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【第5話】20××年11月5~7日

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称・事件等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

【1】


一頻ひとしきり愛し合った後、男はベッドの縁で気怠けだるげに煙草をくゆらせ、女は真っ白なシーツのひだの中で眠っている。不意にドアがノックされ、男は煙草を指で挟んだまま扉を細く開ける。来訪者は黒いスーツを着た細身の若い男性だった。男は人一人通れるくらいに入り口を開放すると、自身の唇を彼のそれに軽く重ね、部屋の中へと迎え入れた。

口の中いっぱいに詰め込んだポップコーンを飲み込もうとした瞬間にそんなシーンがテレビの画面に映し出されたものだから、喉が詰まりそうになる。慌ててコーラで流し込んで少しむせてから、アンドレアの方に向き直った。
「なんで?こいつ性的マイノリティって設定だったっけ?」
「いや、マフィアの構成員なんだと思うよ、ファミリーによっては挨拶としてノンケの男同士でもお互いの唇にキスをするって聞いたことがあるから。この後そういう展開になるんじゃないかな?」
「ふーん...」
場面は変わって抜けるような青空のもと、ヴェズヴィオ火山を望むレストランのテラス席に向かい合って座る二人の若い女性。鮮やかなレモン柄のテーブルクロスに南イタリアの陽光がきらきらと降り注ぐ。その上には...
「お、ピザ!」
でもその形状は、僕が見慣れている薄くてパリパリしたものとは少し異なっていた。
「なんかいつも食べるやつと違って、分厚くて縁の部分がふわふわしてるな」
「普段俺たちが食べてるのはローマ風だからね。これはナポリ風なんだよ」
「へー。なぁアンドレア...」
「嫌な予感しかしないんだけど...何?」
「僕もこのピザ食べたい」
僕が答えるや否や彼はスマホでグーグル・クロームを開く。「わかった。この辺でナポリ風ピザが食べられるところは...」
「そうじゃなくて!この店のピザが食いたいんだよ」
彼は、予感的中、とでも言いたげにため息をついた。「君ね、このドラマの舞台がどこだかわかってる?」
「ナポリだろ」
「ナポリがどこにあるか知ってるか?」
「知ってるよ、南の方だろ」
「そう、それにね、すごく遠いんだよ」
「いいじゃん、行こうよ。今日ちょうど金曜日だし。お前明日も明後日も仕事ないだろ。さっさとブラウザ閉じてGoogleマップ開けよ。ナポリまで車で何時間かかる?」
「あのなぁ...」アンドレアは、今回ばかりは思い通りにならないぞ、とばかりに意気込んで口を開く。しかし、彼のスマホの着信音がそれを遮った。
「鳴ってるよ」僕を半ば睨むように見つめたまま固まっているアンドレアにそう言いながら、膝の上のボウルを手に取り、口につける。天を仰いで残ったポップコーンを口の中に流し込む僕を横目に、彼は渋々電話を取った。一瞬ののち、その表情がぱっと明るくなる。
「ダヴィデ!」彼は僕の知らない名前を口にした。

電話の相手ダヴィデは、アンドレアの元カノ、ラウラの遠い親戚だそうだ。僕は彼女を写真でしか見たことがないが、シチリア島出身の、豊満な胸とリバース・カールの長い黒髪が特徴的な、なかなかの美人だ。美女であることは認めるが僕の好みとは全く異なる。ドラクエでいうとラウラはゼシカとかマルティナ系。僕が好きなのはセーニャやフローラだ。彼女の写真を見たとき、僕とアンドレアが女を取り合って争うことは一生ないだろうな、と思った。
話をダヴィデに戻すと、彼は数年間連れ添った妻と最近離婚し、別の女性と結婚を考えているらしい。先程の着信は電話番号を変更した旨の連絡と、新しい彼女を紹介したいから近いうちに遊びに来ないかという誘いの電話だった。
「彼が結婚して以来会ってなかったけど、昔は兄弟のように親しかったんだ」
「それは近いうちに会いに行かないとな」
「...あぁ」アンドレアの態度はどうも煮え切らず、明らかに目が泳いでいる。
「で、その人どこに住んでるの?」
「...ナポリ」

