UNTITLED REVIEW|似て非なるもの
文庫本に換算すると数ページ程度にまとめたことになるビジネス書1冊分の要約を、約三千冊の中から好きなだけ読めるというWEBサービスのアカウントを会社でひとつ付与してもらった。若手社員をメインターゲットにした学びの機会や交流の場の提供のために導入を検討しているとのことで、担当者からは使用した感想などを聞かせてほしいと頼まれた。そもそも僕の中では「本は紙で読むもの」というこだわりのようなものがあるから、電子書籍およびそれに類するものには興味がない。だから、とりあえずは紙の本で読んだときに受けた印象や覚えた感慨と、サイトに掲載されている要約とを比べてみることにした。
しかしながら、科学書やビジネス書といったノンフィクションのジャンルから本を選ぶ際は、世界的な歴史学者が自身の著書で語っていた「特定の問題が自分にとって重要と思えるなら著名な出版社の書籍か定評ある大学や機関の教授が書いた科学文献を読むべき」との言葉を指標にしているので、掲載された約三千冊の要約のうち、僕が読み終えていた本は三十冊ほどだった。その既読の本の中に、内容の今ひとつ思い出せないものがあったので、この機会にもう一度読んでみることにした。もちろん、要約ではなく、紙の本のほうを。
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その新進気鋭の哲学者の著書は、やはり言説も基本思想も難解だった。どうりで本の内容が長期記憶に留まっていないはずだと独りごちる。数年前に公共の放送局が制作したこの哲学者の特集番組で彼の話す速度に合わせて字幕を流すものだから脳内処理が追い付かず、何度も録画の同じ場面を見直したことをふと思い出した。とはいえ、同氏の提唱する新しい哲学論の記述は控えめ。今そこにあるいくつかの世界の危機的な状況を哲学者の視点で語るというのが同書の主旨である。
この本で語られる、静かに進む世界秩序あるいは社会構造の根本的な変化やテクノロジーの先鋭化による利便性向上が招く人間の主体性喪失などを紐解く言葉は、随所に辛辣とも思える表現はあるものの多くの示唆に富む。なかでも、民主主義の危機についての主張には、最近ITベンダーから納品されたセンスの悪いシステムの仕様に対する自身の怒りを鎮めるために取ろうとした行動が僕の中に巣食う非民主的な思考のせいだと気づかされたし、近ごろしきりにメディアが人間を凌駕する存在として生成AIをもてはやす風潮への苛立ちも、テクノロジーの危機の章で明らかにされる同氏の見解によって溜飲の下がる思いがした。
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さて最後に、ビジネス書の要約が読み放題というWEBサービスへの僕自身の印象だが、確かにそれぞれの書籍に書かれている事柄の表層を上手く捉えているから、本の概要を手軽に把握することができるという点については「明白な事実」だと言える。しかし、どの要約を読んでも、実際の本の読書中や読み終えたときに抱いた感慨やエモーショナルな心の動きはなかった。だから、同サイトが謳う『1冊を10分で読める』との言葉は事実ではない。読む者が心動かされるはずのディテールがことごとく省かれているからだ。いうなれば、村上春樹作品の魅力を語る際に、物語の中に潜むアイロニーやメタファーについて触れないのと同じ。要約はあくまでも本の概略に過ぎない。
読書と要約を読む行為は似て非なるもの。この前提に立って利用するならば、当該サイトの用途は色々とあるだろう。ただ僕としては、ビジネス書1冊分の要約を10分で読む手軽さよりも、1冊の本を読み終えるのに1週間ほどの時間を費やしてもいいから、著者がふと垣間見せる本音や、理論を補完するために用意された何気ないエピソードといった、メインストーリーとは別のところで語られる細部にまで目を向ける手間暇を大切にしたいと思っている。
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