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須賀は何故窓を開けて水を中に入れてしまうのか?【『天気の子』に隠された謎を読み解く】

須賀は何故窓を開けて水を中に入れてしまうのか?

『天気の子』を見た誰もが抱く疑問です。
このシーンだけではなく、『天気の子』には謎が散りばめられています。

この記事では10の謎を解いていくことを通して天気の子を深く考察していきます。

前回、作品全体の構造やメッセージについて考察する記事を書きました。

前回の考察のうち、今回も関係する点を簡単に振り返っておきます。

1. 作品内に指輪や山手線など、円環のイメージが多く出てきます。
これはこの映画が何らかの円環を巡る物語であることを示唆しています。

2. 晴れは社会の皆に望まれるものですが、その裏には晴れ女の犠牲を見て見ぬ振りをするような欺瞞があります。
逆に、雨は浸水被害を生むような反社会的なものです。また、イノセンス(純真さ)を貫くと社会を逸脱してしまうこともあります。
つまり、
「晴れ」=(裏に欺瞞がある)社会、秩序などのメタファー
「雨」=(裏にイノセンスがある)社会からの逸脱、無秩序などのメタファー
という対比構造があります。

3. 晴れ女は天気の正常な循環を取り戻す役割を果たしますが、最終的に犠牲になってしまいます。
この「晴れ女が犠牲になる円環構造」とその否定が物語の中心です。

4. 主人公が持っている小説『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(以下『キャッチャー』)が重要な意味を持っています。
小説の主人公ホールデンと帆高は、大人の欺瞞を憎み、イノセンス(純真さ)を求めることなど、多くの点で重なる存在です。
欺瞞ではなく純真さを選ぶという姿勢は新海監督自身の姿勢でもあり、作品の中心的なメッセージにもつながっています。

そして最終的に、新海監督は作品を通じて「社会と対立しても自分を貫いて良い」ということを伝えるとともに、自分自身がそれを実践してみせているという結論に至りました。

上記を踏まえた上で、下記の謎について考察していきます。
(順番に読んでいくことで理解が深まるように書いています。)

1.  須賀明日花は晴れ女だったのか?

「須賀圭介の妻、明日花も晴れ女だったのではないか」という考察が一部で話題です。

大島育宙さんという方の考察動画を参考に、この問題について考えてみます。

大島さんはこれは結論が出ない問題だとしつつも、肯定派寄りの立場で明日花が晴れ女だったと考え得る根拠を3つ挙げています。

・須賀が指輪を二重につけていて指輪が注目されるシーンが多いこと(帆高のように、須賀も明日花が空に行ってしまった後に指輪を拾ったことが連想される)
・須賀が廃ビルにたどり着けたこと(明日花が晴れ女だったから廃ビルに行ったことがあったと推測できる)
・須賀の事務所に仏壇や位牌などがないこと(明日花が亡くなったことを認められていない)

上記のうち、明確な根拠となり得るのは、廃ビルに来れたことでしょう。

まずこの点について考えてみますが、須賀が廃ビルに来れたのはGPSで帆高の行動を把握していたからだと思われます。
夏美が運転する車に乗りながら、アプリで帆高の行動を確認しているシーンがあります。
晴れ女の夢で廃ビルを見ているので外観は分かりますし、夏美と連絡をとりあって場所を確認していれば、先回りも可能です。

それに須賀は晴れ女に帆高が関わっていることもなぜか分かっていました。
それも踏まえると、須賀はいわば「帆高のことは基本的にだいたい把握している」チートみたいなキャラだと考えた方が作品内の一貫性が保たれます。