【2】


昔カンパニア州最南部に位置するカステッラバーテという町へバカンスに行ったときナポリを通ったが、その市街地に入っていくのは初めてだった。ナポリはガイドブックでは風光明媚、巷では治安が悪いといわれているが、車窓から眺める景色からは、活気のある大きな町という印象しか受けなかった。
ナポリ中央駅付近に車を停めダヴィデに到着を伝えると、ほどなくして白のランボルギーニが僕たちの車の横につけて止まった。窓から、年の頃はアンドレアと同じく30代半ばだろうか、短く刈った黒髪の男が興奮気味に「久しぶりだな!」と、顔を出す。小麦色の肌と限りなく黒に近いこげ茶色の瞳が特徴的だった。彼が車から降りるのに釣られるように、僕たちも車外へ出る。
「来てくれてありがとう。元気だったか?」
「おかげさまで。君も元気そうでよかった」
彼らはそう言いながら抱擁を交わし左右の頬をかわるがわる触れ合わせた。
「ローリスだね。君のことはアンドレアから聞いているよ。ナポリへようこそ」彼はそう言いながら僕に右手を差し出す。一瞬、何を話したんだ、と胸がざわついたが、僕はただ「はじめまして」と微笑んで彼の右手を握りしめた。
「急に来て迷惑じゃなかったか?」アンドレアが横から口を出す。
「全然。ただ...本当は俺の家に泊まってもらいたいところなんだけど、今週末は彼女とその妹がいてベッドが空いていないんだ。それで他に部屋を用意したから後で案内するよ」
「そうだったのか。わざわざごめんな」
「ヴォメロ地区にあるマンションの一室だから治安については心配ないと思うよ」
それを聞いたアンドレアが目を見張る。「ヴォメロか、すごいな。高級住宅街じゃないか」
ダヴィデは肩をすくめて続けた。「ただ、車を停める場所がないから、今からこの近くの駐車場に君たちの車を停めて、ここにいる間は俺の車に乗ってくれるかな?」
それを聞いて、今度は僕が身を乗り出だす。「ランボルギーニに乗れるの!?」
ダヴィデは少し驚いたように僕を見たが、すぐに微笑んで片目をまばたかせ再び口を開いた。「それと、本当に申し訳ないんだけど、これから彼女らをショッピングモールへ連れていくことになっていて...君たちの車を駐車場に停めたあと、一度彼女らを迎えに俺の家へ戻って、それからちょっと買い物に付き合ってくれる?夜はレストランを予約してあるから、5人で食事をしよう。どうかな?」
ダヴィデは僕たちがうなずくのを確認すると、「荷物は?」と聞いた。
「一泊二日だから、二人ともバックパックひとつなんだ」
「それなら俺の車に積めるから、ヴォメロの部屋へ行くのは食事の後でいいな。じゃあ駐車場に行こうか。俺についてきて」ダヴィデはそう言ってフロントドアを開ける。しかし乗り込む前にはたと何かを思いついた様子で「あぁそう、そう...」と、こちらを振り返った。
「彼女には、俺は医者ってことになっているから、よろしくな」
彼はそう言って悪戯いたずらっぽくウインクをする。僕は思わずぎょっとした。この人、職業を偽って女の子をゲットしたのか。すげぇな。

僕は助手席に膝を抱えて座り、アンドレアはダヴィデの車をゆったりと追いかける。
「なぁ、あの人本当は何の仕事してんの?」時折午後の陽光を受けて鋭く光るランボルギーニの車体を見つめながら聞いた。
「さぁ...前の彼女のときは弁護士って言ってたけど...」
弁護士。職業詐称は彼の常套手段と見える。
「なんだ、友達なのに知らないのか。でも医者とか弁護士と同じくらい稼いでるんだろうな。そうじゃなきゃ結婚して経済状況が分かったらすぐにばれちゃうだろ」

