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ロプンのチベット仏教と科学的思考

ダライラマ法王に限らず、マスコミのイメージはどうあれチベット人の思考はなかなか科学的。それも「やっぱり(だから)仏教は正しい」のような自分を正当化するためのものでなく、基本が「何でもありうる、仏教だから正しいというのはありえない」の姿勢。仏教の答えは経典(または論書)にある、ではないので正当化する必要がないのだ。

科学の論理と近い所で書くと、

「証拠に基づいて推論」

「命題と対偶法をセットで考える」

「どんな場合も再現性、同じ結果になる」

そして、西洋だと真理は誰にとっても

真理とするだろうが、面白いのは全ての

人全員に通用する正しい論理がない事。

これは論理の問題より認識の問題だ。

言わば、天動説を唱えた時代、今では

当たり前の地動説が裁判になり、しかも

負けた様なもの。どれだけ証拠があっても、

どれだけ論理を尽くしても、全ての人が

納得するまで、何百年もかかった。

それほど、私達は論理的ではない事を

理解すると、「何でもありうる、仏教

だから正しいというのはありえない」に

たどり着く。

加えると、帰納法的でなく、演繹法的。

ただ仮定でなく、正しい認識として検証

されて、命題や対偶法として推論の前提

にする。

ここまで書くと、そんな論理的傾向の強い

チベット人が、なぜチベット仏教を

信じるの?と日本人なら思うかも。

そこは、否定的感情を克服する事こそが

宗教の価値というチベット人の宗教の

価値観に落ち着くのではないかと

私は思う。



【わかりにくい方にもう一つ喩えを。】

インド伝統の仏教論理学は、

論理学でいう演繹法や3段論法に近い。

例えば「大根は野菜か」という議題に対して、「大根という存在は野菜である、根菜だから。」

上の喩えで、

命題「全て根菜は野菜である」
対偶法「全て野菜でないなら根菜ではない」

大根は野菜かどうか疑問がある人が、大根が根菜であると理解しているなら、上の二行を認識する事で「大根は野菜」と理解する。
そのため、根菜である定義、野菜である定義を正しく認識し理解する過程が必要。


『演繹は、一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る論理的推論の方法である。

帰納とは、個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする論理的推論の方法のこと。』

共に wikipedia より引用

#宗教 #仏教#チベット仏教#論理学

インドからチベットに伝わった文化である「仏教」を仏教用語を使わず現代の言葉にする事が出来たら、日本でチベットの教えをすぐに学べるのに、と思っていた方。または仏教用語でもいいからチベットの経典、論書を日本語で学びたい方。可能なら皆様方のご支援でそのような機会を賜りたく思います。