ふるえてなんかない(小説)

恵(けい)君は、私の友達の中にはいないような、髪の毛の色をしているけれど、美容師と聞いて納得した。いつも人懐こい笑顔を浮かべていて、物腰もやわらかい。初対面のときは白に近い金色の少し長めの髪にパーマがかかっていたのに、今は赤に近い茶色で長さもすごく短い。そんなに色を変えてばっかりで髪の毛大丈夫なの、と聞くと、大丈夫、親父は禿げてなかった、といって笑った。目元にあるほくろをこするのが癖らしくて、ちょっとした沈黙の間も、どうってことない世間話の合間にも、彼はよくほくろを触っている。目は二重でしたまつ毛が長いので目力がある。壮(そう)ちゃんは一重の切れ長の目をしているから雰囲気が全然違う。壮ちゃんは、その漆黒の瞳で人を殺してしまうんじゃないかと思うときがあるけれど、恵君の目力はまるで、そう、少女漫画の主人公のようにきらりとして光る。色素の薄い茶色い瞳は人の奥底を見透かしてしまいそうなほど、澄んでいるのだった。


「恵がさ、今度飯作ってくれるって」
 朝、壮ちゃんが家を出がけにそう言った。
「え? そうなの? いつ?」
「来週ぐらい。こないだヘアモデル紹介してやってたじゃん。そしたらいい賞とれたんだってよ。そのお礼だって」
「うん、まみちゃんから聞いたよ。まみちゃんがお礼もらったっていったし、私はいいのに」
「まあいいじゃん。恵の飯、うまいし」
 確かに恵君は料理が上手だから文句はない。私はすっと黙った。壮ちゃんは靴を履いて玄関の姿見で全身をチェックする。スーツが似合う。大学は休みだし、バイトは昼からなので、私はパジャマのまま彼の背中を見送る。ねえネクタイ曲がってない? と言うと、首元をそのまま突き出す様にするので、いつもどおりに直してあげる。壮ちゃんは、その切れ長の瞳で私のことを二、三秒見つめてからキスをしてきた。いつもなんでも急で、そうして少し乱暴だ。私は素足で靴の並ぶコンクリートの打ちっぱなしへ落ちて、その寒さでびっくりして口が開くと、壮ちゃんはお構いなしに舌を滑り込ませてくる。コーヒーと歯磨き粉の味が半分ずつする。
「ん、じゃ、いってらっしゃい」
「じゃあね」
壮ちゃんはあんまり笑わない。小さく手を振って出て行く。私の足はすっかり冷えてしまった。冬用の、もこもことしたスリッパがもう出ているはずだから、買いにいかないと行けない。壮ちゃんの家に私物をじわじわ増やしていくのを、付き合っていた始めは楽しく感じていたけど、今は少し怖い。このまま抜け出せなくなっていくんじゃないか。あの、殺し屋のような瞳に私は捕まっているんじゃないだろうか。来年の三月に大学を卒業したら、今住んでいるアパートは引き払えばいいんじゃない、と、壮ちゃんは言う。それで俺も、華衣の家に挨拶に行くしさ。追々さ、と、彼はなんでもないことの様にすらりという。私は、曖昧に頷くことしかできない。

「新川恵です。めぐみ、ってかいて、けい、って読みます。職業は美容師、なんで、ヘアモデル募集中ですのでよければお願いします」
初めて会ったのは、二年前の合コンだった。壮ちゃんとの出会いもそこだったから自己紹介を彼もしていたはずなのに、私はなぜか、恵君の第一印象しか覚えていない。恵君は、五人いた男性陣の中でも、奇抜な髪色と体の華奢さと顔の綺麗さで一人、よくも悪くも浮いていた。恰好も誰よりもラフで、無地のパーカーと濃い色のデニムだけだったのに、それでも、垢抜けた雰囲気が伝わってくる。席が向かい側だったこともあって、恵君とはちょこちょこ話をした。話をすればするほど、彼の物腰の良さや性格の良さをびしびし感じた。まっすぐすぎて、好きには慣れなさそうだ。好きになったら申し訳なくなりそうな感じがする。でも、とても友達になりたいと思う。恵君は、そういう人だった。
「新川(にいかわ)君、すごい髪の色だね。さすが美容師」
程よくお酒がまわり、皆が場所を変わる中で、グラス片手に壮ちゃんがふらりとやってきた。一重の瞳と、男性陣の中で誰よりも背が高くてガタイもよかった。中学の先生をしていると言っていたけれど、怪しげだ。切れ長の瞳で私のことをすと流すように見る。その時やっと壮ちゃんを私は認識して、それと同時にどきりとして、お酒の所為も相まってか胸がどくどくと揺れ、耳の奥が熱くなる。つまり壮ちゃんは私のとても好みの顔だった。彼は私の隣の椅子に腰かけ、斜向かいに座る恵君をじっと見た。
「群(むれ)さん、と、新川さんは、友達じゃないの?」
「違うよ。本当は新川君ここに来る予定なかったでしょ」
「あ、うん、ピンチヒッター。垣内(かきうち)が共通の友達でさ。たまたま俺が仕事休みだったからね」
離れた席でひょうきんな仕草をして、私の友達たちを笑わせているメガネの男性を二人が同時に見た。馬鹿だなあいつは、と、壮ちゃんが鼻で笑う。どきりとした。たまによこされるその切れ長の視線が、私を縛る。
「じゃ、二次会行く人?」
一次会の店を出て連絡先を交換し、皆がぞろぞろと歩き出す。私は間延びしたメンバーの最後尾にいて、いそいそとついて行こうとすると、後ろから腕を掴まれた。壮ちゃんだった。
「抜けない?」
壮ちゃんは笑わない。笑わないでも、彼は、人を引き寄せる。そういう人がいるんだっていうことを、私はその時に知った。女子大に通っていて、女の子の笑顔ばかり見て育った私には驚きだった。ただ、嬉しい反面、黙っていなくなることにも引け目を感じて、友人たちの背中を見るが、誰も気づかずに先に行ってしまう。ふと、恵君が振り返って目があったような気がしたが、彼もまた歩いて行ってしまう。コート越しに掴まれているからわかるはずがないのに、壮ちゃんに掴まれている手首が熱く燃えるようだった。その後すぐに付き合うようになって、壮ちゃんは、お前が俺のこと好きなんだって一瞬でわかった、と、笑った。

「華衣(かえ)ちゃんごめんね。わざわざありがとう。買い出し、俺だけでもよかったけど、なんか苦手なもの買っちゃってたら悪いし」
「ううん、全然いいの。むしろ、気を遣わせちゃってごめんね。別に私たちにお礼なんてしてくれなくてもいいんだよ」
恵君は改札を抜けて、笑顔を見せる。ちょっと寒くなってきたよね、と言って、黄色いマウンテンパーカのジップを首元まで引き上げた。いつもシンプルなものを着ているのに、とてもおしゃれに見える。周りにいる男の子もこういう恰好をしている子が多いのに、どうしてか、恵君が特別格好よく見えるのは、その性格の良さを私が知っているからなのと、やっぱり、顔が綺麗だからだろう。恵君には妹さんがいて、写真を見せてもらったことがある。妹さんは恵君に比べると太っているし、おそらく私よりも太っているように見えたが、恵君と同じようにとても美人だった。口の悪い壮ちゃんも、妹太ってるけどそれなりにまともな顔してるんだな、と言ったぐらいで、恵君はちょっと困ったように笑っていた。