僕たちは5分もたたないうちにくだんの駐車場に着いた。しかし、その電光掲示板には「満車」の文字。表示するまでもなく混沌と溢れかえる無数の車がその状況をより詳しく物語っている。完全に塞がってはいるが本来は入り口なのであろう所に、がたいのよいスキンヘッドの男が一人立っていた。
「これじゃ停められないじゃん」
心配する僕をよそに、さも当然のように入り口付近に停車したダヴィデにならい、アンドレアも車を停止する。ダヴィデが車を降り、こちらに歩み寄ってくるのが見えると、アンドレアはフロントドアガラスを下ろした。
「二人とも俺の車に乗って」ダヴィデにそう言われるがまま、僕たちは後部座席に投げ出してあったバックパックを掴み、車を降りる。ランボルギーニのリアドアに手をかけて思わず唾を飲み込んだ。こんな高価な車に乗るのは初めてだ。絶対に傷をつけないようにしなくちゃ。
車に乗り込み、できる限り静かに、これ以上ないほど丁寧にドアを閉める。なんとか問題なく事を済ませ何気なく後方に目をやると、バックガラスの向こうから僕らのオペルがこちらを睨んでいるように見えた。まるで二つの目のようなヘッドライトが恨みがましく鈍い光沢を放っている。もし口を利くことができたのなら、あまりの扱いの差を激しく嘆くのだろう。
「鍵かして」車を降りるなりダヴィデにそう言われたアンドレアは手に持っていたスマートキーを差し出し、ランボルギーニの助手席に乗り込む。いつもと変わらない調子でフロントドアを閉めたものだから、僕は少し肝を冷やした。
後部座席からその顔はよく見えなかったが、入り口に立っていたスキンヘッドの男がダヴィデに歩み寄ってきた。ダヴィデは彼にスマートキーを渡すと「あとは頼むよ」とだけ言って、ランボルギーニの運転席へと戻った。

ダヴィデの家は僕たちの車を停めた駐車場に程近い住宅街の一角にある大きなマンションの最上階だった。フロアにあるのは彼の家のみ。昼間だというのに踊り場は薄暗く、入り口はそんなに広くなかったが、中は別世界で、白壁と大きな窓から惜しみなく差し込む光のため、電気をつけていなくても目が眩むほどに明るく、僕たちの家に置けば十中八九床が抜けるであろう大きな家具がそこかしこに置いてあるにも関わらず、ダンスホールにさえなり得るのではないかと思うほど広かった。煌めくクリスタルガラスのシャンデリアが吊り下げられた高い天井に女性二人の話声が響いている。ミルクティー色のマーブル模様が入った温かみのあるつやが美しい淡いベージュの床は天然大理石のようだ。ふと靴の裏が汚れていないか気になった。
「二人とも、ちょっとこっちへ来てくれるか」ダヴィデが呼びかけると話し声がやみ、足音が近づいてくる。彼女らが目の前に現れると、その姿に意表を突かれた。典型的なイタリア人女性をイメージしていたのだが、僕の想像とは全く違っていた。
「彼女が俺の恋人のアニー、こっちはその妹のエイミー。二人とも国籍はドミニカ共和国だけど、もう長い間イタリアで暮らしている。エイミーに至ってはこっちで生まれて、もう5年もドミニカへは帰っていないんだよ」
姉妹の共通点は褐色の肌と黒髪だけだった。人を形容するのは難しいものだがアニーの場合は別だ。まさに肉感的という言葉がふさわしい。片方で大玉のスイカ程はあろうかという胸と尻に、くびれたウエスト。誘うように赤く艶めく肉厚の唇。シャワーでも浴びたのだろう、しっとりと濡れたウエーブ・カールの腰まである長い髪がこれらの最たる特徴をより強調していた。一方妹のほうは小柄だがひょうを思わせるスプリンターような体つきをしている。僕に言わせれば性的魅力はまだ開花しておらず、肩まで伸びた髪は、いかにもストレートパーマをかけたような少しキシキシした直毛だ。
アンドレアと僕は、はじめまして、こんにちは、と言葉を投げかけたが、二人はこちらに一瞥をくれただけで会釈さえせず、姉の方はすました顔でボルドーの長い爪を見つめながら気怠そうに、妹の方はしきりに髪の毛先をいじりながら退屈そうに立っている。
「ねぇダヴィデ、あたしまだ出かける準備をしているの。もういいかしら」姉・アニーが口火を切った。
「あぁ、それじゃ後でね」
ダヴィデが答えるとエイミーは待ってましたとばかりに軽やかにきびすを返す。「わたし、シャワーを浴びなくちゃ」
「エイミー、その前にあたしの髪を乾かしてちょうだい」彼女に続いて身をひるがえしたアニーが妹の背中に呼びかけた。
...感じ悪。彼らも同じように思ったのか、三人の間に気まずい沈黙が流れる。ここは僕が気を利かせてやろうと思い、先んじて口を開いた。
「久しぶりの再会なんだし、積もる話もあるだろ。僕は散歩に出てくるから、彼女たちを待っている間に二人でゆっくり話しなよ」
「散歩ってどこへ行くつもりだ」例によってアンドレアが眉をひそめた。
「えーっとね、スペイン人地区」僕が答えると二人はそろって息を吞む。
「「俺たちが散歩に出るから君はここにいろ!」」そして彼らの声が重なった。