よって、須賀が廃ビルに来れたことは明日花が晴れ女だったことの証拠にはならないと思われます。

そして他の二つは根拠とするには少し弱い気がします。

結論としては、私もこれは答えが出ない問題だと思います。
明確な根拠は否定側も肯定側もおそらくありません。

さらに言えば、これはそもそも重要な問題ではないと思います。
明日花が晴れ女であったとしても物語全体の意味やメッセージは変わらないからです。

ネット上では「明日花が晴れ女と考えることで須賀の行動をよく理解できて作品の面白さが増す」と考えてこの説を支持している人が多いようです。
大島さんもそのことを率直に表明しています。
「明日花=晴れ女という深読みをしないならば、須賀の行動に理屈がなくなるので、『天気の子』を高く評価する理由が分からない」というように。
同じように感じる人も多いのかもしれません。

そこで私は、そういう方々を全く別の解釈、全く別の謎解きへと誘いたいと思います。

この謎解きは、作品の根幹に関わります。
解かれるべき謎とはまさに「『天気の子』の最も重要なテーマとは何か」です。
それを明らかにすることで、須賀の行動は説明が可能となります。

その答えにたどり着くためには、数々の謎を解いていく必要があります。

謎解きの基点となるのはやはり須賀です。
須賀の行動を「明日花=晴れ女」説とは別の論理で説明していきたいと思います。
まずは次の問いを通して須賀の本質に迫ります。

2. 須賀の二重の指輪の意味は何か?

須賀は、冒頭の船のシーンで滑り落ちそうになる帆高を、まるで『キャッチャー』の主人公ホールデンのように「キャッチ」して助けています。
須賀も帆高同様、ホールデンと重なる存在なのです。

つまり、本当はイノセントな部分を持っている。
しかし普段はそれを表面に出していません。

須賀は大人でありながら大人になりきれていない中間的な存在、二重の存在です。
晴れと雨の対比構造を踏まえると、晴れと雨の中間的な存在と言えます。
この二重性が須賀の本質です。

オカルトという社会の外部にあるものをエンタメとして社会に送り出すオカルトライターという仕事も中間的な存在であることをよく示しています。

明日花の指輪と自分の指輪をつけていることも、二重性という須賀の本質を表現していると言えるでしょう。

指輪が注目されるのは、明日花や萌花のことを思う時や自らの純真さに反した言動をとる時など、いずれも須賀の二重性が際立つシーンです。

3. 須賀は何故窓を開けて水を中に入れてしまうのか?

須賀自身だけではなく、事務所も須賀の二重性をよく表しています。

事務所が半地下という中間的な場所にあることや、事務所の名前がK&Aプランニングであることが象徴的です。
Kは圭介、Aは明日花の頭文字だと推測されますが、圭介としての表面的な意識は欺瞞的な大人の社会に順応しながらも、心の奥には明日花を思い続けるような純真さを持ち続けていることを示唆しています。

世界が晴れ渡ってしまった後で窓を開けて部屋を水浸しにするのは、中間的な存在である須賀には雨がなくなった世界が無意識的に耐えられなかったからだと説明できます。
(須賀の純真さの象徴である明日花の「A」が書かれた部分の窓を開けて雨水を受け入れているのも象徴的です。)

窓を開けたのが無意識的な行動だったことは、次の問いに関係してきます。

4.  須賀が無意識に涙を流すシーンの意味とは何か?

須賀は二重の存在ですが、普段は純真な部分を表に出していません。
隠しているというよりは、自覚できていないような感じがします。

おそらく須賀は大人の意識と純真な無意識が乖離してしまって、本人さえ自分の二重性に気づいていないのです。

無意識のうちに涙を流すシーンは二つの重要な意味を持ちます。
一つは、須賀の心の乖離を明確な形で示していることです。

涙が「無意識」に流れてしまったのは、「今でも明日花を強く思い続けている」ということを表面的な意識ではうまく認められないからでしょう。

須賀の心の乖離を示す他の例として、事務所が片付いていないことも挙げられるかもしれません。
部屋を散らかったままにしているのは、冷蔵庫に貼ってある明日花の書き置きなどをそのままにしておくための口実なのではないでしょうか。
明日花のことを忘れられないのではなく、だらしないからそのままになっているだけだと自分に言い聞かせているかのようです。