「まだ通ってる? 料理教室」
駅前にあるスーパーで食材を物色する。食材の買い出しに付き合ってほしいと言ってくれたのも、私が恵君にご飯を作ってもらうことを、必要以上に申し訳なく思わせないためなのはわかっていた。
合コンで知り合った壮ちゃんと恵君は仲良くなって、私と壮ちゃんが付き合うと初めて話したのは恵君だった。彼は喜んでくれて、ご飯作るよ、と、なぜかおいしいちらし寿司を作ってくれたのがきっかけで、私たちはますます仲良くなった。恵君にご飯を作ってもらうのはこれで三回目か四回目で、私も壮ちゃんも、恵君の作ってくれるご飯が好きだ。彼も作るのが好きだけど、人数がいないと食べてもらえないからといって、私たちに作ってくれるのを楽しんでいる風だ。有名な料理研究家の料理教室にも、週一で通っているのも教えてくれて、聞けばちょっとしたレシピをメールで教えてくれる。でも、作ってもらってばかりで悪いな、と、思っているのを察してくれるらしく、こうして買い出しにはいつも呼んでもらう。相手にお願いすることで相手の負担を軽くするような気遣いは、壮ちゃんにはない。壮ちゃんは、有無を言わさずに自分で全てやって、相手の思う申し訳なさも全部ひっくるめて、相手の中身を壮ちゃんで全部いっぱいにしてしまうと思う。まとめ役でもあるし、自分本位でもあって、相手への支配欲が強いのかもしれない。私はただ、壮ちゃんについて行くだけでいい。壮ちゃんは揺るがなくて、恰好いい。だけど、そういうことにはっと気づくと、私の中身はこの二年で、壮ちゃんで埋め尽くされているような気がした。
「通ってるよ。どう? 華衣ちゃんも一緒に通わない? 花嫁修業ってことで」
「あはは、修行ねえ」
「でも、案外すぐなんじゃないの?」
食材を選ぶ合間に挟まる何気ない会話なのに、言葉に詰まる。変な風に思われてしまうかもしれない。でも、言葉が出てこない。結局まだ、冬用のスリッパは買えていない。友達と買い物に行くと、目には入ってくるものの、手を伸ばして買うことまでができなかった。
「ん? どうしたの?」
恵君は真ん丸の瞳で私を見てくる。見透かされてしまった方がいいのかもしれない。恵君は、その真摯さで私の悩みを聞いてくれるだろう。
「え? ううん。まだ、私も子どもだし、結婚するとかって遠いなあ。あ、ねえ、恵君はいないの? 彼女。絶対いるでしょ? 全然教えてくれないんだもん」
「まあまあ、まだその話をするには早いでしょう。お酒入ってないとさ」
「何それ」
水菜と、シメジと、しいたけと、と彼は呟きながらほくろを指先でいじっていた。そういえば、妹さんには目元のほくろなかったね、と言うと、よく覚えていたね、と、恵君は笑った。冷蔵用のケースから、冷気の生臭さが香っている。この匂いかぐと、スーパー、って感じするよね、と笑いながら私たちはするりと食材選びに戻る。
特製の豆乳鍋にはバターを入れるんだよ、と言って、白い湯船のような鍋の真ん中に恵君はバターを落とした。お出汁の匂いが一層強くなり、甘くてまろやかな湯気が上へ上へと立ち上っていく。奮発して買った白子と鱈と牡蠣が、弱い沸騰から湧き出る小さなあぶくに揺られている。小さな生き物みたいでちょっと可愛い。他にも、恵君が買ってくれたオリーブオイルでたことほうれん草のカルパッチョを作ったし、お米には、これまた初物だという栗を入れて混ぜご飯にした。どれもこれもつやつやしてまぶしくて、そして、とても、おいしそうだ。手間をかけてつくね団子もつくった。小皿と箸を用意する前から、壮ちゃんが腹が減ったもう駄目だとぶつぶつ言いだしたので、私も恵君も笑ってビールをグラスに注ぎ、三人で乾杯した。ぶりんとした牡蠣の腹の感触を唇で楽しみながらかぶりつく。
「わー、牡蠣おいしい。もう冬の味覚だね」
「ほんとだ。今年初鍋だよ」
「それは違う、今年初鍋って、今年は一月から始まってるんだから一月も二月もしこたま鍋食ってただろ」
「群君、それは屁理屈だよ」
壮ちゃんはビールを飲み干し、まあ、うまいからどうでもいいけど、と言う。酔うと少し怒りっぽくなる壮ちゃんにハラハラするけど、恵君がいるから今日は大丈夫だろう。ふと、恵君に鍋をよそおうとすると、いいよ、華衣ちゃん、俺がやるからといってお玉も菜箸も貸してくれなかった。
「あ、ねえ、そういえば、恵君の彼女って? どんな人なの?」
ビールがなくなってしまったので、市販のハイボールを冷蔵庫から出しながら、恵君に問う。壮ちゃんは、鍋に残った〆のおじやの焦げた部分を、お玉でこそげては自分の器に移していた。興味があったらしく、ふと彼も顔を上げる。恵君はえ、その話? と、潤んだ瞳を泳がせた。二人のやりとりを見つめながら、空いたお皿を重ねてシンクに突っ込んだ。食べ終わったテーブルはいつもどこか悲しくて、兵どもが夢の址、という、芭蕉の句を思い出してしまう。笑われそうなので、壮ちゃんには話したことはない。男の一人住まいだけど、このマンションはキッチンが広くていいから、いくらでも洗い物をためてしまう。壮ちゃんがお玉から手を放したので、お鍋もそのままシンクへ運んだ。兵どもの夢の址すら処分してしまったので、テーブルはすっきりする。くるくる動いていた私に変わって、壮ちゃんが恵君を尋問している。
「どうなの? いるの?」
「俺、こういう話苦手なんだよな……」
「苦手かどうかは関係ない。いんの?」
問い詰める姿を見ると、壮ちゃんは意地悪な先生なんだろうな、と、思う。
「いるといえばいるし……いないといえばいないし」
「はあ、何? セフレってこと?」
「あ、いや……」
言葉に詰まる恵君を見て、壮ちゃんがにたりと笑った。何か悪いことを考えているのだ。普段滅多に笑わない彼が笑う瞬間を見ると、私は今でもドキドキとするし格好いいと思うけれど、彼の頭の中を見たいとは思えない。大体、あんまり褒められたものではないことを考えているから。
「じゃあ、好きな人はいるの? まあ……大人だから体だけの相手がいても許しましょう」
私の言葉に、恵君は少しほっとしたようだった。
「ああ、でも妹よりも年下の子にこんなフォローをされると悲しいな」
「ばーか」
壮ちゃんは呆れたようにそう言い、あっち行こうぜ、とグラスを片手にリビングの方へ移動した。じゃあ洗い物だけ先に済ませようか、と恵君が腕まくりをしたけれど、後にしよう面倒だし、と私は笑って恵君にリビングへ行くようにグラスを差し出す。彼はじゃあ、後で、一人でやっちゃわないでね、と小さく私に言い、一緒にリビングのソファに腰掛けた。
