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【LTRインタビュー:佐藤允彦(さとう・まさひこ)】その3〜ぼくのランドゥーガな日々(前編)

(初投稿2024/3/28、最終改稿2024/3/28)

想定外のことが起こり、それに対応しているうちに自分がどんどんフレキシブルになれる。それがランドゥーガだと佐藤允彦さんは言う。メンバーを固定せず、誰と演るかで演奏方法も曲の解釈も変わる。インプロヴィゼーションの新しいかたちともいえるランドゥーガに向き合い、軽やかに音と戯れる佐藤さんのお話を2回に分けてお伝えする。まずは前編から。


ランドゥーガが出現したのは、1990年夏。「セレクト・ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」という野外フェスティバルのために1回限りのバンドが結成され、誰も聴いたことのない日本発のインプロヴァイズド・ミュージックを演奏したのだ。このステージはライヴ盤としてリリースされている。呼びかけ人でコンポーザー&アレンジャー、さらに当日はキーボード奏者として参加しつつ全体の指揮をとった佐藤允彦さんに、初めてのランドゥーガ体験を語っていただくと……。

  
 この時のメンバーは、スペシャルゲストのウェイン・ショーター(サックス)を筆頭に、アレックス・アクーニャ(ドラムス)、レイ・アンダーソン(トロンボーン)、ナナ・ヴァスコンセロス(パーカッション)が海外から。あとは高田みどり(パーカッション)、峰厚介と梅津和時(サックス)、土方隆行(ギター)、岡沢章(ベース)という日本勢で固めることにしました。
 いろんな国の人たちが集まって日本の民謡、雅楽、古い宗教音楽の声明(しょうみょう)とかを演ったらどうなるだろうってぼくは思ったの。同じメロディでも出自の違う人が吹いたら当然ずれるし、細かい装飾音のフレージングなんかを彼らはどう読み解いてくれるのかなぁ、みたいな話をプロデューサーの鯉沼利成さんとしてね。そういう大きなテーマを掲げて、これまでのジャズとは違う方法を試してみようということになったんです。
 ラフな譜面を渡し、こういう節だけどここは自由な速さで、この部分は繰り返していい、それで全体の流れはこうなる、とおおまかな流れを伝えてから、2日ぐらい練習したかな。実際にステージで演奏すると、途中で音が合わなくなってもなにかの拍子に急にそろったりする(笑)。気持ちよくいって出てる人もみんな盛り上がったし、ウェイン・ショーターもこんなの久しぶりだってすごく喜んでくれた。それがランドゥーガの生まれた瞬間なんです。

夏の花火のような野外フェスは終わり、外国のミュージシャンは帰っていった。残った日本人だけで続きをしない? という声が上がったのは、佐藤さんだけでなく出演者一人ひとりが確たる手応えを感じたからではなかったか。ステージでは国籍の異なる面々が一緒に日本の節を奏でたから、次は逆の発想で、世界中の節をぼくたちが演るというのはどうか……。こうして、ランドゥーガはさまざまな国や地域の音楽を視野に入れた実験的なプロジェクトとして始動する。

 当時はありとあらゆる民族音楽のCDシリーズが手に入ったの。そういうもののなかからこれはという曲を集めて採譜し、翌年1月、1回めの「ランドゥーガ・マンスリー・ライヴ」を六本木ピットインで演ったんです。インド、東ヨーロッパをはじめ各地に昔から伝わる音楽を月1回、そのつど編成も変えながら1年ほど続きました。レパートリーも増え、クラウンレコードのプロデューサーがあれは面白かったからレコーディングしましょうよと言ってくれ、少しアレンジを加えたCDを2枚つくった(『KAM-NABI』と『まほろば』)。どちらも評判がよく、この次は? という話が出たものの、このペースを守ってライヴを続けるのはキツくてもたないというので、CDができたのを機にいったん休止ということになりました。
 ライヴでは、日本人ばかりで外国のメロディをどんなふうに演奏するかと試行錯誤したけれど、そもそも世界の民族音楽にはすごくシンプルなものが多いんです。で、シンプルなものからもうちょっと発展させるにはどうすればいいかといったら、どうしてもインプロヴィゼーションになっちゃうわけ。じゃあ、インプロの経験があまりない人を呼んできて、これまでに集めた素材を使ったらどういうことになるだろう、と。今後の方向性がクリアになった結果つくったのが、ランドゥーガ(嵐導雅)道場。1993年4月のことです。

このスピード感あふれる展開はいかにも佐藤さんらしい気がする。インプロヴィゼーションとは即興、つまり楽譜にとらわれずその場のひらめきで曲を創作したり主題を発展させたりしながら演奏すること。研ぎ澄まされた感性と瞬発力が求められる。新たに設けた道場では音楽の素養のない人も受け入れ、集まったメンバーが互いに反応して「音を出す」体験を重ねた。その過程で、ランドゥーガはより自由でオープン・マインドなものへと変容していく。

 道場を続けている間に、ランドゥーガはものすごく不思議な変質を遂げたんです。最初はあるていど楽器が弾けるし譜面も読める人が多かったのが、そういう人ばかりじゃなくなってきた。すると、ある曲を一緒に演奏しても途中でお手上げになったりする。あ、これでも難しいのかと音符の代わりに記号みたいなのを書いて、このシルシが出てきたらこういうことをするというふうに変わっていきました。ところがその記号にも従わなくなり、ついには譜面の出番がなくなります。参加者にはプロのミュージシャンもいて、彼らは譜面を見ずに演奏するのが怖いんだけど、そんなことは言っていられない。譜面から外れたほうがパワーが出るしノリもいいっていう人が増えたからです。そのなかでジャズのフレーズを入れてみても、シラケるばかりなんだね。
 やがて、こういう変化を面白がる人も現れた。下関にジャズマニアがいて、地元でセミナーをしたいというので出かけました。その人がなんでもいいから音の出るものを持って来いと周りに声をかけたら、農家の女性たちがでっかい鉄鍋を担いできてガンガン叩いたり大騒ぎに(笑)。下関は昔の長州だから「音の奇兵隊ランドゥーガ」と名づけ、高杉晋作が挙兵した功山寺というお寺に80人ぐらい集まってみんなでダーッと並んで演奏したことも。音頭を取る人が一人いると、地域が活気づく。下関のほか群馬や岡山にも熱心な人がいて、全国で活動していますよ。

(インタビュー&文:閑)

(Headline photo ©2023 J@TokyoJapan)

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