その証拠に、散らかしておく必要がなくなった新しい事務所はキレイに整理整頓されています。

新しくキレイな事務所はなにか意味深です。
須賀が自身の問題を解決したことを暗示しているようにも思えます。

というか、そもそもこのシーンは何かがおかしい。

須賀は娘を引き取るために問題を起こさないようにしていたが、帆高を助けるために警察を殴り、逮捕されてしまう。
それなのに三年後には娘を引き取れる予定になっている。
それどころか、仕事が減っていた状態だったのにキレイな事務所に移転し、正式に3人も人を雇えるようにまでなっている。
(2人しか姿は見えませんが、夏美のヘルメットが置かれていることから、夏美もここで働いていることがわかります。)

ここには明らかに矛盾があります。
娘を引き取れる件は「何もなければすぐ引取れたのに、問題を起こしたから3年もかかった」と考えれば整合性があると言えるかもしれません。
しかし須賀の仕事がうまくいきすぎていることは「出版不況の現在、編プロがここまで成長するのは現実的ではない」ということを横に置いたとしてもなんらかの物語内の論理が働いていると想定しなければ説明がつきません。

やはり須賀は自身が抱えていた問題を解決したはずです。

涙のシーンが重要である二つ目の理由は、須賀が自身の問題に向き合い、解決するきっかけになったと考えられることです。

須賀が涙を流す直前の場面を小説から引用します。

そこまでして会いたい人。帆高にはいるのか。俺にはどうか。全部を放り投げてまで会いたい人。世の中全部からお前は間違えていると嗤われたとしても、会いたい誰か。
「————須賀さん、あなた」
 刑事がぼそりと言う。俺にも、かつてはいたのだ。明日花。もしも、もう一度君に会えるのだとしたら、俺はどうする?俺もきっと————。
(新海誠『小説 天気の子』p.238)

この後で刑事に泣いていることを指摘されます。
須賀が明日花に会いたいことは明白なのに、須賀自身はそれを言語化して認めることにすごく苦労しています。
しかし涙とともに、やっと明日花に象徴される自分の純真な部分に向き合い始めていることが分かります。

クライマックスでの須賀の一連の描写は、「須賀が明日花が晴れ女だったことに気づいていく過程」ではなく、「須賀が自身の問題に向き合い、それを乗り越えていく過程」なのです。

ここに働いている論理をさらに追求するためには、この映画の最重要テーマが何かを明らかにすることで、須賀の問題をより深く理解する必要があります。

そのためには少し遠回りしなければなりません。

まず注目すべきは『キャッチャー』です。

5と6の問いを通して、『天気の子』が細かいところまで『キャッチャー』を意識していることを確認していきます。

5. なぜ空から魚が降ってくるのか?なぜラストシーンで鳥が飛び立つのか?

ラストシーンで飛び立つ鳥は恐らく鴨の仲間です。
というのも『キャッチャー』に「公園の池の鴨(ducks)や魚は、池が凍ってしまう冬にはどうなってしまうのか」という内容の会話が出てくるのです。

この会話は様々に解釈可能ですが、魚は凍った池という死の世界の中で生き続ける存在、鴨は死の世界から飛び立っていく存在というように対比されていると解釈することができます。

それを引用していると考えることで、空の上=死の世界からの使者として魚が降ってきて、死の世界から逃れて自分たちで歩んでいこうとする帆高たちを象徴するように鴨は飛び立つと理解できます。

6. 舞台が2021年である意味と公開日の持つ意味とは?