借りてきた洋画のDVDがエンドロールに入る頃には、私たちの酔いもすっかり冷めていた。食後に食べようと、恵君が買ってきてくれていたケーキの存在を思い出す。そういえばケーキあったよね、と、言いだそうと口を開いたら、テレビを見つめたまま壮ちゃんが先に言葉を発した。
「セックスすっか」
「え?」
「は?」
私と恵君が聞き返したのは同時だった。壮ちゃんはどうってことないって顔で私を見て、恵君を見る。ハッピーエンドのDVDからはゆるやかにエンディングの曲が流れていて、恵君は明日仕事なんだって話してたから、この会はもうお開きなんだっていう雰囲気だったのに、さっきにたりと笑ったときに、これを思いついていたのだと、唐突に分かった。
「なんか鍋ってすごいエロくない? 俺ずっとしたくてさ」
「……じゃあ、俺帰るよ」
恵君は壮ちゃんのことは見ないで私をちらりと見、立ち上がる。でも、それをいとも簡単に壮ちゃんが遮る。きっと、恵君は壮ちゃんに屈する。壮ちゃんはそういう人だ。
「いいよ帰らなくて。三人ですればいいし」
「ばっ……何言ってんの」
「セフレ多いんだろ? いいじゃん、今更。華衣ともセフレになれば。な? あ、でも、俺がいるときだけな。二人でするのはダメだな」
「……壮ちゃん、酔ってるんでしょ。新手のセクハラだよ?」
私は笑顔で言ったけれど、ソファに寝そべっていた壮ちゃんは、急な勢いで起き上がり私の腕を掴んだ。あの、合コンのときのように優しくではなく、ぎゅうと、まるで鎖をはめるみたいに思いきり。付き合い始めて二週間か三週間たったころ、本当に些細なことで私が怒らせたとき、壮ちゃんはこうやってぎゅうと手首をつかんだ。あんまりにも思いきりつかまれて血流が止まり、指先がしびれてしまったときに私は初めて、この人はどうしようもない人なのだと思って泣けてきた。つい先日だって思いきり叩かれて、掴まれて、痣になった手首の指痕は、最近やっと消えたというのに。本気なのだ。壮ちゃんは。恵君は動けないようで、じっと立ったままだ。DVDが止まり、メインメニューの画面に切り替わるのを目の端で捉えながら、壮ちゃんの近づいてくる口を受け入れる。目は開いたまま。視界の半分は壮ちゃんの顔で埋まり、もう半分で恵君を見つめる。お願い、帰らないで。私は恵君にゆっくり手招きをする。壮ちゃんが掴んでいる腕は、もう、指先の感覚が遠のいていく。ビールの味のする壮ちゃんの舌が私の歯を撫でた。恵君が諦めたようにそっと近づいてくる。壮ちゃんは私から顔を離し、私の後ろに座る恵君を見る。恵君の細い腕が私の腰から前へと伸ばされる。ああ、もう、どうしようもない。壮ちゃんが微笑んだ。なんて神々しいんだろう。
最中、熱でくらんだ視界で恵君が壮ちゃんにキスをしたのを見た。仰向けに横たわる私の頭側には恵君がいて、壮ちゃんは私の足元にいて、二人は私を弄んでいたのに、恵君が勢い余ったのか上半身を屈ませるようにして壮ちゃんにキスをしたのだ。壮ちゃんは積極的に応戦するわけではなかったけれど、ただその唇を受け入れていた。見てはいけないものを見たような気がして、そもそも三人が裸でしていることが、あってはならないようなことで、なのに私は気持ちが良くて、情けなくて、私は目をつぶった。
壮ちゃんは終わると裸のままベッドに入って行って、私と恵君は脱ぎ散らかした服を黙って身に着けた。立ち上がるのは億劫だったし、汚れたリビングのカーペットをどうしてよいのかで頭がいっぱいだったけれど、恵君がゆっくりと頭を撫でてくれたので少しほっとした。
「帰るよ」
彼は相変わらず優しい声でそう言った。ごめんねも、ありがとうも言わないでただそう、優しく言ったのだった。私はうん、と頷いて、駅までは送る、とつぶやいたのだけど、もう終電もないし、始発もない。どうやって帰るの、と、問うと、歩けなくはないから歩くよ、と彼は相変わらず穏やかに言うのだった。
「だからいいよ、見送り」
「ううん、いいよ……送る」
「さっきのスーパー、二十四時間営業だったね」
「うん」
「ちょっと、寄っていくから、そこまで、じゃあ」
「うん」
ここでもまた、彼の優しさが痛い。
深夜は冷えた。パジャマ替わりにしているパーカを秋用のニットワンピースの上から羽織っただけでは、温かくない。している最中は熱くて汗をかいたせいか、体が凍えるようだった。恵君も寒いようで、マウンテンパーカのジップを目いっぱい上げて、肩をいからせている。寒いね、私がつぶやくのと、星が見えるね、と彼がつぶやくのとは同時だった。掴まれていた方の指先の感覚がない。寒さの所為ではなかった。
「何買うの?」
昼間に来たときは緑の野菜たちが生き生きと顔をそろえていたのに、今やがらがらになったワゴンが、まるでこの店が閉店をするよな雰囲気を醸している。商品の入れ替えらしく、若い男の店員が面倒そうにワゴンから野菜を回収していた。肉売り場も、棚には赤い肉はなく、白い棚の底だけが煌々と電気で照らされている。恵君は黙って惣菜売場へやってくる。惣菜もほとんどがなくなっていたけれど、お寿司の鉄火巻きが一パックと、レンコンのはさみ揚げが一パックあった。華衣ちゃん、どっちが好き、と言われて、レンコンかな、と答えると、彼はレンコンのパックを手に取ってそれだけを買った。
「妹が、帰ってきておかずないと可哀想かなって思って」
「妹さん、まだ家にいないの?」
「結構、外出癖? みたいなのが、あってさ。男のとこ、ほっつき歩いてるのかもしんないけど。ま、そうならいいんだけどね」
「そっか」
「うん」
明るいスーパーの前で、恵君はぼうっと立っている。私はなんて声をかけていいのかわからなくて黙る。別に、笑って流せばいいんだろう。壮ちゃんがごめんね、とか、バカでしょ、とか、だけど、もっと違う言葉が出てきてしまいそうで、口を開くのが怖い。
「……ごめんね」
「え? あ……ううん、私は別に……壮ちゃん、気まぐれだから……」
「あっ」
「ん?」
「洗い物、するの忘れちゃったね」
彼はごめんね、と、やわらかく微笑んで踵を返して行ってしまった。私の言葉など、待つ気はないと言うみたいに。

あの日、恵君を見送って部屋に戻った私のことを、壮ちゃんはベッドの中で起きて待っていて、ごめん、と小さく深く謝って、ぎゅうと抱きしめた。私は苦しくて、いいよ、と、息切れしながら言うしかなかった。
