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Virtualがもたらす意味:ドローンとVTuber(前編)

 Vtuberが多くの耳目を集める中で、1つ無視できない問題に直面しつづけている。それは「Virtualでやる意味は?」という問だ。
 これはVTという文化の成立初期から言われ続けている事ではある。概ねの場合は捨て置かれるか、あるいは「Realでやる意味は?」という対偶的な反論に終始している感があり、誰もが納得しうる明確な反論や意義の証明を出せていない(私の知る範囲では)。
 面白いことに誰もがVirtualである事に面白さや意味を感じているにも関わらず、誰もがそれを言語化できないでいるのが現状と感じている。
 Virtualという言葉は最早陳腐化し、誰も目新しさを感じていない言葉だろう。かつてのVirtualReal=仮想現実は所詮現実の代用という程度の意味合いであった。
 しかし、技術的進歩はめざましい。いつか本物と変わらない代用を生み出すかもしれない。そして今現在においてもその代用として用いられているVirtualは私達の何かを代用しているわけだ。
 本稿においてはまず、現実的Virtual=ドローンが倫理にもたらした変哲を見ることにする。

1、DRONEとHUMANの相関性を見る私達

 近年の遠隔技術の発達は目覚ましく、産業用ドローンの発展は注目を浴している。その流れの中で、私達は「法」「倫理」「心理」に関して根本的な変容に直面することとなる。グレゴール・シャマユーの『ドローンの哲学』においてはドローン倫理学とでも言うべきものが考えられている。これは古くからあるロボット倫理学と違う。ドローンはあくまでも人間が操縦する事が前提となっている。


 軍用ドローンの使用における倫理は早くから問題になっていた。遠隔操作された軍用ドローンを用いた作戦により人を殺傷せしめた操作員が抱える心理的問題というトピックスがネットで話題となっていた。
 遠隔操作で誰かを殺傷せしめた場合、責任は誰が取るのか。我々の素朴(日常的な価値観、感覚)な感覚ではトリガーを引いた人間、と考えるだろう。間違いなく、ドローンそれ自体に責任があるとは考えない。ネット上においても彼は間違いなく兵士として任務にあたり人を殺傷した、という認識がまず前提にあったのを憶えている。
 しかし状況を俯瞰的に見れば、行為者がトリガーを引いて殺傷という結果をもたらすためには複数の原因が必要となる。発射できるシステムを開発した開発者及び企業の責任、彼に命令した組織か、あるいはそうしたシステムを容認する社会か。法や道徳の観点から厳密に考えれば、彼一人の問題であるとは到底言えないわけだ。
 ここでは完全自立型ドローンに関しては論じないが、今後完全自動運転車等の倫理の確立する上で絶対に避けては通れない問題である。余談ではあるが、無人化=完全自律ではない。混同されがちではあるが。
 しかし、結果として私達は自然と人間が操縦しているドローンを操縦者と同一の存在とみなしているわけだ。一連の問題は今ここにいる「」と無関係な、一度も触ったことのない「機械」を一続きの存在として感覚している/できる、という事実を見て取れる。

2、哲学的セルフィードローン解釈

 もっと身近な戦闘用ではないドローンはもはやインスタグラマーのみならず、様々な分野で活用されている。
 例えばインスタでも人気の空撮用ドローン。素朴な感覚においては監視カメラとなんら変わりのない、ありふれた技術であるように思えるだろう。大きな相違としてドローンは随意に移動し、見る事ができる。それだけだ。
 しかし、監視カメラの固定された視点は私達の目の代用ですらない。例えば、何かに反応してカメラを動かす。しかし追いきれない。それは定点の記録でしかないわけだ。
 比すればドローンのもたらす視点は私という実体が行くことのできない場所の視点すらもたらす。例えば、火山の火口、原子炉の炉心、高層ビルの先端でロシア人が命がけで撮影する写真よりも遙かな高み。搭載されたカメラは私達の目より遥かに高性能であるし、その機体は私達よりも遥かに自由だ。私達の視点は拡張された
 未だ限定的であるが、いずれロボットアームを利用して行為も拡張される。人間の入り込めない場所で様々に作業を行えるわけだ。
 センサーを複合的に用いれば、私達の知覚となんら変わりないドローンすら作れるだろう。技術が進歩すれば或いは私達の実体より遥かに高性能な外部拡張となる事すら考えられる。それを踏まえれば私達はいずれ実体の遍在性を得られるという可能性をドローンに見ることができるわけだ。

3、ドローン=Virtual=実体の統一性解体、脱局所化

 私達の行為が外部に拡張された事は同時に実体と外部との統一性の解体をもたらした。ざっくりいうと「私」が「認識」し「行為」する多種のプロセスを統一性と呼ぶ。

統一性
現象的意識はある範囲で統一されている。例えば飛んでくるボールを視覚で捉えたとき、動きの情報と形の情報はそれぞれ脳の別の部位で処理されているが、それでも動きと形は最終的には統合された形で提示される。つまり脳の異なる部位で、空間的・時間的に距離を隔てて物理的に処理された情報であっても、現象的意識としては継ぎ目のない単一のものとして提示されているように思われる。この性質のことを統一性(英:unity)と言う。脳梁を切断された分離脳の患者は、脳全体を単位とした統一性を欠いているのではないか、と言われている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』『現象的意識』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E7%9A%84%E6%84%8F%E8%AD%98

 飛んできたボールを打ち返す、というプロセスの統一性を考えると、そこには「ボールを知覚する」、「ボールを打ち返す」、「それを統合し判断する実体」があるわけだ。
 もし、野球ドローンがあったとしたら、「ボールを知覚する」、「ボールを打ち返す」部分が「それを統合し判断する実体」から切り離され存在することになる。かねてより認識されていた人間という1つの地続きの存在は切り離された。
 ドローンにより私達がホモサピエンスとして持ち続けていた統一性は解体されたわけだ。解体、というと印象が悪いならば解体可能な性質となった、と言っても良い。それは人の「知覚」や「実体」の性質を考える上で重要になる。切り離されたそれと切り離したこれを並べられるのだから。
 そして同時に私という実体の持つ局所性はドローンにより脱却される。未だ技術的な問題で実現は不可能であるが、いずれ私達の実体はより拡張され、遍在性を得ることになるのかもしれない。

4、ドローンと人間

 当初は代用としていたドローンというシステムは私達の「認識」や「行為」の拡張、同時に「分離」をもたらした。
 ここで大事なのがその分離が実体と現実の疎外を意味しない事である。それは代用による遍在性により否定される。私達はシステムにより単体としてある以上に現実に結び付けられる存在となった。システムに接続する限り、完全完璧な引き込もり生活は不可能である、というわけだ。
 Virtualによる「拡張」や「分離」は「遍在性」によりむしろ現実に対する強力なアプローチとなっている。本稿においては割愛するが、物心二元論や間身体性に対する理解の一助ともなる。
 結論として物質的Virtualは実体としての人間存在の拡張及び強化である。現在の技術においてすらそう言えるのであれば、来る未来における物質的な実体のあり方は今とは全く違うものとなっているのかもしれない。

まとめ

1、実体とシステム的な接続しかなく、物質的相関性のない物体に対し、
  人間の素朴な意識は同一のものであると理解する。
2、Virtualは実体と行為を切り離すプロセスである。
3、Virtualは実体を脱局所化する。※遍在性は可能の段階である。

4、[Virtual=人]ではなく[Virtual+人]である。

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