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リカルド ~月~  第1話【物語】

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 おじょうさまを乗せた船が遠ざかってゆく。私は手を振りながら、御一家とともに過ごした日々にそっと終止符を打った。

 生まれ故郷の地球から遠く離れたこの月のやかたには、もう彼らの残像すら横切らない。
 ここで果て、月の砂粒になるまでの暇つぶしをしよう。月へと旅立つ少し前、祖父のリカルドが私に語った忌まわしき昔話を体中に刻むための儀式として、私は誰に宛てるでもなく、その物語の映写機を頭の中で回す。


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 祖父のリカルドは、奥さまのアイビーさまがまだ小さい頃からお屋敷で執事として仕えていた。祖母はアイビーさまの乳母として彼女が十二の年になるまでお屋敷にいたそうだ。
 祖父母の間には彼女より三つ上の息子がいて、一緒にいられるようにと特別に配慮していただき、親子で住み込みできる一番大きな使用人部屋をあてがわれた。


 月日は流れ、祖父と祖母はお屋敷の外に家を持つことを許された。それからは祖父だけが通いで勤め、お屋敷すべての使用人を束ねていた。

 当時、十五になった息子のリック。彼は私の伯父にあたる。彼は使用人見習いのためお屋敷に住み込みとなった。最初は、雑用から庭師の助手まで、何でもしなくてはならなかった。父親であるリカルドの顔に泥を塗るまいと、リックは必死で仕事を覚えようとした。
 
 そんな彼の唯一心休まる時間は、お屋敷のバラ園にしつらえられた石造りのベンチで本を読むひとときだった。
 ここはちょうどお屋敷からは見えない。白いツルバラに覆われて、まるで天蓋つきのベッドのようだ。
 リックはバラの隙間から覗く星空を眺めた。そう遠くない未来、人間は宇宙を旅するようになるだろう。船はもう出来ているらしいが、まだ渡航先の惑星に人の住める環境が整っていない。本にはそう書かれている。

 ベンチに寝転び、顔の上に本を開いて載せたまま、リックは大きく溜め息をついた。

「ああ、驚いた!」

 その声に驚かされたのはリックも同じであった。こんな夜更けにバラ園に立ち入る者はいない。彼は急いで本を閉じ、背筋を伸ばして起立した。

「あら?リックじゃない!」
「アイビー?…いえ、お嬢様。ご無礼、お許しください」
「いまは私たちしかいないのよ。そんなふうにかしこまるのはやめて」
「いや、しかし…」
「私たちは生まれたときからの幼馴染みでしょ?ね?」
 リックは困ったような笑顔で曖昧に頷いた。

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「こんな夜更けに外へ出るなんて、どうしたんだい?」
「今夜は満月よ。さっき大きな月が見えたの。だから、ヒマラヤ杉の上に刺さるまで眺めようと思って」
「それなら、きみの部屋から…」
 言いかけてリックはハッと口をつぐんだ。

 当時アイビーさまには、生まれたばかりの弟君がおられた。
 窓からヒマラヤ杉の見えるかつての子供部屋は弟君に明け渡し、彼女は反対側の新しい部屋へと移られたのだ。
 アイビーさまのご両親にとっては初めての若君。将来このお屋敷のあるじとなられる男のお子さまである。お二人の溺愛ぶりは周りが見ても明らかで、少なからず皆はアイビーさまに同情の目を向けていた。
 それでもアイビーさまは努めて明るく振るまい、弟君のことも可愛がってらっしゃった。

「もしどうしてもあの場所に行きたいなら、ぼくもついて行くよ」
「あら、平気よ。月の光でこんなにも明るいもの」
「アイビー、ひとりで行くなんていけない。だってきみは…」

 子どもの頃のように、リックは手のひらをふわりと彼女の頭に載せようとして、グッとくうを握り締め、慌てて引っ込めた。
 彼女の小さな肩が、いまにも壊れてしまうのではないかというくらい小刻みに震えている。何かないか。彼女を包み込んであげられるブランケットは?しかし、リックはジャケットすら持ってきていない。

「おかしなリック」

 彼女は自分の孤独に気づかないふりをしているようだった。

「ここからでもヒマラヤ杉は見えるんだよ。ほら」
 リックは柄にもなくおどけた身ぶりで彼女に手招きした。肩をすくめて笑いながら、彼女は誘われるままベンチに足を掛けた。
 白バラと石塀の隙間から、ふたりは目だけ覗かせて、向こうにそびえるヒマラヤ杉を見た。
 白く発光する満月が、ちょうど木のてっぺんまで上ってきている。

「ねえ、リック。いつか、あの月へ行ける日が来るかしら?」
「ああ、そう遠くない将来。月への船が完成したら」
「あなた、私と月へ行く気はある?」
「えっ?」
 彼女の祈るような眼差しが、リックを真っ直ぐとらえている。
「ぼくはまだ半人前で見習いの身だし、乗船できる身分では…」
「そんなことを聞いているんじゃない!」

 リックは苦しげに目をつぶった。なぜ自分はすぐにイエスと言える立場ではないのか。なせ自分はアイビーさまを抱きしめてその震えを止めてさしあげられる権利を持たないのか。

 するとふいに、ふわりと風のように何かが顔の前をかすり、手の甲には柔らかなレースの肌触りが通り過ぎた。
 目を開けると、そこにもう彼女の姿はなく、白バラのしなる枝が大きく揺れて、残像を教えるのだった。


🌜️to be continue …🌛


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