それから、壮ちゃんは普段通りだった。恵君と飲みに行ったり、マンションに連れてきた。恵君が家に来れば、私も一緒にご飯をつくった。かぼちゃのシチューや餃子の皮で作るラザニア、コンソメをたくさんいれた洋風おでん。お正月は、私は実家に帰っていたけれど、壮ちゃんのマンションには恵君以外にも友達がいっぱいきて、みんなでお雑煮を作って一緒に食べたのだという。壮ちゃんからも恵君からも、他の友達からも写真がいっぱい届いた。
でも、たまに、壮ちゃんのスイッチが入ると、私たちは三人でした。あんまりにも壮ちゃんが普通なので、あれは例えば気の迷いとか夢とかで、片付けられると思っていたけれど、そんなことはなかった。恵君が私に入れることもあったし、壮ちゃんが入れることもあった。でも、必ず、恵君が三人目だった。他の、恵君よりも壮ちゃんと付き合いの長い友達を私は知っているけれど、彼らが三人目になることはない。だからたぶん、壮ちゃんが、他でも違う女の人とこういうことをしていることはないんだろうと、なんとなく思っていた。私と、恵君とだから、壮ちゃんは三人でするのだ。恵君はいつも何も言わなくて、壮ちゃんは最高の笑顔を見せるだけだった。

「華衣ちゃん」
冬色めいた早朝、私が下着一枚でキッチンでお水を飲んでいると、同じく下着姿で寝室から恵君が出てきた。赤茶色だった髪の毛はいつの間にか真っ黒に染められていて、肩につくかつかないかほどの長さまで伸びている。寝癖ではねた髪を撫でつけながら、恵君はひとつ、あくびをした。寝起きの悪い壮ちゃんは起きてこない。エアコンはさっき入れたばかりだから部屋は全然温まらない。
「痣、大丈夫?」
手が震える。寒さの所為だと思う。そう思っている。思っていた方が楽だ。恵君にもコップを渡すが、手が震えて水がぼたっと床にこぼれた。透明な液体なのに、全然綺麗ではない。私は俯いたままだ。まだ、スリッパは買ってない。
「太腿のところ、と……こないだは額に絆創膏貼ってたよね。腕も……今は冬だからいいけど、夏になったら」
「大丈夫……壮ちゃん、そういうスイッチがあるみたいなだけで、怒ったら、たまにそういう風になっちゃうとき、誰でもあるでしょう」
「でも……」
「こんなでも、私、壮ちゃんのこと、好きだから」
初めてぶたれたのは、付き合って一か月目だったか、二か月目だったか、あんまりにも前触れもなかったから私はおもちゃみたいに吹き飛んで、ベッドから落ちて頭を打った。壮ちゃんははっとしたように私を抱き起して、謝った。ごめん、華衣、ごめん。そういうことが、もう、数えきれないぐらいある。首を絞められたこともある。でも、いつも、壮ちゃんは、あんなにもいつも無表情の壮ちゃんは、そういうときだけ目を潤ませて、大きくて硬い手のひらで私のことを撫でて隅々まで抱きしめて、ごめん、と言う。最近は、ごめんと謝って、家を出てしまう。夜でも朝でも昼間でも。私はどれが壮ちゃんなのかわからなくって、でも、全部壮ちゃんだということを知っている。壮ちゃんのことは好きなのに、悲しくなるのは、どうしてだろう。恵君の瞳を見ると、嘘がつけないような気がしてくる。

冷えた温度を察知して、エアコンが勢いよく温風を吐きだし始めた。静かな朝の心もとなさを、掻き消すように。私は右足の裏で、左足のすねをこする。すらすらと感じる自分の肌の温度に、泣きそうになった。恵君はほくろを指でこすり、俯いた。がっしりした壮ちゃんの体とは違い、恵君はやっぱり華奢で細かった。お腹はかろうじて割れていても、全体的に細いので筋肉質な感じは全くない。そっと脇腹に触れると、彼はびくりと顔を上げた。キスがしたい。でも、できない。
「華衣ちゃんの指、冷たすぎるよ」
「冷え症なんだよね」
彼は、その茶色い瞳を細くして笑った。壮ちゃんのことを好きなのは、間違ってない。けれど、私は、それ以上に、恵君のことが好きなのだとこの時自覚した。

「今日、夜はゼミの新年会だから遅くなると思うから……夕飯ごめんね」
「新年会って、もう二月なのに?」
カフェの残り物でもらってきたパンを壮ちゃんはかじり、私を見上げた。私は相変わらずパジャマ姿で、コーヒーメーカーからカップにコーヒーを注ぐ。寝起きだからか、手に上手く力が入らなくてカップが小刻みに震えた。
「地元帰ってる子多いからこの時期になっちゃった。あ、それで、今日は、えと、そのままアパート帰るね」
「……アパート引き払ったらいいだろ。お金もったいないしさ。何回も言ってるよ、俺は」
壮ちゃんがちょっとイラついたように言う。朝から怒らせてしまうことにびくびくして、私は、まだちゃんと引っ越す準備とかしてないから、とか、暫く帰ってないから掃除がしたい、とか、卒業してからにしたい、更新も五月だから、ともごもご言う。彼は何も言わないで、洗面所に立っていった。裸足の私を見るに見かねて、壮ちゃんが買ってきたお揃いのスリッパは内側にボアがついていて温かい。スリッパの中で、足の指をぎっと折り曲げる。
ゼミのみんな、というよりも、大学のメンバーに会うのはとても久しぶりだった。よく遊んでいたまみちゃんも、年末から年始にかけて彼女が県外の実家に帰っていたので久しぶりだ。文系の学科には珍しい、卒業論文を書かなくてもよい学校だったので、卒業の為の単位を取り終えている私たちはもう大学にはほとんど行っていない。私も、四月から今バイトしているカフェでそのまま就職することが決まっていたので、日中も夜もカフェで働いている。普段は壮ちゃんの友達ばかりと話すことが多く、皆年上の男性ばかりなので、同い年の女の子たちに囲まれていることにホッとする。
「華衣に新川さん紹介してもらってよかったよ。今も髪の毛、新川さんに切ってもらってるの。でも私、四月から実家帰るから惜しいな」
お酒に酔ったまみちゃんは頬を赤くしてとても楽しそうだ。彼女の艶やかな髪の毛がテーブルにひたりと垂れる。サラダについちゃうよ、と、髪の毛を払っても、酔って陽気なまみちゃんは気にしない。まみちゃんをヘアモデルに、と紹介して、コンテストで入賞したという知らせを聞いてから、恵君に髪の毛を切ってもらうことがうらやましくて、一度だけお店に行ったことがあるけれど、壮ちゃんには内緒にした。その日、突然行ったこともあって恵君はシフトがお休みだったらしく、他の女性の美容師さんに髪を切ってもらった。その人も上手だったけれど、もう来ないだろうな、なんてぼんやり思ったことを思い出す。
周りに他の女の子もやってきて騒がしくなる。
「ね、華衣はもう結婚するの?」
「え、うそお! 華衣ちゃん早いー! 彼氏今いくつなんだっけ?」
「二十八でしょー? 中学だっけ? 高校だっけ? の先生なんだよね!」
