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希望の行き先――映画『アリスとテレスのまぼろし工場』感想


はじめに

 岡田麿里の作品が好きだ。と言っても、熱心なファンではない。
 番組改編期になると脚本なりシリーズ構成なりを務めたテレビアニメがないかWikipediaをチェックするくらいはしている。作品を深く理解するよう努めてきたかと問われたならうなだれるしかない。どちらかといえば、この人のフェティシズムだとかドラマチックなところに惹かれてきた。
 どういうわけか、今回は違った。映画『アリスとテレスのまぼろし工場』を鑑賞したのは九月十八日のことだった。それから私はずっと謎に悩まされ続けた。彼女はいったいなにを想っていたのか、どうしてもそれが知りたくなった。

 すべての始まりは製鉄所での爆発事故だった。それをきっかけに見伏という町から変化が失われる。外部との行き来ができなくなり、テレビやラジオは同じ番組がくりかえし放送され、季節は冬のまま住人たちは年齢を重ねることもない。中学生の菊入正宗は、密かに思いを寄せる同級生の佐上睦実から野生児じみた正体不明の子供を紹介され、物語が始まる。
 寂びれた町や製鉄所の光景が美しく、思春期の少年少女たちが冒険をくりひろげる展開からしても新海誠監督の映画『君の名は。』のようだと云えなくもない。つい言葉を濁してしまうのは、この作品があまりに暗く、痛々しいからだ。特報に響く少女の悲痛な叫びに耳を塞ぎたい気持ちになった者も多いのではないか。過疎化が進行していく地方都市の閉塞感に満ちた現実を、先行きの暗い日本社会をじっとみつめるような悲壮さがある。
 しかし、この作品はそれだけでは終わらない。変わらない毎日を受け容れるか、それとも痛みのともなう変化を求めるか。大きな滅びの中で希望を探して生きる人間の姿を描いている。
 この文章は佐上睦実にスポットライトをあてる。彼女はなにを想い、どのような考えに基づいて行動し、そして希望を見出したのか、私なりに推察したことを述べていく。

 以下、岡田麿里監督『アリスとテレスのまぼろし工場』の内容に触れます。
 結末までのストーリーに触れますので、未視聴の方は注意してください。

 この作品は遠くから眺める分にはエンターテイメントとして申し分のない構成になっている。
 野生児のような少女は何者なのかという謎が提示され、正宗は少女を救おうともがく。それをきっかけにこの町はまぼろしに過ぎないという秘密が暴かれ、少女を現実世界に帰すべく奮闘する。少女の謎が世界の謎へとつながり、それらが明かされることで果たすべき大きな目的がみつかり、クライマックスへ雪崩れこんでいく。
 しかし、足を運んで近くから観察すると粗が目につく。端的に指摘すれば、睦実の心理がまったくわからない。
 あまりに訳がわからないので私は岡田麿里自身による角川文庫の原作小説を読むことにした。最寄りの書店になかったので横浜の有隣堂書店まで足を運び、残り一冊だけだった文庫をからくも入手した。一週間ほどかけて読み終え、わかった。ここには映画で提示されていること以上の情報はほとんどない。映画では省略されたと思しき場面もあるが、睦実の過去や心理について深い説明はされていない。
 したがって、以下はあくまで私なりの解釈となる。根拠は示すものの憶測に過ぎず、作者の想いとはかけ離れているかもしれない。なお引用は『アリスとテレスのまぼろし工場』(著者 岡田麿里/角川文庫/二〇二三年六月)からとなり、ルビは省略した。映画は一回しか鑑賞していないため記憶違いがあるかもしれない。五実は途中から正宗に与えられた名であり、本来の名前は菊入沙希だが、五実という呼び方で統一する。

物語の始まり

 まず――これを読んでいるあなたも同様の疑問を抱いたと固く信じてはいるが――睦実のどこが私にとって謎だったのか説明しておこう。
 映画を観終わった後も、小説を読み終わった後も、ずっと頭の中でくすぶっていたのは次の疑問だった。この物語の始まりはなんだったのか?
 製鉄所の爆発事故ではない。それはこの物語の環境を形成した背景に過ぎない。
 正宗の視点からすれば、それは明白だ。睦実に五実の世話を押しつけられたことだ。
 では、睦実はどうか? なにをきっかけに五実の世話を正宗にもやらせようと思いついたのか。

