような意味のことを書いています。
陽菜の話を多くの人に当てはまるように一般化して考える際のキーワードは「仕事」ではないかと思います。

晴れ女は、社会のために奉仕し、その結果として社会の犠牲になる存在でした。
これは社会を成り立たせるために必要であると同時に、時に過労死によって個人が犠牲となる「仕事」そのもののメタファーとも取れます。
思い返せば、帆高のバイト探し、水商売の勧誘、夏美の就活、須賀の手伝い、晴れ女の仕事など、作品内には仕事に関するシーンが多くあり、仕事がこの作品の1つの焦点であることが伺えます。

(帆高や陽菜の貧困の描写も合わせて考えれば、お金が「循環」する資本主義社会自体が焦点になっているとも言えるでしょう)。

つまり、晴れ女の物語は仕事や何らかの役割を持つ私たち一人ひとりに当てはまりうる物語なのです。
そして、晴れ女の物語を通して、帆高や陽菜が社会の犠牲になることを拒否したように、私たち一人ひとりも社会と対立しても自分を貫いて良いということを伝えたいのではないでしょうか。

さらに言えば、そのメッセージを監督自身が実践するかのように、社会から批判されたとしても作家としての純真な思いを貫くのだと作品を通して宣言しているかのようです。
多くのインタビューで『君の名は。』の時よりもっと人を怒らせるような作品を作ろうと思ったと答えているのは、そういった思いの率直な表明でしょう。
つまりこの作品においては、帆高だけではなく、新海誠監督自身がホールデンと重なる存在と言えるのです。

3年かけて緩慢に沈んでいく東京の姿は、先進国から転落していくと囁かれることもある日本の今後を暗示しているようにも思えます。
しかし、そんな雨が降り続くような日本でも、新海誠監督は私たちに対し、いわば「キャッチャー・イン・ザ・レイン」として、「大丈夫だよ」とエールを送っているのかもしれません。