これらの日付も『キャッチャー』に関係しています。
天気の子の舞台である2021年の夏は『キャッチャー』の原著が出版された1951年7月16日からちょうど70年後にあたるのです。

また、日付情報を整理すると、陽菜が帆高に晴れ女の能力を最初に見せた日も7月16日前後のようです。

さらに、天気の子が公開されたのは7月19日です。
新作映画が公開されるのは金曜日か土曜日なので、可能な限りでは7月16日に一番近い日になっていると言えます。

なぜここまで『キャッチャー』にこだわるのか。
それは恐らく『キャッチャー』の真の主題がこの作品に引き継がれているからです。
真の主題とは何か、次の問いを通して確認していきます。

7. なぜ陽菜は誕生日に空に消えたのか?

この問題は2つの視点から考えることができます。
まずは民俗学的に説明します。

新海監督が以前ツイッターにあげた本棚の写真には民俗学関係の本が多く置かれており、映画制作中に民俗学の知識を参照していたことが伺えます。

昔から「境界」は異界との出入り口であり、異界の力が働くとされていました。
陽菜が風によって空に舞い上がったのは田端駅前の坂でしたが、「さか」と「さかい」は語源が同じであり、坂も境界です。

現代においては誕生日も個人の人生を区切る境なので、異界の力が働いたと説明できるでしょう。

次に『キャッチャー』の真の主題という視点から説明します。
竹内康浩『ライ麦畑のミステリー』によると、『キャッチャー』には「死と再生」という主題が隠されているようです。

一般的には『キャッチャー』は落下を防ぐこと=イノセンスを守ることがテーマだと思われています。

しかし作品中、レコードや帽子やクラスメイトのジェイムズなど、多くの物や人が落下しています。
落下は防がれていません。

ただし、ほとんどの落下物はその後で拾い上げられます。
落下(=死)した後に拾い上げられる(=救済・再生)ことが繰り返されるため、「死と再生」こそがキャッチャーの真の主題だと考えられるのです。

この主題の背景にはサリンジャーが関心を持っていた神話、宗教、錬金術、禅などの思想に由来する「対立物の一致」という考え方があるようです。
対立物の一致とともに真の救済・再生が起こるとも言えるかもしれません。

このテーマを引き継いでいるからこそ、「誕生」の日に一度死を経由してから再生するのだと考えられます。
おそらく「死と再生」は『天気の子』の最重要テーマの一つでもあります。

誕生日の前日の出来事も意味深です。
この日、須賀、夏美のグループと陽菜、凪のグループが出会っています。
この二つのグループは帆高が加わることで疑似家族的な共同体を形成しましたが、この二つの疑似家族は非常に対照的です。

須賀たちが大人なのに大人になりきれないのに対し、陽菜たちは子どもなのに大人になろうとしています。
須賀たちは半地下の事務所にいて、陽菜たちは高台の家に住んでいます。

映画の前半で占い師が、雨女・雨男は龍神が守護霊についていて、飲み物をよく飲むと言っていますが、龍の柄の帽子を被り、お酒ばかり飲んでる須賀は雨男だと思われます。
夏美も帆高と出会った時、一杯のアイスコーヒーを二口で飲み切り(特に二吸い目の吸引力が凄まじい。必見。)、その直後に缶ビールを飲んだりしているので、恐らく雨女でしょう。
対して陽菜はもちろん晴れ女です。

彼ら二つの対照的なグループが出会った日の夜に陽菜は空に消えます。
対立物の出会いによって死と再生のプロセスが始まったと解釈できるかもしれません。

「死と再生」がこの作品の真のテーマである根拠としては、作者の考え方の問題があります。
『キャッチャー』が「死と再生」という主題を持っていたのは、サリンジャー自身の戦争体験が影響していると考えられます。

サリンジャー は戦争体験を通じて、「死や汚れた世界は避けられない」という思いを強く抱いた可能性があります。
落下(=死や堕落)は避けられない。
だから、本当の救済は死を排除することで「生」を守ることではなく、死を含み込んだものでなければならない。
そう考えたのかもしれません。