 工場で睦実が初めて五実を紹介したとき、正宗に世話を頼む理由として、体力が要るので男子の力が欲しいが変な気を起こされても困るので〝女の子みたいなキミに、声をかけたの〟(四二頁)と説明している。
 これは言外に、たまたま女の子のような顔をしているから選んだだけだ、おまえへの恋愛感情の類はない、勘違いするなという含みもあっただろう。
 小説では五実の真面目な性格を理解した正宗が、この説明を信用している。〝正宗を五実の世話に誘ったのは、自分が楽をしたいからというよりも、本当に手が足りなかったから。睦実の勧誘文句に嘘はなかったのだろう。〟(八三頁)と記されている。
 この世界の秘密を念頭に入れると、次のような推測も可能だろう。五実は現実世界から迷いこんだ存在のため、まぼろしの見伏でたった一人だけ年齢を重ねていく。身体が大きくなり、体力もついてきたのに依然として野生児のようにふるまっている。だから睦実には手伝いが必要になった。つまり、この物語のドミノの初めのピースを倒したのは五実の身体的成長ということになる。

 しかし映画を鑑賞し終えた者がふりかえれば、睦実の説明は嘘だと察しがつく。
 義理の父親、佐上衛から五実の世話を託された睦実は、五実が現実世界における菊入正宗と佐上睦実の娘であることを知っていた。映画でも終盤の回想で示されたと記憶しているし、小説には明確に〝佐上から説明を受け、彼女の持っていた名札と写真から、違う世界では自分の娘だった可能性を知った。〟(二一六頁)とある。
 したがって、正宗が女の子のようだからというのは明らかに嘘だ。睦実は、正宗が五実の父親に等しい存在だと知っていた。「嘘ばっかりの狼少女」(四七頁)と睦実が自分を形容するのも、これが嘘であることの傍証になるだろう。
 そもそも女の子のようだから変なことをしないと期待したというなら、スカートをたくしあげてパンツを見せることで屋上へ呼び寄せるなどという性的誘惑を仕掛けるのは矛盾している。

 この謎について、ひとまず次のように考えることはできる。
 後半の展開からして睦実には明らかに正宗への好意があった。現実世界で二人が結ばれていることも気持ちを後押ししただろう。正宗と関係を深めたい気持ちが募ってきて、我慢できなくなった。娘のような存在である五実を一緒に世話することで、疑似的な夫婦関係を結ぼうと考えた可能性さえ疑われる。
 ただ、この世界がまぼろしであるという真相はうかつには明かせなかった。睦実の性格的に素直に気持ちを明かせない、いわゆるツンデレだったのかもしれない。だからパンツを見せるという挑発的な行動にでたり、女の子のようだから頼んだなどと下手な言い訳をしたのではないか。
 こう考えることでなにか決定的な矛盾があるわけではない。ただ作品のテーマを掘り下げ、さまざまな記述の断片から睦実の心理を追っていくと、この考えは否定せざるを得ない。

アリスとテレス

 遠回りのように感じるかもしれないが、まずはこの作品のテーマについて考えたい。それを出発点にしなければ睦実の心理には到達できない。
 この作品にアリス、そしてテレスという名の人物は登場しない。それならタイトルの「アリスとテレス」とはなにか。
 岡田麿里はインタビューで、この映画の始まりは小説の企画だったこと、くわえて〝子供の頃に哲学者のアリストテレスという名前を、アリスとテレスという2人組の名前だと勘違いしていた〟ことを語っている。

 小説では正宗の父親、昭宗の日記に〝そういえば、アリストテレスがこう言っていた。希望とは、目覚めている者が見る夢だと。〟(一七四頁)という記述がある。たしか映画では初めのほうに登場し、アリストテレスの名前は触れられなかったように思う。
 素直に考えれば、これは次のように解釈できるだろう。正宗たちが中学生のまま生きる世界は、現実世界での正宗や睦実がみる夢だった。幼くして行方知れずとなった五実が無事にどこかで生きていてほしい。そんな希望がまぼろしの世界となって顕現した。
 要するに「アリスとテレス」はアリストテレスの言葉を引用すること、作品のテーマが希望であることを導出するための枕詞に過ぎないのだろう。