【3】


二人が長い長い時間をかけて身支度を整えると、僕たちはナポリ近郊のショッピングモールへと出かけた。僕はその車内でもう一つ、姉妹の共通点を見つけた。目的地に着くまでの間ずっと、助手席の姉はコンパクトミラーに様々な角度で自分の顔を映して化粧の出来栄えを確かめ、妹は僕の隣で自撮りの研究をしていた。二人とも自らの顔をとても気に入っているらしい。エイミーが事あるごとに「ねぇこの写真うまく撮れたと思わない?」と聞いてくるものだがら、心にもないお世辞を何度も言わなければならなかった。
ショッピングモールへ入ると、ダヴィデは数歩離れてアニーとエイミーの後ろをついて歩き、二人が入ったすべての店のスタッフに黒い色のクレジットカードを渡した。ほとんどがアニーの買い物のようだったが、時折エイミーもアクセサリーや化粧品を買ってもらっていた。彼女は店員から受け取ったショッパーを自分の手で持って歩いたが、アニーのほうは手ぶらのままだ。代わりにダヴィデの荷物がどんどん増えていく。僕とアンドレアはさらに距離をとって彼らを追い、その様子を眺めていた。
モール内を徘徊し続け3時間が経過したころ、僕はため息をついた。「あの女、すげぇわがままだな。あんなのと結婚したら人生おしまいだよ」
「君が言う?」
「なんか言ったか?」
「いや、なんでもない。でも、彼の元奥さん、とても優しくていい人だったんだ。なんで彼女と別れてまで...とは思うけど」
「まぁいろいろあるんだろ。蓼食う虫も好き好きっていうしな」

一通り買い物が終わると、アニーは一揃いの服、アクセサリー、靴、鞄、帽子、化粧品のショッパーを下げたエイミーを引き連れてフィッティングルームつきのトイレへと姿を消した。
「しばらく戻ってこないな」ダヴィデが安堵にも似たため息を漏らす。
二人を待つ間に食前酒でも...ということで、僕たちは軽食カフェバールへと向かった。注文を終えるとアンドレアが用を足しに行ったので、僕はダヴィデと二人、四人掛けの四角いテーブルに向かい合って座った。
「ローリス、見て」ダヴィデはそう言いながら僕にスマホを差し出してきた。視線を落とすと純白のシンプルなワンピースに身を包みブロンドの長い髪をハーフアップにした小柄な女性の写真が表示されていた。「俺の元妻」
「きれいな人ですね」
「だろ?しかもすごくいい奴なんだ。アニーと付き合うために彼女と別れたんだよ。アンドレアは大きな間違いだったって言うんだけど、君はどう思う?」
僕を正面から見つめるダヴィデを見つめ返し、ずいぶん唐突だな、と思った。どうやら散歩中の主要な話題はこれだったのだろう。あいつのことだから余計なことばっかり言ったんだろうな。彼がいらぬお節介を焼く姿が鮮やかに目に浮かんで、僕は少し笑った。
「あいつ心配性だから、あなたが幸せになれるかどうかって考えると不安でしょうがないんですよ。だからあなたにあれこれ言ったんでしょうけど...いいんじゃないんですか。あなたがそれでいいのなら。人生一回きりなんだから、好きに生きたほうがいいと思いますよ。もしあいつの言うように間違いだったとしても、間違いだったと思ったときに何とかすればいいだけの話ですから」
「そうだよね」そう言って微笑んだ彼の顔は、心なしか少し晴れやかだったような気がした。


