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提出台本と未提出台本あれこれ

2〜3年前に演劇部用に書いた台本のデータを見つけて開いて読んだら、まごうことなき黒歴史だった。昔書いた文章や作品は、例外なくどれも小っ恥ずかしいものになると思う。

中学生の頃の友達と一緒に描いてたオリジナルの漫画は中二病全開で恥ずかしいし、高校の卒業文集はスカしてて恥ずかしい。過去の自分をぶん殴りたくなる。

大学生の時に書いた台本は、割と最近といえば最近の産物なのに恥ずかしい。めちゃめちゃスベってる。
喜劇というかコメディ調の演劇が好きだったので、そのテイストなんだけれども、これがまぁ露骨。

台本書くにしても色々制約や制限があって、それも加味して「露骨」なんだろうけど……

まず、大学構内にホールや舞台設備のある場所がなく、私がいた演劇部は広めの教室を活動拠点としていた。公演前の期間になると、機材やら客席やら控え室を作らないといけないので、広めの教室の改造が必要になる。
改造後の役者が動けるスペースは超狭い。舞台袖もあってないようなもの。舞台袖で咳すれば客席に聞こえるレベルで狭いし、舞台と客席の高さが同じだし、仕切りも薄い。

今でこそ40人ほどの大所帯になったけど、あの時の演劇部は6〜8人とかの小規模で“教室”を“小劇場”に改造するのに適した人数ではなかった。朝から夕方までかかって、「大変だった」ことは記憶しているけど、「どんなことがあった」とかの詳細が思い出せない。過労のショックで記憶が欠落してるのかな。

今では、すっかり“いい思い出”になってしまった。

「演劇部」なので、もちろん役者だけじゃなくて演劇に必要な裏方も部員がやる。音響、照明、美術、脚本、演出……と役職は大まかだけど、大まかな分それぞれがやることは多い。
役者が公演のパンフレット表紙を描く時もあった。私が所属していたのは「人員不足部」か「マンパワー欠如部」だったかもしれない。

台本書く書く詐欺(実際は書いてたけど、〆切に間に合わなくて断念。ホントウナンダヨシンジテクレヨ)を2年間ぐらいしたかも。
台本提出日に出したい人が台本を持ち寄って、後日に部員全員の多数決で脚本を決めるシステム。なんだけど、「採用されなかったら…」と躊躇してしまったこともあったっけ。

いわゆる文学部系だったので、台本を書きたい気持ちは入部当初から変わらなかった。
最初に考案していたのは、【超能力学園コメディ】だった。冷静に考えると、『斉木楠雄の○難』と丸かぶりだったわ。最悪。いや、Ψ悪。
CGみたいな派手さはなくとも、「人物を止めたり動かしたりできる」「人物の思考を操る(読む)ことができる」点で台本(脚本家)の全知全能性の利用や演劇での超能力表現に興味があった。

構成を練りに練ったけど書く前にボツにした。
あの狭さで素人が“派手そうな演出”をすると、かえって妙な地味さが際立っちゃう。

二つ目の台本案が【特殊清掃員】の話。
学園祭公演は小学生以下の子どもも観に来るから全年齢対象にしないといけない風潮もあったが、これは一切配慮なし。CEROでいうと、CかD。
特殊清掃員のブログとかサイトを閲覧しまくって勉強したり、孤独死の現場の画像とか見て気分悪くなったり、そこまで苦労をしただけあって自分の中では最有力候補だった。

フツーに〆切に間に合わなかった。あと、今読み返すとウケを狙おうとしすぎてて寒気がずっとする。

心理学者の自殺現場を特殊清掃員が清掃にきて展開する物語の台本なので、心理学ネタがいろいろある。
えぐいほどスベり散らしてて死にそうになった。


三つ目に考案した台本がやっと台本提出日に出せて、ちゃんと採用されて公演もちゃんとしたやつ。事実上の初脚本。やったね。
今までは書きたいテーマやジャンルが最初にあったけど、これはメッセージが先発だった。「何を伝えたいか」がまずあって、なんならこの台本は一人だけに宛てた戯曲風のクソ長い手紙のようなもの。
「自分に自信を持てない自分も人前で演じる違う自分も、全部自分だから大丈夫だよ」みたいな。

(その人の苦しみとか悩みを全部言葉で解かそうとするのは不可能だと気づいて“言葉の限界”を思い知るのは、そのまた先の話。うぬぼれてたね)

ただ、持論だけどメッセージ性のある物語や文章を考えるなら、「みんなに伝えたい」ではなく「たった一人に伝えたい」メッセージをその「たった一人」のためだけに書いたものの方が刺さるメッセージ性を獲得できる。

あくまでも持論だけど。

その公演では主人公の友達(変人)の役を演じた。
台本も書いて役者もする。原作者でありながら、稽古中に役の新たな一面やイメージが出てくる感覚は忘れられない。
「こいつは普段からずっと早口で話すタイプなんじゃないか?」と感じて、やってみると結果的にその方がしっくりきて早口の人になったけど、普段の私がゆっくり話すタイプなので苦労した。舌苦労。

『The Big Bang Theory』という海外ドラマが大好きで、台詞回しや人物像も参考にした。
なにより、「シットコム」というジャンルがコントや演劇に対して非常に親和性がある。組まれたセットの中で物語の大半が展開するシチュエーションコメディのことで、『フルハウス』が日本では代表的な作品だろうか。

台本書いた人が演出もするのが通例だったけど、演出は過去に胃に穴が開通するほど苦労したのでやらなかった。演出もいい経験ではあったけど、さすがにまた胃にトンネルは作りたくなかった。

主人公が被害妄想の中で悪口をいわれるシーンがあって、そこの悪口は実際に自分がいわれた経験のあるセリフにしてみた。
何を傷にして何を糧にするかは自分次第なんすね。

深イイ。

だから、自分の中で黒歴史認定された台本も一応は残しておこう。多分もう読まないけど。

ところで、昔の自分が書いた文章を読むことに抵抗がない人間っているのかな。
論文とかは別として、ツイートとか日記とかは当時の感覚が表れてるから、その「文章化された未熟さ」がだいぶキツイと思う。私はそう思う。からキツイ。

昔の自分が書いた文章を読むことに特に抵抗がない人はすでに完成(あるいは完熟)しているということなのか…?

昔の自分が書いた文章を読むことに特に抵抗がない人が昔の自分が書いた文章を読んだ時の感想募集しております。




この文章もまた何年かかけて小っ恥ずかしいものとして発酵していくんだよなぁ……

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