「やだ先生えろーい! 夜の授業を始めますとかいっちゃって?」
「オヤジっぽーい!」
みんなが笑うので私もつられて笑う。お酒のせいか、手首の痣がじんじんと痛む。私が何も言わないでも、皆で話を進めていく。
「でもねでもね、華衣の彼氏、ほんとイケメンなんだよ! 背も高いしスマートだし優しいし、私も二回かな? 会ったことあるんだけどさ、ちょう優しいの! やっぱ年上いいなあ!」
まみちゃんが声を高くするので、みんなが便乗する。きゃあきゃあと騒がしく、他のお客さんに迷惑だろうと思いながらも、女の子の可愛げな温度はほっとするのだった。今日、先生呼ばなくて正解だったね、と誰かが言い始め、老婦人の先生はとかく女性のマナーにはうるさかったので、こんなに騒げないからね、とまた誰かが言う。淑女たれ、って、いつも言ってたけど、正直淑女って何かわかんないよね、とまみちゃんが言う。ねえ、華衣は? 淑女って何? と話題を振られ、そうすると、もうすぐ夫人になるんだからわかるでしょー、と意味の分からない茶化しを受け、壮ちゃんの顔が浮かび、恵君の顔が浮かび、二人に挟まれてなすがままにされている私が淑女の意味なんか、わかるわけがないと、一人泣きそうになる。皆はケラケラ笑って、キラキラとしていて、好きな男の話や、彼氏の話をしているのに、私はいったい、何をどう、話したらよいのか全くわからなかった。
一次会から二次会へは、深夜までやっているカフェに行くことになった。道中、まみちゃんととぼとぼ歩いて話す。口に舞い込む冬の空気が心地よく感じる。
「……私さ、実家に帰っちゃうでしょ?」
居酒屋の中とは違い、まみちゃんはじっくり言葉を選ぶように話す。彼女の鼻が寒さで赤くなっていた。
「帰る前に、一回だけでいいから新川さんとご飯行ってください、ってお願いしたいの」
まみちゃんはえっへっへ、と笑って髪の毛をすわりと梳く。わかるはずはないのに、甘いシャンプーの匂いがするような気がした。
「好き、まではいかない、けど、最後ぐらい一回ご飯行きたいしな、って思ってて。誘ってみようかな? ね、もし、私の勇気でなかったら、華衣も一緒に来てくれる? 彼氏さんと恵君、仲良いんでしょ?」
「いいよ、もちろん。まみちゃんの頼みとあらば」
「うん、ありがとう」
まみちゃんはにこりと笑う。えくぼができる。私は息苦しくてうまく笑顔で返せた自信がなかった。
それぞれ終電の時間がきて、みんな慌てて帰っていき、私もぎりぎり終電に間に合った。温かい車内には人の匂いが残っている。携帯を見ると、着信が二回と、メッセージが一通きていて、どれも壮ちゃんからだった。着信は一次会が終わる頃に一回、二次会の途中で一回。その後でメッセージが一通。
何時でもいいから、家に帰ってこいよ。
彼の言葉は私を引っ張る。断れないことも、壮ちゃんはわかっている。腕の痣が消えない内に、また、新しい痣ができる。
結局、壮ちゃんの部屋に戻ってくると中でどたん、と物音がした。鍵は開いていて、怖かったのでそうっと静かに入る。玄関には、恵君がよく履いているコンバースが綺麗にそろえられていた。壮ちゃんはこういうことをしないから、恵君自身がここに入るときにそろえたのはすぐにわかる。今日、恵君がいるのなら、もしかしたら、壮ちゃんはまた三人でしようと言い出したのかもしれない。リビングの方から光が漏れていた。ごとごと、音がするのと、ドアに遮られてはいるが壮ちゃんと恵君の声がする。私は廊下から耳をそばだてる。
「っ……で、やめ、」
「別に……ろ。ちゃんと準備……て、ろ?」
「し……、そんな、華衣ちゃん……てるのに」
聞こえない。言い争い、というほどではないけれど、普通の会話ではない。すり足で近づく。リビングのドアは引き戸で、隙間が少し開いていた。
壮ちゃんが恵君を押し倒している。ようだった。二人の姿はソファに隠れていて、ソファから飛び出た足先だけが二人の体勢を物語っている。下になっているのが恵君のデニムで、上に覆いかぶさっているのは壮ちゃんのスラックスだった。恵君は何度か足をばたつかせるものの、壮ちゃんに覆われてはあまり意味がないようだった。
「ばか、群くん、放せってば」
「バカはそっちだろ。わかってるよ。お前さ、ホモだろ。で、俺のこと好きだろ? なんかおかしいと思ってたんだよね。三人でやってるときもやたらキスしてくるし、完全に女の目してるし」
「ちが」
「違う? なんで? 俺さ、一回男もやってみたかったんだよ。準備してきたろ? してこいって言ったもんな。嫌だっていいながら、ほら、俺の顔好みだろ? お前だって興奮してるだろ? セフレって男ばっかなんだろ。同じじゃん? 別に今更。華衣がいないだけじゃん。3Pと変わんないよ」
恵君は押し黙る。声がしない。物音がしない。壮ちゃんが嫌だといったので、壁掛け時計も秒針の音がしないものを選んだ。冬は静かで寂しい。とんでもなく、寂しい。廊下にへたり込んだ私の下半身を、冷気が這い上がってくる。足先だけは、壮ちゃんの買ってくれたスリッパで温かい。まみちゃんごめん、まみちゃん、ごめん、と何度か心で謝る。静かなリビングから、どちらのかはわからないけれどベルトの外す音がした。ここにいてはいけない。聞いていてはいけない。そう思っても、私は立ち上がることができず、耳を澄ませてしまう。じんと、血が集まって耳が冷えた私から切り離された生き物のようだ。
「ほら、もっと力抜けってば」
「い、いきなり、は、無理っ……い…………」
「はー、萎えるな。まじ。なんだっけ、ハンドクリームとかでもいいんだっけ。オリーブオイル、あったな、そういや。恵、買ってきたやつさ」
初めて三人でしたときの、夕飯に使ったオリーブオイルのことを言っているのだった。中々使いきれなくて、恵君が一緒にご飯を作ってくれるときにしか、出番がない。裸で立ち上がった壮ちゃんはキッチンへ行き、戸棚をごそごそと探って瓶を持って帰ってきた。廊下にいる私には気づかないのか、もしかしたら、彼のことだからもう気付いているのかもしれない。馬鹿な私に。
「これならいけんだろ」
「うっ……う」
「はは、いけんじゃん」
恵君は呻くばかりで、壮ちゃんが楽しげに笑っている。二人の荒い息遣いが、深夜の部屋に響くばかりだ。私は口をおさえて、どうにもただ、そこにへたり込むばかりだった。恵君が、壮ちゃんに凌辱されている、ということが、とてつもなく悲しくてそれでもとても欲情的で、私はただただ、一人足先に力を込める。早くこの、地獄のような時間が終わってほしいと願いながらも、体の芯が、奥底が熱く広がっていくようだった。
恵君、ごめんなさい。恵君、ごめんなさい。