ダヴィデが予約した海沿いのレストランは夏には観光客で賑わう区画から少し離れた場所にあった。ランボルギーニが店の前に停まるなり、ボーイが二人現れそろって一礼する。僕たちが車から降りると一方がダヴィデから車の鍵を受け取って、もう一方が僕たち...特に女性二人を丁重に店内へとエスコートした。
「なんだか喉が渇いちゃった。わたし、ネバダにするわ」
席に着くなりエイミーは言った。イタリアでは未成年の飲酒は珍しくないが、ダヴィデはそれをたしなめた。「君はまだ14歳だろう」
「いいじゃないの、別に」それを彼の隣に座るアニーがたしなめ、彼女は正面に座っていた僕を見つめた。「あなた、お酒は?」
「アニー、未成年に酒を勧めるなよ」
日本人にとって海外において決まって年よりも若く見られるのはあるあるだ。最初の頃は馬鹿にされているようでいちいち腹を立てていたが、今となっては慣れっこだ。またか...と少々辟易したものの、「いえ、僕はもう22歳です。酒は飲まないけど...」いつも通り儀礼的に答えを返した。
「22...あたしより一つ年上なのね」アニーが馴染みのある反応を示す。
一方でエイミーのリアクションは、ある意味新鮮だった。「あら、わたしと同じくらいの歳なのかと思ってたわ。だってあなた、子どもみたいなしゃべり方するんだもの」
こまっしゃくれたクソガキの言葉がダガーよろしく僕の胸にぐっさりと突き刺さる。斜向はすむかいに座る彼女を睨みつけたい衝動に駆られたが、あまりの衝撃に涙が滲んだため、慌てて少しうつむいた。
子どもみたいなしゃべり方だって?僕は99%日本人だ。しかも12歳まで日本で育ったんだよ。お前みたいに生まれたときからイタリア語のシャワーを浴びていたわけじゃない。それにイタリアで暮らしていたのは数年で、あとはほとんど日本で生活してるんだ。だからすこしくらい発音が変でもイントネーションがおかしくてもそんなの当然なんだよ!それに引き替えお前らの国の公用語はスペイン語だろ。イタリア語とは方言くらいの違いしかねぇだろうが。ちょっとくらいネイティブレベルだからっていい気になるなよ!
胸中で一気にそう捲し立て奥歯を噛みしめると、隣に座っていたアンドレアが僕の右肩にそっと手を置いた。
「何食べようか」そして努めて明るく言い、メニューを差し出す。僕は促されるままにそれを開き、そのまま固まった。開いたページにはメインディッシュの数々がずらりと並んでいた。しかし。
50ユーロ以下の料理がないんだけど。早鐘を打つ胸を押さえながら、一番初めのページに戻り前菜からデザートまでひとつひとつ順番に値段を確認する。「アンドレア、ちょっと...」
遠くにかろうじて見える男女のピクトグラムをあごで指し、彼をトイレへと連れ込んだ。
「支払い大丈夫なのかよ」二つ並んだ黒い大理石の洗面ボウルの前で、僕たちは向かい合った。金縁の大鏡に二人の姿が映っている。
「うん、多分...」
「多分ってなんだよ!」
「多分ダヴィデが何とかしてくれるだろ」
「なんか情けねぇな」
「言っておくけど給料日前なのにナポリに行こうなんて言い出したのは君だからな。まぁ万が一の時は皿洗いをして許してもらおう」
「やだよ、ふざけんな! ...おい、あんまり食い過ぎるなよ。最悪全力ダッシュだからな」