新海監督の考えにも似たところがあります。
監督はインタビューで、現実世界では調和は戻らないのだから、調和が戻る話は嘘になるというような話をしています。
調和は戻らない。
だから、調和が戻る話ではなく、調和が戻らないことを含み込んだ話を描かなければならない。

そう考えていたならば、新海監督が『キャッチャー』の真の主題を引き継ぐ必然性はあります。

「死と再生」がテーマである証拠と言えるような図像も映画内に出てきます。
「死と再生」の図像的表現といえば、自分の尻尾を咥えて円環になっている龍蛇、ウロボロスが有名です。

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ウロボロス - Wikipediaより

この作品の中にも、実はウロボロスが隠されています。
気象神社の雲龍図の直後に出てくる図像です。

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『新海誠監督作品 天気の子 公式ビジュアルガイド』 p.121より

これは寛永五年(1624年)に版行された「大日本国地震之図」を元に、この映画のために山本二三氏が描いたものです。
少し分かりにくいですが、この図に描かれている龍は自分の尻尾を咥えていてウロボロス状になっています。

黒田日出男『龍の棲む日本』によると、「大日本国地震之図」は日本の国土を龍が取り巻いている図で、12の背びれには「この月はこんなことが起こる」と、各月の地震や天変地異などについての一種の占いが書いてあるそうです。
龍は日本を守る存在であると同時に、地震を引き起こす存在とも考えられていたため、この図に描かれたようです。

この図像は天気との関連性はそこまで高くないようですが、それでもこの図像を出したのは、ウロボロスを登場させることで「死と再生」が最重要テーマであることを示すためではないでしょうか。

繰り返される円環のイメージには「犠牲の円環」と「死と再生の円環(ウロボロス)」という二重の意味があったのです。

ストーリー自体も、重要な場面は二重に二回繰り返され、二重の円環のような構造になっています。

例えば誰かを「キャッチ」して助けるシーンは、帆高が新宿と空の上で陽菜をキャッチし、須賀が甲板と廃ビルで帆高をキャッチしています(帆高の1回目のキャッチと須賀の2回目のキャッチは拒否されますが)。

この「死と再生」というテーマは、次の問いについて考えることで、さらに別のテーマへとつながっていきます。

8. 題材にした「昔話」とは何か?主人公たちの名前の由来は何か?

新海監督は昔話や和歌を発想の源にしていることで知られています。
公式ビジュアルガイドなどのインタビューによると、今回新海監督は人身御供譚を参考にしているようです。

人身御供譚とは、「邪神に生贄を捧げる風習が行われていたところに外から旅人がやってきて邪神を倒し、秩序が回復する」というような物語です。

『天気の子』では空の上を龍が飛び回っていますが、龍が出てくる人身御供譚といえば、神話のヤマタノオロチの話が有名です。

毎年ヤマタノオロチという龍神に対して娘を生贄に捧げ続けていた老夫婦の元にスサノオが現れ、ヤマタノオロチを退治するという話です。

また、この記事では掃晴娘という「てるてる坊主」の由来となった中国の昔話がモチーフではないかと指摘されています。

神話・昔話の中ではヤマタノオロチと掃晴娘がメインとなる題材だと思われますが、その他にも天気の子に関係がありそうな神話があります。
アマテラスオオミカミが隠れて世界が暗闇に包まれる天の岩屋戸の話、死んだイザナミに会うためにイザナギが黄泉の国まで行く冥府下りの話です。

帆高以外の主要人物は、これらの神話に登場する神々と名前が似ています。
天野陽菜はアマテラスオオミカミ、須賀はスサノオ、夏美はイザナミ、凪はイザナギが由来なのではないでしょうか。

新海監督の本棚になぜか熊野についての本があったことも傍証となるかもしれません。
スサノオ、イザナミ、イザナギは熊野三山の主祭神であり、アマテラスも熊野で重要な神として祀られています。