お経みたいにして、私は何度も何度もそう唱えた。
「あー、疲れた、ほんと」
数十分後、壮ちゃんはそう言って立ち上がり、ソファに腰掛けた。恵君は黙ったままで、床に転がっている。私は痺れてしまった足を無理に動かして立ち上がり、まるで生まれたての動物みたいにへなへなと、玄関から出た。もちろんもう、電車はない。歩いて、アパートに帰ろう。もし、もしも、この帰り道で変な人につかまっても、たとえばそれでレイプをされたり最悪殺されたりしても、文句は言えない。そう思って、寒い中をゆっくり歩いた。涙が止まらなかった。

三月に入ると、形だけ入っていたサークルの送別会や、カフェでバイトをしていた子の送別会、ゼミの送別会、学科の仲の良かった子たちとの送別会などがたくさん入って、壮ちゃんと顔を合わせる機会が少なくなってきた。でも、あの夜のできごとはいつも生々しく私の目の前にあって、壮ちゃんが何気なくキスをしてきたりする瞬間に、見たわけでもないのに恵君がしていたであろう、絶望的な顔を思い出すのだった。恵君も、近頃はぱったり家に来なくなった。壮ちゃんも、恵君との話はしない。平然としている。私があの場にいたのかどうかも聞くことはない。あの日、アパートに帰った私に、昼過ぎに電話をくれた壮ちゃんは、なんてことはない話を私にして、今日はちゃんと帰ってこいよ、と言っただけだった。あんまりにも普通すぎて、私はうん、と、ただ普通に頷くしかできなかった。
そんなだったから、恵君に久しぶりに会えたのは、まみちゃんには悪いけれど、まみちゃんのおかげだったかもしれない。

「華衣ちゃん、久しぶり」
電話越しで聞く恵君の声は、とても不思議だった。目の前で直接口から出て直接耳へはいるのとは違う、ちょっと機械的なノイズを含んだ恵君の声は、悲しげだ。少し会っていない内に、顔がおぼろげにしか出てこない。最後に会ったというか見てしまったあの夜は顔を見ていないし、その前はお正月にみんなで集まったときだろうか。赤茶色から真っ黒に染めた髪の毛を、今はどんなふうにしているのだろう。恵君、ごめんなさい。一度だけ、心の中で呟く。
「電話なんて珍しいね」
「なんとなく……あのさ、もう知ってるかもしれないけど、まみちゃんにご飯誘われて」
「うん、昨日まみちゃん、お店に行ったんだよね。知ってるよ」
「うん……それで、華衣ちゃんも一緒に行ってくれないかな、って、思ってて」
「……もう実家帰っちゃうから、最後に恵君とご飯食べたいんだと思うの。だから、二人で、行ってあげられない?」
壮ちゃんはまだ帰ってきていない。受け持ちのクラスで、卒業前の打ち上げをするから先生も来てくれ、と頼まれたらしい。あんな壮ちゃんが、どんな風に先生として子供たちの前で振舞っているのか私には想像もつかない。恵君もあんまり想像できないよね、と言っていた。さすがに生徒には手を出してないと思うよ、と、三人でした次の日の朝、私と恵君は二人でこっそり笑ったことがある。それももう、なんだか遠い記憶のようだ。
「大学の卒業式、いつだっけ?」
「え? えっと、三月の二十日だよ」
「そっか……もう来週?」
「ねえ、行く気になった? まみちゃんと、ご飯。私は、二人で、行ってほしいよ」
恵君の沈黙は、優しい。壮ちゃんの沈黙は重くて怖くて痛くて、壮ちゃんに従うことが当たり前のように思えるから。あ、と彼は小さくつぶやいてからちょっと待ってね、と言うと、遠くでがちゃがちゃと、食器がぶつかる音がした。嶺名(れな)、お箸並べておいて、と、聞きなれたのとは違う雰囲気の、恵君の声がした。女の子が向こうで、はいはい、と返事をするのも聞こえる。
「ごめんごめん」
彼の声が場所を移動するのがわかる。声が幾分クリアになった。今度は耳元で話しているように聞こえる。
「今の、妹さん?」
「え? あ、うん、そう。久しぶりにうちに帰ってきたからご飯、作ってて」
「いつも、ご飯作ってるんじゃないの?」
「うん、そうだね」
恵君が漏らす笑いが、耳元を走る。こんな人を、壮ちゃんは犯したのだ。そんなこと、すっかり忘れていたのに、蘇る記憶はやっぱり生々しく温度を持っている。私は、壮ちゃんのベッドに転がりながら、薄暗い天井を眺めていた。
「華衣ちゃんはご飯食べた?」
「食べてないよ。お昼に食べたまかないがオムライスだったからなんか、お腹すかなくって」
「オムライス、お腹に結構くるよね。すごい一杯に、なっちゃうから」
「恵君、もうご飯でしょう」
「そうだね……華衣ちゃん」
彼の声は、切羽詰まっている。こまって眉根に皺を寄せているんだろう。いつだって恵君は真剣だ。いつだって真面目なのだ。そういうところがひどく、私の心を痛めつける。
「俺……変な風に優しくはできないよ。いくら最後ってことでも、まみちゃんと二人でご飯は行けない。まみちゃんも、華衣ちゃん誘ってもいいって、言ってたんだ。もし二人だけで気まずいならって。気まずくはない、けど、やっぱり……」
まみちゃん。頑張ったね。後でうんと褒めてあげなければいけない。
「うん……」
「華衣ちゃん、ごめんね」
切るタイミングがわからないよね、と笑い、二人で何度かバイバイを言い合って、最後は恵君のバイバイ、で私が通話を切った。

卒業式の前日に、まみちゃんと私と恵君でご飯に行った。恵君が私を誘う電話を切って、その後すぐにまみちゃんに電話をして、ありのままを伝えると、まみちゃんは、それでも嬉しい、と声を弾ませた。華衣が、ちゃんと隠さないで教えてくれたことも嬉しいよ、と、まみちゃんはまみちゃんらしく、まっすぐ言うので私はちょっとほっとした。
お店は、誘ったまみちゃんではなく、恵君が決めてくれた。二人の卒業お祝いだから、と、フレンチレストランを予約していてくれたのだった。雑誌で見たことのあるお店は、こぢんまりとしていて温かな照明があふれていた。随分伸びた黒い髪の毛を、恵君は後ろで結って簡単なお団子にしていた。サイドが刈り込まれているので、モヒカンというのだろうか。顔が小さいから、そうして髪の毛をひっ詰めているのも良く似合う。
まみちゃんは笑っていてもどこか泣きそうで、私もそれにつられて泣きそうになる。恵君は始終優しく、まみちゃんにも私にも接してくれた。
「新川さん、今日はありがとうございました。華衣もありがとう」
私と恵君は同じ路線だけど、まみちゃんは違う路線なのでホームが別になる。改札を入ってすぐの階段の前で、彼女はお酒の所為だけではく顔を赤くしてその長い髪の毛をそよがせながら、丁寧にお辞儀をした。恵君もちょっと泣きそうな顔をして、ううん、こちらこそ、という。どこまでも人が良い。まみちゃんはおずおずと、カバンから何かを取り出して、恵君に向けて差し出す。
