UNTITLED REVIEW|ホヤガラスの炎
その短い物語を読み終えたとき、朝の通勤電車の車内で周囲の目も憚らずはしゃぎながら携帯ゲームに興じる少年たちの姿が脳裏をかすめた。彼らもいつかは大人になるんだろうか? そんなことをふと思った。
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休日になると走っている。その一方で、平日はまったく走らない。僕にとって「走る」とは落ち着いた色合いのコーディネートにアクセントカラーとして添えたポケットチーフのようなもの。日常におけるメインアイテムではない。とはいえ、気が向けば自体重トレーニングの定番であるトランクカールで腹筋を鍛えているし、オフィスで摂る昼食は、デスク上に並んだアイテムを見た娘くらい歳の離れた女性スタッフから「何を目指してるんですか!? 」と呆れられるほど克己的だ。よく考えてみると、もはや生活の真ん中に走ることがあるのかもしれない。気づいたときには地球が太陽の周りをすでに回ってたみたいに。
休日の雨が恨めしい。外へ走りに行くことができないから。そんな日は、昂る気持ちが行き場を失う。ある時、走ることがテーマの小説をやり場のない気持ちの受け皿にしようと考えたが、長距離走を扱った作品は意外に少ない。すぐに思いつくのは昔に読んだ三浦しをんの『風が強く吹いている』と池井戸潤の『陸王』くらいのもの。どちらの作品にも物語から放たれる炎のような情熱によって全身がほだされた。そこが望んでいるものと違う。今の僕は「走る」という行為にもっと内省的なもの求めている気がする。オイルランタンのホヤガラスの中でゆらめく小さな炎を静かに眺める時間のようなものを。
今回読んだ短編集に収録された小説のひとつがまさにそのような作品だった。初出は今から四十年ほど前。偶然立ち寄った書店のレジ近くのフェア棚で見つけた。物語の主人公は、心に不調をきたして訪れた心療内科で医師から走ることを勧められた男。彼はその言いつけを守ってその日から走り始める。吐く息が白く凍える夜も、微かな草いきれが鼻孔にまとわりつく朝も。走る目的なんてない。ただ走りたいから走る。描かれるのはそんな彼が走りながら目にする景色。そして、走っているときに体と心が発する内なる声。同じ走る者としてシンパシーを感じる描写も多かった。
毎晩同じコースを走る彼は、墓所にたむろする暴走族たちと言葉を交わすようになる。でもそこに馴れ合いはない。互いに距離を取ることを心得ていた。昼の街を追われた者同士の静かなる共同戦線。そんな印象を抱く繋がりだった。ある日、彼はそのグループに所属する一人の青年が大人へと成長する瞬間に出会う。かつて、自分が大人になったと感じた日のことを僕は不意に思い出した。
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大人になるとは、大人の世界に続く階段を一歩ずつ上って行くイメージが今でも世間の主流になっているようだけど、僕はそうは思わない。現実には、ある日突然その世界へと繋がる扉が目の前に現れて、見えない誰かがドアノブに手をかけることを強いる。その瞬間が訪れない、あるいは扉の存在に気づかない者は、たぶん一生かかっても大人にはなれない。大人になるのは案外難しい。
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