では帆高の由来は何か。
上の記事に戻ると、帆高の名前の由来は新海監督の出身地、信州の神、ホタカミノミコトなのではないかと指摘されています。

前回の記事で帆高と新海監督はともに純真な思いを大切にする点で重なっていると指摘しましたが、帆高≒新海監督ということを示すために、出身地信州の神から名前を取ったのではないでしょうか。

名前の由来を確認したところで、考えたい問題があります。
ヤマタノオロチの人身御供譚と『天気の子』の間にある差異についてです。

ヤマタノオロチ伝説ではヤマタノオロチが退治されることで生贄の風習が終わり、秩序が回復します。
人身御供譚の多くは、邪神が倒されて悪しき生贄の習慣が終わる話です。

人身御供譚は生贄や邪神の死を通して共同体が再生を果たすという構造になっています。
(ここにも死と再生というテーマが通底しています。

しかし『天気の子』の中で再生しているのは共同体ではなく陽菜たちです。
一体何が起こっているのでしょうか。

この問題を考えるには、新海監督の本棚にあった大塚英志『人身御供論』が参考になります。

大塚は人身御供譚は通過儀礼譚と錯綜した関係にあることを指摘しています。

通過儀礼譚とは、敵を倒したり試練を乗り越えることで主人公が成長する話です。
生贄が邪神を倒すような人身御供譚は、生贄による通過儀礼譚と見ることもできるというのです。

陽菜が再生したならば、通過儀礼譚になっているはずですが、陽菜たちは邪神を殺したわけではない。
ただ逃げだしただけです。
だとすると、逃げ出すことによって通過儀礼が果たされたと考えるべきなのかもしれません。

ある種の通過儀礼は父殺しと呼ばれることもあります。
「父」とは実際の父親である場合もありますが、より抽象的に、自己実現を阻むものである場合もあります。

『天気の子』において父殺しの通過儀礼が果たされているのだとしたら、ここで殺された「父」とは一体何者なのでしょうか。
この問題に答えることは、次の問いの答えにもつながります。

9. 閉まっている窓から吹き込む風は何なのか?

陽菜が母の病室にいるときなど、陽菜たちの周りでは時折不思議な風が吹いているように見えます。

この風が何なのかは、隠された父殺しについて考えることで明らかになります。

新海監督は、パンフレットの中で、この物語は帆高が社会の常識や最大多数の幸福と対立する話だと言っています。

社会常識や最大多数の幸福。そしてそれを正しいとする社会。
それらは日本社会全体の「空気」と言い換えられるのではないでしょうか。
「空気」は人々の行動を支配し、社会と対立してしまう人の自己実現を阻むものです。
この作品の中で父の役割を果たすのは「空気」なのです。

そして「空気」の問題は日本の最大の問題でもあります。

「空気」について思索した山本七平は、日本人は「空気」に支配されやすく、太平洋戦争に敗れたのは、その全てが「空気」による決定で行われて合理的な判断ができなかったことが原因だとしています。

この問題は戦後も解決しておらず、もし日本が再び破滅へと突入していくなら、それはやはり「空気」によって突入していくのだろうとも言っています。

また、山本は「空気」に対抗するものとして「水」の問題も扱っています。

「空気」によって人々が暴走していくような時に「水」を差すようなことを言うことで、「空気」をしぼませることができるとしました。

さらに、「水」が連続したものが「雨」であるとも言っています。

山本の議論は「空気」に「水」を差せば全て解決するという単純なものではありませんが、山本の議論における「空気」と「水・雨」の対比構造が単純化された形で、『天気の子』における晴れと雨の対比構造に重ね合わせられているのではないでしょうか。

そしてその対比構造を利用して、『天気の子』は「雨」によって「父」である「空気」を殺す通過儀礼譚となっていると見ることができます。

この「「父」=「空気」殺し」が『天気の子』のもう一つの最重要テーマです。

また、山本は「空気」は外国語に翻訳するならば、プネウマ(古代ギリシャ語)であると言っています。
プネウマとは、元々は息吹や風や空気を意味する言葉ですが、霊、聖霊、悪霊、神託といった意味も持つそうです。