「これ、あんまり使わないかもしれないけど、どうぞ」
ボディケア用品が有名なブランドの袋だった。恵君が受け取ると、まみちゃんは嬉しそうにえくぼを浮かべる。
「じゃあ、華衣はまた明日ね。おやすみなさい!」
まみちゃんは軽快に階段を下りて行った。私たちが下りる階段は、ここより少し先にある。歩き出そうとしても、恵君はずっと立ち止まったままでいる。卒業式の袴の着付け、まみちゃんはうちじゃないとこでやるんだって、とつぶやいた恵君はじいっと包みを見ていたが、思い切ったように中身を覗いた。透明な袋に包まれてリボンで飾られていたのは、丸い銀色の缶に入ったハンドクリームだった。恵君の手は、長年の仕事で年よりもひどくひび割れて疲れていたからだろう。
「嬉しい」
彼は小さくつぶやいて、私を見たので、私も笑顔で返す。
「帰ろうか」
「うん」
ふとその時、ポケットに入れた携帯が震えた。まるで見計らったようなタイミングの壮ちゃんからの電話はぞっとする。一瞬迷い、どうして自分でもそうしたのかわからなかったけれど、恵君に携帯を渡した。ディスプレイを見て、恵君もどうしようか迷うような顔をして、でも、私の代わりに出たのだった。
「もしもし、あ、うん。一緒にいて。そう。そう。うん……わかった」
電話はすぐに切れた。さっきまでほっとしてほどけた顔をしていた恵君が急にひきつったような笑顔を浮かべる。どうしていいのかわからなくて、私はすがるように恵君の腕を掴む。全然力が入らない。
「群くん。家に寄ってけば、って。一緒にいること、言ってた?」
「うん、一応……でもいいよ。恵君、明日も仕事でしょ? 私も明日卒業式だし、今日はアパートに戻る予定だったし……それも、ちゃんと壮ちゃんには話してたよ。親も明日来るし、今日は帰るよ」
恵君は笑わない。
「……もともと、華衣ちゃんのことは送ろうと思ってたから。親御さんも、今日来てるわけじゃないならいいんじゃない? 壮ちゃんのこと、知ってるって前言ってなかったっけ?」
「そうだけど、でも」
「なんか、おやつでも買ってこっか? ドーナツとかどう?」
駅の構内にあるスイーツの売店を見て、恵君は無理に声を弾ませているのがわかる。ピーコートの背中に、なんて声をかけていいのか全然わからなくって、ただ、黙っているしかなかった。
部屋では壮ちゃんが、リビングで一人、コンビニで買ってきたらしいつまみを食べてビールを飲んでいるところだった。私たちが入るとおかえり、と、普段通りに言う。飯何食ってきたの、とか、お茶入れる? とか、本当に普通で、何を考えているのかわからない。付き合い始めの頃は、それが恰好よく見えたし、壮ちゃんの鋭い目つきも、面倒臭そうなのに几帳面なところも、男っぽい体つきも、全部全部好きだったのに、今でも好きだと思うところはあるのに、でも、怖い。結局、アパートは四月の頭に引き払うことになって、親にも壮ちゃんのことは紹介していて、親も壮ちゃんみたいなしっかりした人と付き合ってるなんて一安心だって言っていて、だけど、私は、あの夜の、三人でしたこととか、恵君が壮ちゃんにキスをしたこととか、壮ちゃんが恵君を犯したことだとかが頭からずっと離れなくて、もう、どうしていいのかわからない。
「私、今日はもう帰るよ。明日卒業式だし」
マンションに来て一時間も経たない内に私が立ち上がった。でも、壮ちゃんは想定の範囲内だったのか、ソファに座ったままで、すぐに私の腕を掴んだ。じいんと体がこわばる。放して、の、一言が言えない。ぐいと引っ張られて、倒れるようにソファに転がる。がつん、と、壮ちゃんの膝で頭を打った。痛い。
「群君」
恵君が非難の色を含んだ声を上げても、壮ちゃんはお構いなしで私の頭を掴んだ。そういえば一週間前ぐらいも、したくないと言って拒んだら、こうして無理矢理くわえさせられたのだった。群くん、やめなってば、と、恵君が間に入る。壮ちゃんはうるせえな、と言って私を放し、今度は恵君を蹴飛ばして床に押し倒す。リビングのローテーブルががしゃんと音を立てた。一階の部屋でよかった、と、今はどうでもいいことを思って安心する。壮ちゃんは恵君のことを羽交い絞めにして、じいと顔を見つめている。そしてにやっと笑った。
「俺、ホモって大っ嫌いなんだよね」
「ねえ、壮ちゃんやめてよ、するなら、ねえ、もういいよ、私が、するから」
壮ちゃんはちらりと私を見て、恵君を羽交い絞めにしたまま私にキスをしてきた。切れ長の瞳は、今まで見てきた中で一番、するどく私を射抜く。
「お前さ、恵のこと好きなんだろ? でも残念、恵はホモで、俺のことが好きなんだってさ。ビビるだろ? お前と3Pできたのも、俺のこと見てたからだよ? な? そうだろ。結局、なんだかんだ、こういうの、好きだろ?」
恵君は唇をかむ。壮ちゃんのこぶしが白く浮いていて、相当な力を込めているのがわかる。ねえ、お願い、やめて。私の声はか細くてまるで仔羊の力ない鳴き声のようで、壮ちゃんには届かない。ねえ、お願い。何度目の懇願だろう。壮ちゃんが不意に恵君の腕を放した、と思ったら、私の顔の方へ手を払った。ばちん、と音がして、私は小さく飛ぶ。大した力じゃなかっただろうけれど、不意のことだったし、へとへとの私にはダメ押しだった。床にしりもちをつく。恵君が私を見て、小さく首を振った。いいよ、と、言うのだろうか。何が? 何がいいの。放心していると、鼻筋を何かが伝ってくる。涙ではない。目からは出ていない。ほんのわずかな、糸くずのような感覚が伝う。そうっとかじかんだ手で触れると、血だった。壮ちゃんに払われたときに、どこかが切れたようで、糸くずのように細い血が、私の顔を滑っていたのだった。壮ちゃんがベルトを外す。恵君が顔を真っ赤にしている。私はただ、涙がぼろぼろ落ちてくるのに任せている。恵君の、何を言っているのかわからない囁きと、壮ちゃんの荒い声とが混ざって消える。途中、壮ちゃんが立ち上がる。一瞬のことで何か分からないまま、私の視界が暗くなった。

「……ちゃん、華衣ちゃん」
目が重くて開かないのは大泣きしたからだというのは、覚えている。どうして大泣きしたのか、を、思い出そうとすると頭が酷く痛い。痛くて重くて、やっぱり痛い。恵君の声だ。恵君、と、口に出したいのに口の中がざらついて血の味がして上手く発語ができない。げ、い、ぐ、ん、と一語一語をしっかり言うと、自分が床に倒れて片頬がつぶれているのだと気付く。くっついてしまった瞼をゆっくり、力を籠めて引きはがすように目を開けた。ぼやぼやした視界に、突き刺さるような部屋の明かりが飛び込む。思わずまた、目を閉じた。でも、一度開けてしまえばもう大丈夫。大丈夫、大丈夫、と深呼吸を繰り返して、目を開けた。今度はちゃんと、恵君の顔を捉えることができた。後ろで結っていた髪の毛はほどけてばらりと彼の顔を包んでいる。それでもやっぱり、恵君の顔は綺麗だった。口元に血がついている。
