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【随想】映画『NOPE/ノープ』ジョーダン・ピール

※ネタバレアリス


期待値を上げすぎた。
もちろん面白いには面白かったのだが
「空飛ぶルンバ」の物語だったとは!
1番良かったのはチンパンジーの冒頭。
あのシークエンスが1番で、そこを後半で超えてくるところがなかった。
正直ここだけで監督の才能をすべて見せつけられた感じだ。
ジョーダンピールが初めてで、メタファーについて一切想像を巡らさず、フラットに見たのがまずかったのだろうか。
生物なのに、概念的な捕食行動というのがピンと来なかった。
惑星ソラリスの時と同じような、なにかうまくはぐらかされたような、煙に巻かれた感じ。
地球外生命体は、人間の認知では捉えきれないといってしまえば、それまでなのだが。
ただの何でもありのフィクションを楽しめ、表面的な内容ではなく形而上の世界、裏側のコンテクストを楽しめというのであれば、少し苦手かもしれない。
いやでも、テーマやモチーフは非常に好みだ。
観終わって解説を見ようとネットをしばらく「ドープ」で検索していた自分はなんてノープなんだ!
しかし、解説をディグっていくと、
なるほど、相当練り込まれているのだと感心した。
メタメタのメタすぎて、もはや原型にたどり着かない。
これは受け手の感度の問題なのかもしれないと反省。
見る人によって、見た人の引き出しによって、様々な意見が生まれている。
ほとんど記号論。
シンボルまみれ。
逃げないOJ。
リッキーの過信。
ホルストの暴走。
見つからないGジャン。
筋や登場人物の感情、行動理由に乗れないのは、記号の羅列であったからだ。
だから、繋がるようで繋がっていなかった。
確かに読み解こうと思えば、いけたところもあるかもしれない。
自分の中で「見る見られる」の話だと気づければ、傑作になっていたかもしれない。

これから映画というショーが始まる。
テレビの前の、お茶の間のみんなを楽しませるショーが始まるよ!
リッキーはスペクタクルなショーを見せてくれる。みんな集まって!
ジョーズのようなハラハラドキドキなショーを見せてあげよう!
スクリーンの中の登場人物と、映画を観ている観客は滅多に目が合うことがない。
寺山修司や古畑任三郎やYouTuberのように、画面を通して「私」に話しかけてくることがないからだ。
でもリッキーは、映画の中でGジャンと目が合う。
そう、映画の中は、安全地帯ではない。
常に「見る見られる」の緊張関係にある現実だ。
スクリーンやテレビ越しの観客は物理的に安全である。
でも、そんな映画の中の登場人物が、ふとカメラに目を向けたら。
君達のことも見ている。そこは安全地帯じゃないぞと。
幾度となくOJは、妹のエメラルドに、君を見ている、君の勇姿を見ている人がいると、強く訴える。
父は、妹を見ていなかった、兄しか見ていなかった。
ゴーディは、多くの望まない視線に晒されていた。見られることに強く恐怖した。
映画監督という見ることへ強く執着した人間ホルスト。
ホルストは夢を見ていた、有名になって皆に見られることを強く望んでいた。
エンジェルは監視カメラを見ることに憑りつかれていた。
カメラという目が、視聴者を挑発する。
捉えられたくない、見つかりたくないGジャンは、監視カメラの目には映らない。
捉えようとする人間、奇異の目で見ようとする人間には見ることができないのだ。
見ることには覚悟が伴う。
視聴者や観客には、その覚悟があるのか。
生半可な覚悟じゃあ、相手に喰われてしまうぞと警告してくる。
スクリーンを通して覗いている私たちから、Gジャンがお金を吸い上げていくよと。
Gジャン=ジョーダンピールは、まるでルンバのように地上のゴミを見つけて吸い上げていく。
排気口はまるでブラウン管。そして、そこに映し出されたマイブリッジの馬。
歴史から抹消されたジョッキー、あなたを見ている、見つけている人がいるよ。
見ないこと、それもまた残酷。
映画はそこに光を当てることでもある。
「光だ!」とホルストが天を仰いだ。

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