君のいない黄昏(小説)

「別れましょう」

紅茶のように綺麗な茶色をしているね。そう言葉をかけようとする前に瞳がまるで水面のようにふるふると震え、にじみ、綺麗な涙がこぼれた。ティーカップに入った紅茶の水面も、ふるふると震えていた。綺麗だな、と素直に思うと同時に、言葉の意味がやっと胃の腑に落ちてきたようだった。

「別れる? 君と僕が?」
「他に付き合ってるカップルがいても、私興味ないわ」
「そりゃそうだね」
「別れましょう」

彼女は涙を2、3粒とこぼしながらうつむいた。ハンカチでぬぐうみじめなことはしない。孤高な君にその涙はよく似合っていた。君が決めたことなら仕方がない。どんな理由であれ、僕たちの恋人関係はここで終わった。一年とちょっと。夢みたいな時間だった。

「……何も、言わないのね。理由、聞かないの?」
「君が決めたのなら、それが一番の正解だと思う。君は、そうすると決めたら、僕がどんなに追いすがったって考えを曲げないよ」
「そういうところ、好きだけど、嫌い。でも、好きよ」
「僕は、どんな君も大好きだよ」

絹糸のようにつややかな黒髪が肩にかかり、耳朶に揺れる長いイヤリングがキラキラ輝いている。白いブラウスに紺色のプリーツスカート。もうきっと会えないのだろう。そう決めたら、君はそうする誇り高い女性だからだ。ら何かを二、三言つぶやいたけれど、僕は君の美しい姿のすべてをこぼさないように刻み付けるのに必死だったので聞こえなかった。ふふ、と笑う頬には涙の痕が筋を引いていた。仕事じゃこんな顔をすることはないのだろう君が見せた涙は、僕がこれまで見てきた涙の中で一番美しい。

喫茶店を出ると、駅前の商店街はごみごみとしている。夕飯の買い物どきなのか、自転車にのったおばちゃんや仕事帰りのOLがスーパーに出たり入ったりしている。

「ここでよくコロッケ買ったね。君はメンチカツ」
「薄くてコスパが悪いのにどうしても毎回食べたくなっちゃうんだよね」
「買っていく?」
「今日は、もう夕飯決めてるの。買うの?」
「ううん、僕も、もう夕飯は決めてるんだ」
「そっか」
「そうなんだ」

駅へ一歩ずつ近づいていく。空にはうろこ雲と朱色の夕焼け。あつらえたような別れの夕暮れだった。彼女もじっと空を見て、紺色のパンプスを前に出して歩く。すっとくびれた足首が大好きだった。いつもしている真鍮のネックレスもよく似合っていた。僕があげた、安物の指輪もいつもしてくれていた。華奢な手首にある、黒いベルトの時計もシックで、君にあるべきものだった。

「あ、なくなってる」
「何が?」
「なんだったろう。なんだったかな」
「いつも見てるのにね」
「なんだったろうな。金物屋さん?」
「包丁、一本ダメになって買ったような気がする。違ったかな? 駐車場になっちゃったね。一日600円」
「安いのかな」
「わからんね。僕たち車持ってないからね」
「私は免許も持ってないわ」
「駐車場の方がもうかるのかな」
「そうかもしれないね」

まばらに止まる車を、二人して何の気なしに数えて歩き始める。駅はすぐそこだ。改札から出てくる人は、四方八方にばらけて帰っていく。僕は立ち止まり、君がパスケースを鞄から取り出すのを待つ。君が身に着けていたものはいつも上等で、ひんやりしていて、君にぴったりだった。正面に立つと、君も僕をじっと見ていた。また、瞳がゆらゆら揺れている。すぐに盛り上がって、涙になって流れた。鼻が赤くなっている。小さな白い団子鼻。白玉団子みたいだと言ったら、君はよくわからない、と言っていつだか笑っていた。

「ふられた方は僕なのに君が泣くんだね」
「どうしてかしらね」
「ごめんね」
「謝るようなことなんか、一つもないわ。私たち」
「うん」
「……明日は?」
「大学はないから朝はバイト、あとは特に予定ないや。君は?」
「仕事」
「そりゃそうか」
「うん」

