窓越しに逝く春

今年は窓越しに春が終わっていく。社屋の裏には地元で桜が有名な公園がある。
晩冬から、桜はいつ咲くか、などと話していたのに、気づけばもうほとんど緑がかった木ばかりになっていた。いつもなら、家族と一緒に見ていたはずの桜だったが、今年は世の情勢とそれ以上に自分の心に余裕がないために、気づけなかった。毎夜、とぼとぼと公園を横切って駐車場へ行くまでの道すがら桜の木を認識していたはずだったが、夜桜とは言えない風情の青白い街灯に照らされる桜を、私は覚えていない。
春先はいつも、心があぶくだってどうしようもない。

出かけられないことは仕方ないし、普段からそんなに活発なわけでもないので、ちょっと窮屈になったぐらいで対して影響はないようにも思う。
それでも、張り合いがないのは確かなので、春になったら着ようと思っていたワンピースを着たり、マスクをすると化粧崩れが気になってしまうぐらい濃い化粧をして家で過ごしている。職場では接客することもままあって、マスク着用が義務付けられているものの、ここ数年肌が弱いのでできるだけマスクはつけたくない。だから、在宅で自由な表情でいられることはうれしく思ってもいる。
とはいえ、土日に至ってはやることもないし、読みたい本も特にないので、ちょっと手の込んだ料理をしてみたり、掃除機をこまめにかけてみたりして、日常を過ごす。
ふと、窓越しに空が青々と晴れていても、大家が手入れしている花壇にチューリップが咲き乱れていても、私は窓を開けない。ぼんやり、すりガラス越しにその色鮮やかな影を認めては、春の終わりを感じている。春の落日を背負いながら、私はとりとめもなく文字を残している。
書くということが、最近は本当に億劫だ。だれかとだれかが会話するその様を見るのも、億劫だ。こうして老いてゆくのだろうと思う。

季節の変わり目、夫はいつも体調を崩すので、南向きの窓のそばで大の字になっていつまでも眠っている。新年度、夫は部署の異動があってそのストレスもひどいのだと思う。死んだのかと思うほどすやすや眠るさまは、その大きな体とは正反対に繊細な精神性を感じさせる。
結婚して3年、やっと喧嘩が少なくなってきたように思う。馴染む、という言葉がしっくりくる。
夫の顔を見ると、子どもをつくるかつくらないか、という話がいつも頭をちらつく。そもそもつくるつくらないなんて能動的な話ではないのだけど。なんとなく怖いのだが、いつか言葉にしておきたいなと思っている。

最近の情勢のせいもあるだろうが、それを抜きにしてもひどく疲れた。
今はただ、逝ってしまう春に身を寄せて黙していたい。