山本はプネウマを「人間の中になく、外にあって、外から「人」に何か強烈な作用をしてくるある種の力」(山本七平『小林秀雄の流儀』p.137)とも表現しています。

プネウマは聖霊の意味も悪霊の意味もある両義的な言葉ですが、『天気の子』ではそのどちらにも転じ得るものとして描かれているようです。

閉まっている窓から吹き込む不思議な風も、プネウマ=神の導きのようなものを意味しているのだと思われます。

「「父」=「空気」殺し」という通過儀礼が作品の最重要テーマだと考えれば、物語をよく理解できるようになります。
須賀の問題に戻れば、須賀の再生の裏に働いていたのは、通過儀礼を果たしたことによる再生という論理だったのです。
そして同様に、他の主要登場人物たちも通過儀礼によって再生を果たしているように思われます。

最後に、主要人物たちがどういう問題や課題を抱え、それをどう解決していったのかを確認します。

10. 彼らは何を乗り越えたのか?

帆高は父親に反発して家出し、東京に来ました。

父親に代表されていたものとは恐らく「空気」であり、「空気」に従って生きていくことが息苦しくなっていたのだと思われます(「息苦しい」という表現も「空気」を意識させます)。

帆高の課題は空気に従うのではない、自分自身の生き方を見つけることでした。

帆高は東京で新しい生活を始めましたが、夏美に「つまんない大人になりそう」と言われたように、徐々に「空気」に同化してしまっていました。

ついにはホテルでの夜、陽菜の「帆高は雨が止んでほしい?」という問いかけに「空気」に従うように「うん」と答え、陽菜を絶望させてしまいます。

しかし、陽菜が消えたことで自らの過ちに気づき、「天気なんてどうなったっていいんだ」と空気を否定して陽菜を助けることで「雨」によって「空気」を殺し、通過儀礼を果たしました。

そして三年後に陽菜と再会した時に、「どんなに世界が変わってもその世界とともに、そして自分の大切な人とともに生きていくんだ」という決意をし、自分の生き方を見つけることができました。

陽菜と凪はその境遇から、早く大人にならなければと思っていました。
彼らの抱えていた問題は、過度に空気・社会に順応しようとして自らの人生を生きられていないことや、本音が言えないことでした。

陽菜は空気と同一化し、一度は空に消えることになりましたが、「自分のために願って」という帆高の言葉とともに、空気に逆らうことで新たに再生し、自らの人生を生きるようになりました。

凪もクライマックスで空気を読まずに自分の本心を「子どもの顔で」叫ぶことになり、不本意な形ではあれ、問題解決への一歩を踏み出しているように思えます。
(凪は女装することで男女という「対立物を一致」させており、陽菜のために「死と再生」のプロセスを加速させているかのようにも見えます。)

夏美は「空気」に従って就活しているだけで、何が本当にやりたいこと(第一志望)なのか分からない状態でした。
夏美の課題は、モラトリアムを終わらせて大人になり、仕事を見つけることでした。

夏美は就活が不利になることも考えずに警察から逃げる帆高を助け、「空気」に抗って自分の正しいと思う行動をとることで通過儀礼を果たし、モラトリアムを終わらせることができました。
(カブで爆走したことがきっかけで自身の職業適性について考え直し、「人間好きで取材仕事に向いている」ということに気づいて須賀の事務所で働き続けることにしたのかもしれません。)

須賀は純真な本心を隠し持ったまま、表面的には空気=父に屈服し、順応してしまっていました。
これは物語の人物類型で言えば、父殺しの通過儀礼に失敗した者です。

須賀が意識と無意識の乖離という問題を抱えていたのは、きちんと通過儀礼を果たすことができなかったことが原因だと思われます。
(「空気」に従うことで明日花の死を防げなかったというような事情があるのかもしれません。)