「大丈夫? 頭打って気絶したみたいだったよ」
「うん……私より、ねえ、恵君の方が」
「俺は大丈夫だから。華衣ちゃん……ごめんね」
恵君はぐっと唇をかむ。さっき、血がついていたところがめり込み、隠れた。食いしばりすぎて血が出たのだろう。私はぐらぐらしながら起き上がる。頭だけ地震があるみたいにずっと揺れているようだった。恵君は、始終ずっと私の肩を掴んで支えていてくれる。細い指が愛おしかった。
「壮ちゃんは?」
「……さっき出てった。ごめんって、言って」
「……私のこと、叩いたりしたあと、いっつもそうだよ。ごめん、って、ちょっと謝るの。でもね、ちゃんと帰ってくるよ、大丈夫」
声が震えた。恵君も泣きそうな顔で私を見るから、ますます涙が出てきそうになって困る。
「……華衣ちゃん、帰ろう? 明日卒業式なんでしょ」
「……でも、顔に傷ついてない? おでこも壮ちゃんの膝でうっちゃって……たんこぶできてたらちょっと、笑えちゃう。お母さんにもなんて言われるか――」
笑おうとしたのに、涙が出てくる。どんどん出てきて、止められなくて、口の中が乾いているのに、目から水分が出て行ってしまう。恵君は丁寧にその涙を拭ってくれた。傷んだ指先はざらざらと私の頬を削るようだった。彼はすと立ち上がり、ティッシュを水で濡らして持って来た。そしてこびりついているらしい顔の血を丁寧にこそげてくれた。
「傷、細い切り傷みたいになってるから化粧で隠れるよ。たんこぶも、できてないよ。大丈夫だから」
「うん、ありがとう、恵君…………ごめん、ごめんね、ごめんなさい」
「……華衣ちゃんが謝ることなんか、ないよ」
「ううん、ごめんね、ごめんなさい……私、あの日、本当は、あの日……」
恵君は黙る。私の視界は涙が土砂降りで、上手く焦点が定まらない。あの日。あの日、私が止めることができていればよかった。恵君が、壮ちゃんに犯されたあの日、いや、きっと、その前の、三人で初めてしたときに、恵君の気持ちにうっすらと気付いたあの時に。だけど、ああ、だけど、本当は、恵君が犯されて、感じた私を、私は見過ごせなかった。姿も見えず、声もほとんど聞こえなかったのに、恵君が壮ちゃんに犯されてると知って、恵君が泣いているかもしれないと思って、だのに私は、どうしようもなく、濡れて、感じた。恵君、ごめんなさい、と、思いながら、恵君がもっとひどい目に合って、もっと扇情的に声を荒らげればよいとも思ってしまう。それはきっと、私がさせられない顔、私がさせられない声、私がさせられない体。恵君を満足はさせてあげられない。壮ちゃんじゃなければ。男でなければ。何度も、断片の記憶を思い出しては自分でした。何度もした。恵君を思ってした。
「……知ってたよ」
恵君は静かにそう言う。茶色い瞳は、黒い髪の毛にはそぐわないで、まっすぐと私を見ている。土星や金星のような、間近で見たことのない惑星のような色の、その瞳が私を見ている。
「……部屋に上がってから一度も靴出なかったのに、家帰るときに靴が散らばってたから、たぶん、華衣ちゃんいたんだろうなって、思ってた。帰ってこい、って、言われてた、でしょう。……ごめん……俺は、どうしようもない奴なんだよ。……群くんのこと、何も、言えない。だって、結局……こんな風になったって、群くんに抱かれるのが、嬉しい、嬉しくて、俺はさ……」
恵君は両手で私の頬をつつむ。無数のささくれが私の頬に刺さるようで痛い。痛くて、悲しい。冷たかった。彼の手首にも、痣ができていないだろうか。彼の手に温度がないのは、血が通っていないからだろうか。こんなにも優しくてこんなにも美しくて、こんなにも、こんなにも。恵君の手が震える。
「だって、結局、どうしたって……華衣ちゃんのこと、心配しながら……でも、群くんのことが好きだった。好きなんだ。ごめん……華衣ちゃん、ごめんね」
私には、恵君から謝られる資格はない。
どうして、私たちは。自分のことばかりを、見つめて、寂しくて、悲しくて、恵君も壮ちゃんも私も、どうしようもなくて、どうすることもできなくて、どうかすることも、望んでいなかったのかもしれない。壮ちゃん、今どこにいるの。恵君を犯して、感じたの? よかったの? 私よりも? 恵君、今どうして泣かないの。私のことを、壮ちゃんのことを、もっと罵ってくれていいのに。でないと私は、もっとあなたのことを好きになってしまう。この手で、このまま、顔をつぶされてもいい。恵君。壮ちゃん。私は。自分のことが大切なのに、自分のことをないがしろにしてまで、自分のことを愛して、誰かのことを願って。
ねえ、どうして、私たちは。
「……帰ろう?」
恵君がそっと、私の肩を抱き起すようにする。私はまだぐわんぐわんする頭を持ち上げているのに精いっぱいだったけれど、何とか立ち上がった。部屋は散々な状態で、ここに壮ちゃんが帰ってきたら無表情がもっと無表情になってしまうのではないかと、心配になる。でも、今はもう屈んで散らばった色々を拾い上げるほどの元気はない。蒸れた人の匂いが、殺風景な部屋に詰まっていた。
「歩ける?」
「うん」
脱ぎ捨てていたショートブーツを履き、恵君に凭れながら部屋を出た。時間もよくわかないけれど、終電はもう終わっているはずだ。大通りに出て、流しのタクシーでも捕まえようか、と、彼が言うので、私は曖昧に頷いた。まみちゃんとご飯を食べた頃はさして寒くもなかったのに、今はぶるぶると体が震えた。寒くて寒くてどうしようもなく、私はみっちりと恵君にくっつく。恵君は、あの冬の日のようにびくりとして逃げることはなかった。
「……華衣ちゃん、寒い? 震えてるよ」
「ううん。……震えてないよ。大丈夫。恵君も、震えてない?」
「ううん、震えてないよ。寒くない」
「ふるえてない?」
「うん、大丈夫……泣きそうになると、息を止めると、いいよ」
「本当?」
「本当。そうすると、ふるえも、とまる」
車がほとんど走っていない大通り、私はタクシーを探すふりをして恵君の手を握った。彼はびくっとして握り返すことはしなかったけれど、振り払わないでいてくれた。私は大きく息を吸い、そうして息を止める。一秒、三秒、五秒、十秒。窒息死したって、もう、いい。
大丈夫、私たちは、ふるえてなんかない。
だから、大丈夫だ。

#小説 #novel #短編