テーブルに戻った時にはもうそれぞれの席にそれぞれのグラスが置かれていて、僕たちは乾杯をした。次々と運ばれてくる料理はどれもそれはそれは素晴らしい逸品だったのだと思う。でもその値段を気にしすぎて、味なんか全く分からなかった。酒はたしなまないものの、オレンジジュースを飲む僕を尻目にこいつらがばんばん注文する酒が馬鹿みたいに高価なことは分かっていた。ダヴィデがよく知られた名前のワインを注文する度にぎくりとする。僕がこんな思いをしているというのに場の雰囲気は和やかで話に花が咲いた。
もともと人見知りが激しく内弁慶だからこういう会食の場で盛んに発言をするタイプではないのだが、今日はいつもに増して口数が少なくなった。何か言おうとする度にいまだ脳内に鳴り響く「子どもみたいなしゃべり方」という言葉が、窒息するのではないかと思うほど強く僕の口を塞ぐ。その辛辣な手が緩んだ隙に当たり障りのない相槌を打つのが精一杯だった。これら二つの理由から僕は終始黙って砂を噛むような食事を続けた。

【4】


「おいしかったよ。ありがとう」ダヴィデが僕たちのテーブルを担当していたウエイターにそう告げると、彼はただ「ありがとうございました」と頭を下げた。会計はもう済んでいるようだった。彼は帰り際にトイレに立ったが、その時にこっそりと済ませたのだろう。
レストランから出ると、アンドレアが僕に耳打ちをした。「俺、ダヴィデが金を払っているところを見ちゃったんだけど、いくらだったと思う?」
「さぁ...600ユーロ?」
「1500」
その数字を聞いた瞬間、イタリアの平均月収の話をしていたんだっけ、と錯覚する。給料日後でも払えなかったんじゃね?と胸中で皮肉を言い、僕はただ苦笑いをするしかなかった。
店の前には白いランボルギーニと、シルバーのアウディが停まっていた。アニーとエイミーはランボルギーニに乗り込み、ダヴィデはアウディに歩み寄る。するとフロントドアガラスが下がって、浅黒い肌をした金髪の男が顔を出した。左瞼から頬へかけて深い傷跡がある。ダヴィデは彼と軽い挨拶を交わして僕たちの方に向き直った。「ここで別れよう。彼が君たちを部屋に案内するから。明日は何時に出発する?」
「8時くらいかな。それから少し観光をして、昼食を済ませてから帰るよ」
アンドレアがそう言って初めて僕は当初の目的だったナポリ風ピザのことを思い出した。
「それじゃあ明日8時に迎えに行くよ」

