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経験を重ねて感じるもの

ようやく読み終えた「日本文化の核心」。

多くの日本文化を知るきっかけとなり、また文化に対する意識も改まった。

本書は文化を象徴するようなキーワードを元に、様々な角度から見た日本について書かれている。
丁寧で長い説明を読んでいく先に、その文化の真意がわかったようなわかってないような気持ちになった。

結局ワビサビとかどういう意味なの?わかりやすい説明ってないの?と安直に思ってしまいがちなのだが、日本文化のハイコンテキストで一見わかりにくい文脈・表現にこそ真骨頂がある。

書かれていたそのような言葉の通り、「わび」一つの言葉を取っても、その意味を感じるには長い説明が必要である。

段階を踏んでいろんな背景を知った上で、その言葉や文化の表現が何と無く理解できるのである。


今回特に「和する/荒ぶる」、「まねび/まなび」という章が印象に残っており、熟考したいと思ったのでまとめてみる。

和する/荒ぶる

この章ではみなさんお待ちかねの(?)「わび」、「さび」の由来が書かれていた。

大和とは?スサノオとアマテラスとは?という私からしたら嫌厭したくなるような日本神話の話が続く。
でもその物語を読み続けた先にサビとはこういう感じのもの、ということがわかったようなわかってないような感覚が待っていた。

私にとっては、この感覚こそが、日本文化の核心であるような気がした…。


この章に関しては少しノートにまとめてみたので
良ければ見てください。

読書-5
読書-6


まねび/まなび


明治維新の際、日本に西洋の学問を急速に取り入れるため、日本はお雇い外国人を召喚する。

彼らは西洋の文化を普及させる一方、日本の文化に驚きの目を見張る。その素晴らしい文化は、欧米のロジックやテクノロジーによって壊されるのではないかと危惧した。

彼らが見出した日本の美は生活の中に生きていたり、師から弟子に伝えられたりしてきた技法やセンスに基づくもので、教育的に継承されたものでなかった。日本の文化は、「生」と「技」と「美」が繋がっていた…

欧米の理屈では日本文化の精髄は説明できない

お雇い外国人が日本文化に感銘を受ける中、教育勅語の発布など、明治政府の方法は極端であった。欧米化した新しい日本を作るにも、古き日本を誇るにも、教育指針は偏ったものであった。

日本は何を持って「学び」とするべきなのか。グローバルなものとローカルなものをどう融合させるべきなのか。



その方針の一つとして、世阿弥のやり方に戻るということがある。


能楽者といういまでいうアーティストであった世阿弥は「モノマネ」のような芸を行なっていた。

彼は「まねび」を貫いた。
「まねび」は「まなび」である。

「まねび」を稽古することを持って
「真」に近づいていくことを「まなび」とした。

真なるものは容易に掴めない。「真」が外に表しているだろう「体」に注目し、そこを「まねび」なさいという。

そうなるには稽古が絶対に必要。
稽古とは古を稽る(考える)ことである。
真を孕んでいるかもしれない古を考えるのである。

世阿弥の例を取っても、日本のまなびの基本はまず「写す」ことというのがわかる。日本人の学習の基本に手本や見本が先行していたのだ。

象る(型や形から入るということ)ことを繰り返し、一度道を貫く。そこから応用したり新たな発見をしたりできるのだろう。

稽古を重ねる、その結果、真に近づける



この二つの章から感じた、日本文化の良さ。

楽な道、一回の経験程度でわかるものではなく、
長い道を歩み続ける結果感じられるものがある。

それは「わかった!これはこうだ。」と簡単に説明できるような感覚ではない。「なんとなく、こんな感じなんだ。」と言ったところか。

だから日本文化にわかりやすい説明など求められない。

その文化を見て、経験して、繰り返して、
コンセプトそのままに
文化を感じ、会得するべきなのだ。


芸術の秋、10月にこの本を読み終えた。
京都は千利休生誕500年の展示が各所でやっている。

読書で知識を入れようとしがちな私。
文化を実際に見ることは重要だと改めて思えた。
このタイミングに読めてよかったな〜

何か素敵なものを感じたい
説明できない感覚で
その思いを持ちこの秋も
京都の街へ出かけよう



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