暗くなり、駅の中が今までよりも明るく見える。商店街の街灯が一斉に灯った。君ははっとして顔を上げる。駅の改札口にも、蛍光灯がともった。

「行くね」
「うん、気を付けて」
「双葉くんも、気を付けて」
「ありがとう」
「こちらこそ」
「ありがとう」
「ありがとう」

見送ると声をかけてしまいそうだったから、彼女が改札に向かうのと同時に駅を後にした。僕たちと同じように別れを惜しんでいるのか、プードルを連れたおばちゃんが、同じようなおばちゃんと何度も別れの言葉を交わしていた。じゃあね、またね、今度はどこの集まりで会うかね、柏の会かね、ああそういえば柏の会の篠塚さんが――、永遠に終わりの来ないお別れ。白い毛を綺麗にトリミングされたプードルが、ふわふわのうすピンクのよくわからない服を着ていた。バレエで着るようなふわふわのスカートがついた服だ。困ったように座って、ずっと首をかしげている。彼女ならこの服の名前を知っていそうだと思う。僕はじゃあな、とプードルにつぶやいた。
来た道をゆっくり戻る。駐車場になってしまった場所は、やっぱり金物屋だったような気がする。安物の包丁で何とかやっていたけれど、かぼちゃを切ろうとしたら刃先が折れてしまって彼女と一緒に買いに来たのだ。そういうどうでもいい思い出が、一つ消えたのだと思う。あそこの服屋で、初めて彼女が泊まりに来た夜のパジャマを買った。誰がどんなときに着るのかよくわからない服ばかりの中で、柔らかいキルト生地の青い小花柄のパジャマ。さっきの肉屋でやっぱりコロッケを買おうか迷いながら、ぎっしりぶら下がる手書きのメニューを横目で見ながら結局通り過ぎた。本当は夕飯のメニューは決めてなかったけれど、なんとなく強がりを言ってしまっただけだ。ここも、あそこも、いつか駐車場になる日がくるのだろうか。僕はその時どうしているだろう。君はどうしているだろう。
駅に向かうのか、泥で汚れたユニフォームの野球少年たちが団体でやってくる。商店街から離れていた場所で、すれ違うのが僕しかいないのに、彼らは律儀にこんにちは、ちは、ちは、ちは、と言って去っていく。予想以上の大群で僕は面食らい、何も言えないで彼らを見送った。君がいたら、たぶん、ちゃんとあいさつできていたと思う。

「本屋、行くか」

商店街のはずれにある本屋に立ち寄り、一時間ほどいろいろ物色して、結局何も買わないで帰った。


喉がひどく乾いて目が覚めた。使い古した座椅子の上で居眠りをしていたようだった。部屋は真っ暗で、どれだけ眠ってしまっていたのかもわからない。空腹で胃がぐるぐると動き始める。カップラーメンを持ち出して、鍋で湯を沸かす。やかんもポットもない、と彼女は笑って嘆いていたけれど、付き合ってからは、いつも彼女がお湯を沸かしてお茶を入れてくれた。彼女と付き合い初めてから足したものはたくさんあったけど、やかんは買わなかった。あの金物屋にあっただろうに、と、今更思う。
湯が沸くまでと、こたつ机の上にあるタバコをつかみ、窓を開けてベランダに出た。この部屋のいいところはこんなに狭いのにベランダがあるところだ、と言って彼女は洗濯物を干してくれた。タバコを吸う僕をちょっとにらんで、干すときは吸わないで、と言っていた。彼女だけが使っていた、ピンク色のスリッパが置いたままになっている。このスリッパも、あの商店街のどこかで買ったんだと思う。
タバコの煙がゆらゆら上がっていく。追っていくとその先に月が丸く輝いていた。何度も見た月。いつもと同じはずなのに、スリッパが置いたままになって、まるで彼女が月に帰ってしまって、そこにいるように思える。君が月に帰ったというなら、君が月に住む宇宙人だっていうのなら、僕は火星人になろう。宇宙人になった方が、なんだか君にまた会えるような気がしてきた。僕は火星に帰ろう。ばかなことだ。
そう思うと、自然に涙が流れてきた。今やっと、君と別れたということが、胃の腑に入った後にちゃんと消化されて、全身に満ちている。ぞっとするほどさびしい。

「は、はははは」

涙が止まらなくなって、そのまま呆けた笑いがこぼれる。タバコを吸う間もなく、灰がはらはら散っていた。
湯が沸いたらしい音が台所から聞こえていたが、僕はやるせなくベランダにしゃがみこんだ。

END

Theme song/「どこもかしこも駐車場」*森山直太朗