アウディの車内、相変わらず黙りこくっている僕の横で、沈黙に耐えられない体質のアンドレアが運転席の男に向けてしきりに世間話を振っている。だがこの男はあまり口数の多いタイプではないようで、なんだかアンドレア一人でしゃべっているように見えた。
幸いにも彼の滑稽な独演会は10分ほどで幕を閉じた。男はイタリアの建造物としては近代的な外観を持つマンションに差し掛かると速度を緩め、その入り口横の奥まった場所に車を停めると「ここです」と短く言った。エントランスを抜け、エレベーターで4階へと上がる。ダヴィデの家と同じく、フロアにはドアが一つしかなかった。
男はポケットから鍵を取り出して扉を開ける。そしてそのまま一歩踏み入り電気を点けた後、僕たちに中に入るよう手振りで促した。アンドレアが先に入り、僕はそれに続く。
ドアの向こうには大きなリビングが広がっていた。アラベスク模様が入ったエメラルドグリーンのジャガード織カバーが掛かった四人掛けカウチソファに、木目の白いセンターテーブル。漆喰の壁には80インチほどのテレビが掛かっていた。ダイニングキッチンとバスルームへ続く扉は開け放たれていて、中の様子をうかがい知ることができる。浴室からのぞくシャワーボックスとバスタブが少し僕の気分を上げた。
アンドレアはダイニングキッチンへ入っていき、まるで自分の家にいるかのように戸棚の中を物色し始める。僕はリビングに残り、もう一度部屋全体を見渡した。賃貸だとしたら、きっと家賃は高いのだろう。僕たちがナポリに行くとダヴィデに告げたのは昨日の夜だ。どうしてこんな短時間で高級住宅街に建っているマンションの一室を準備することができるんだろう。
そんなことをぼんやりと考えていると、入り口近くで黙って立っていた男が突然部屋を横切ったので、僕ははっとした。彼はダイニングキッチンへ入りテーブルの上に部屋の鍵を置くと、「何か必要なものはありますか」と、アンドレアに尋ねた。
「いえ、特にないです。どうもありがとう」戸棚という戸棚の物色を終えた彼は、にっこりと微笑む。男は静かにうなずくと部屋を出ようと踵を返した。彼が僕のそばを通ろうとしたとき、アンドレアは何か思いついたように再び口を開いた。
「彼、日本人なんですけど、イタリア語がペラペラなんですよ。恥ずかしがりやだから知らない人の前ではあまりしゃべらないけど」
僕の目の前で男の歩みが止まる。彼はアンドレアを一瞥してから僕に視線を落とした。
急に何なんだ、とアンドレアに目をやると、向こうも僕の方を見つめている。彼特有の太陽のような笑顔をこちらに向けて「一生懸命勉強したんだもんな?」と快活に言った。ふいに鼻腔の奥がつんと傷み、瞼のふちが熱くなる。こいつ、ばかじゃねぇの。そんなこと言われたら...
黙ったままうつむくと、先のレストランで食事中の僕よろしく相槌程度の反応しか示さなかったこの男が、初めて言葉といえる言葉を発した。
「そうだろうとも。遠い国の言葉を話す君は、それは大変な努力をしたに違いない。スペイン語を話す人間がイタリア語を覚えるのとは訳が違うだろうからね」


翌朝ダヴィデは一人でヴォメロ地区のマンションに僕たちを迎えに来た。アニーもエイミーもまだ眠っているらしい。彼の車に乗り、昨日オペルを乗り捨てた駐車場へと向かう。到着するや否や彼は車を止めるとスマホを取り出し「車を頼む。入り口のそばにいるから」と告げた。ランボルギーニを降り朝の喧騒の中で別れの挨拶を交わす。
「慌ただしくて悪かったな」ダヴィデが右手を差し出し、アンドレアと僕はかわるがわるそれを握りしめた。
「とんでもない。急に来たのは俺たちのほうなんだから」
「今度は時間のあるときに来てゆっくりしていってくれ。ローリスも、必ずまた来てくれよ。今度はいろいろ案内するから」ダヴィデはそう言い終えると、僕たちのさらに向こう側に視線を向け、右手を挙げた。振り返ると昨日駐車場の入り口に立っていたスキンヘッドの男が、懐かしささえ感じさせる見慣れた車のかたわらに立っていた。

スキンヘッドの男からスマートキーを受け取り、アンドレアと連れ立ってオペルの方へと向かう。ランボルギーニみたいに高価でかっこいい車じゃないけれど、多分僕はこの車の方がずっと好きだ。
背後でダヴィデがスキンヘッドの男に礼を言い、別れの挨拶をするのが微かに聞こえた。最後にもう一度二人に手を振ろうとアンドレアと共に振り返ったその時、彼らはお互いの唇に軽く口づけをした。
白のランボルギーニ。顔パス駐車。ブラックカード。1500ユーロの夕食。高級住宅街の一室。仲のよい友人でさえ知らない彼の職業。
「おいアンドレア、あいつ...」
彼は慌てた様子で、開きかけた僕の口をその大きな右手で力強くふさいだ。