その意味で、須賀は父殺しをやり直す必要性を誰よりも持っていました。

須賀は涙をきっかけに自身の純真さに向き合い始めますが、最後まで自らの二重性に引き裂かれていました。
しかし最終的には「俺はただ、もう一度あの人に会いたいんだ!」という帆高の純真な叫びに呼応し、帆高を拘束しようとする警察に殴りかかり、帆高を助けます。

須賀はここで初めて自身の純真さに向き合うとともに、空気に抗って父殺しを果たすことができました
だからこそ、問題を解決した須賀は再生することができたのです。

終わりに

『天気の子』の最も重要なテーマは「死と再生」であり、「父=空気殺し」でした。
これを踏まえると、新海監督がこの作品を作った意義と作品に込めたメッセージも明確になります。

SNS全盛の現代、人々が集団的に極端な方向になだれ込んでいくサイバーカスケードと呼ばれる現象が世界中で発生し、排外主義や社会の分断が問題となっています。

このような現象は良い方向に向かえば社会を変える大きな力にもなりますが、過剰に正しさを求める先鋭化した正義は息苦しさにも繋がります。

山本七平は人がブームによって集団的な異常状態になるのは、空気(プネウマ)の沸騰状態によると言いました。
SNSで自分のものではない誰かの怒りに感染し、集団的に暴走していく人々の様子は、まさに外から「プネウマ=悪霊」に突き動かされているかのように見えることもあります。

集団を支配して動かしてしまう「空気=プネウマ」の問題は日本の宿痾であると同時に、世界全体で重要な問題になってきているように思われます。

そのような「空気」=プネウマ全盛のような時代だからこそ、新海監督は「空気」に抗って自分の純真な思いを貫く若者の物語を描いたのではないでしょうか。

新海監督がまとめた『天気の子』の最初の企画書には、こんな文章があります。

 気候は狂い、世界は排外主義を強め、人を自由にするはずだったネットが相互監視と愚かさの装置になり、日本の地面は揺れ続けている。既に中年である自分自身の実感に即して言えば、これはやはり僕たち自身が選んだ世界だ。僕たちはそれを止めることができなかったし、結果的にやはりそれを選んだのだ。でも、僕たちが映画を届けようとしている若い観客にとっては、これは選択の余地のなかった世界だ。彼らが選ぶ前に、世界はすでに狂っていたのだ。
 だから今、若い観客のために映画を作ろうとしている僕たちが、世界の調和を取り戻すような物語を押し付けてはいけないと強く思うのだ。それはあまりに身勝手で無責任だ。では今、僕たちは観客になにが言えるだろう。
(『新海誠監督作品 天気の子 公式ビジュアルガイド』p.61)

この文章は、新海監督の問題意識を明確に示すとともに、独自の倫理観に貫かれています。
「正しい物語」が空々しく見えてしまうような調和が戻らない世界で、若者が狂った世界で生きることを力強く選ぶ「正しくない物語」。
それこそが今求められているのではないか。

そう考えて、「正しい物語」を描けという社会の「空気」を読まずに、「正しくない物語」を描くことを倫理として新海監督は選んだのではないでしょうか。

調和は戻らず、世界は狂ったまま。
東京、そして日本が何らかの意味で沈んでいくことも避けられないことなのかもしれません。

しかし我々はそれを乗り越え、その世界とともに生きていける。
だから気にせずに「憧れのまま走り始め、そのままずっと遠い場所まで駆け抜けて」(『天気の子』パンフレットより)良いのだ、というメッセージを新海監督は作品に込めたのだと思います。

だからこそ、ラストシーンで光が帆高と陽菜を包むのです。
その光には死の先にある再生への祈りが込められているのではないでしょうか。


※トップ画像は公式サイトより