ただ、思い出を吹き込みたい。のかもしれない。

12/31

入院中の私は、年末特集の音楽番組を見ていた。今までにないくらい集中してテレビを見つめる。黄色いカーテンに囲まれた私だけのスペースなのに、四六時中気を使わなきゃいけない病室は居心地が悪い。カーテン越しの他の患者さんに迷惑が掛からないように、心の中で歌ったり、笑いを堪えたりする日々。廊下の向こうには叫んでいるお爺さんや、カーテンの向かいにはずっと寝ているお婆さんがいる。「看護婦さ〜ぁん。助けて〜ぇ。」


小さな画面に映るステージの中心で、愛を叫ぶ歌手たち。リズムに合わせて、観客が手拍子を送る。きっと全国の視聴者も愛についての歌詞を口ずさんでいるのだろう。
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普段、本をあまり読まない私でも大好きな小説がある。

村上元気の『4月になれば彼女は』は、印象に残るシーンや文が読む度に違うくてオモシロイ。まだ読んだことがない人はどうぞ↓ (前に書いたnoteでも少し引用しました。)


始めて彼氏ができたアフリカ滞在から帰国した私は、一緒にいる未来が見えない彼氏にどう別れを切り出そうか迷っていた。そして、憧れだったアフリカでの8か月は将来への答えを導いてくれるどころか、より広い迷路への入り口となった。そんな迷いや不安が漂う年明けの本屋さんで見かけたこの本。

「四月にもなれば私の人生はどうにかなっているだろう」という、無責任な願いに優しく寄り添ってくれるような題名に運命を感じた。

今日は、そんな運命の小説を読んで思ったことを書いた。

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06/06
今日は下書きに眠っていた投稿を書き終えることにする。
しなければいけない課題から逃避したい意欲が、procrastinationしまくったこの記事でさえも逃げ道として活用させる。

そう、多分大晦日の病室で思ったことは題名にある通り

「思い出を吹き込みたいだけなのかもしれない。」ということ。

前の投稿でも書いたけど、
歌には思い出が吹き込まれる。

同じように、読んだ本にも思い出が吹き込まれる。

ということは、私たちが音楽を聴くや本を読むという行為は思い出を吹き込むという行為なのかもしれない。
この気づきが、私たちはなぜ恋をするのかという疑問の答えになるのだと思う。

なんとなく気に入って聞いていた曲よりも、
恋人と聞いた曲や、誰かを想って聞いた曲って何かより特別なものになりませんか?

別れてから一年たった今日でも、恋人と毎日のように聞いていた曲を聴くと、あの時の記憶や感覚が、ついこないだまで続いていたかのように蘇ってきたり、誰かを想って聞いていた曲も、今日聞くと「どうしてあんな幻想に心を寄せていたのだろう」と思いながらも、当時のように切ない気持ちが込み上げてくる。

私たちが人を好きになるという行為をするときは、
その人に好意を寄せることがメインなのではなく、
何かに思い出を吹き込むことを目的としているのかもしれない。

好きでいるということは行為です。
愛するということが、エーリッヒ・フロムの言うように練習の必要なスキルとするならば
誰かを好きでいるということは、自分の人生に思い出を吹き込むための行為なのかもしれない。


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