 この作品のテーマが希望にあることを念頭に置くと、腑に落ちることがある。心にひびが入るとは、希望を失うことを指しているのではないか。
 肝試しで園部は正宗との相合傘をトンネルの壁に描き、正宗に告白する。だが友人たちにその場を目撃され、トンネルから逃げだすと「好きな気持ち、見世物になった」(一〇一頁)という言葉を最期に、神機狼に呑みこまれ姿を消してしまう。佐上は心にひびが入ったため神機狼がそれを埋めようとし、結果的に園部は消滅したという説を唱える。
 心にひびが入った事情が描かれる者が他に二人いる。一人はDJになる夢を正宗に語っていた仙波だ。この世界がまぼろしだと公表され、夢を叶えられないと知ったことで体育の授業中に神機狼に食われる。
 もう一人は正宗の父だ。日記には正宗の絵が上達していくこと、こんな異常な世界でも息子は変わることができたと綴られていた。五実を閉じこめ未来を奪うことに加担していた昭宗もできれば変わりたかった。しかし〝だけど、俺には無理だ。〟(一七六頁)と悟り、神機狼に食われる。
 正宗との関係を成就できなかった園部、夢を失った仙波、変化することができないと自覚した昭宗。心のひびとは絶望を意味していると解釈しても不自然ではないだろう。

 この作品のテーマは希望、もう少し丁寧に言葉を補うなら、希望を失わないためにはどうすればいいかだろう。物語全体をふりかえると二つの方法が示されている。
 ひとつは変化しないでいること。昨日と同じ今日を送り、ひたすらそれをくりかえす。迷いなく心静かに淡々と変わらぬ日々を過ごせば良い。
 公式サイトのトップページなどには〝「この町では変化は悪・・・・」〟という惹句がある。元に世界に戻ったときに備えて以前と同じ自分でいられるよう、見伏の人々はみな自分確認票を書かされ、防災会と称して主に老人たちが集まり自分が何者か語る。正宗たちは車の運転だけは許されたが〝結婚や出産など、大きく人間関係を変化させる〟(五〇頁)ことは許されていない。
 小説では五実は〝十年の時を経て戻ってきた〟(二三四頁)と記されている。冒頭で正宗たちは高校入試に向けて受験勉強をしている。中学三年生の冬なら十五歳の可能性が高いが、公式サイトのStoryには十四歳とある。見た目からして五実はまだ正宗たちより年下だから、行方不明になったのは三歳頃だろう。正宗と五実が二十代半ばで結婚したと仮定するなら、おおむね二十年の歳月が過ぎていたことになる。
 まぼろしの町で変化することを許されない日々を過ごしてきた見伏の住人たちは、身体に超常的な変化が起きていた。〝痛みをあまり感じなかった〟(一三一頁)し、映画ではわからなかったが寒さへの感覚も鈍っていた。だからこそ正宗とその友人たちは危険な遊びに手をだす。おたがい気絶させあったり、堤防など高いところから飛び降りたりして、生の実感を得ようとする。
 初めて顔を合わせたとき、正宗は五実の体臭に驚いて思わず顔を背ける。それは裏返せば、正宗たちからは体臭が失われているということでもある。〝五実だけが強い匂いを放っていたのは、彼女が現実の存在だからなのだろう〟(一五二頁)と正宗は推測する。冒頭、炬燵で放屁する笹倉に閉口した観客は多いと思うが、これすら伏線だったのかもしれない。

 絶望に抗うためのもうひとつの方法は、望ましい方向へ変化することだ。
 正宗の絵が上達していったこと。正宗の伯父である時宗が終盤、町を守るべく工場を稼働させて神機狼を発生させようとしたこと。なにより恋愛関係の形でこの小説は幾重にも変化を描いている。
 ただし、変化することはリスクを伴う。DJになることを夢見ていた仙波は神機狼に襲われた。商店街で時宗に〝イラストレーターになりたい!〟(一〇七頁)と食ってかかっていた正宗も同じように消滅していてもおかしくなかった。
 恋愛関係は一人だけでは成立しない。正宗から望む返事を得られず、告白現場を見物された園部は心にひびが入り、神機狼に呑みこまれる。成就すれば幸せなことだろうが、一歩間違えれば奈落の底に落とされる、そんな危うさがある。
 特報のときから正宗の、好きという感情が〝大嫌いって気持ちと、すごく、似てて〟(一一三頁)というセリフが印象的だった。これはなにを意味するのか――と自問するとき、若干老けた顔をした私がぽんぽんと私の肩を後ろから叩いて、したり顔で「それはそういうものなんだよ」と語りかけてくるのだが聞こえなかったことにしよう。
 人によってニュアンスの相違はあれど、恐らく次のような意味だろう。恋愛は相手の価値を測ると同時に、相手に価値を測られる行為でもある。自分のほうは相手に夢中で価値を感じていても、相手からは自分に興味がない、価値を感じないと拒絶されるかもしれない。自意識を傷つけられるかもしれない、その恐れがあるからこそ、恋愛感情を素直に自覚することは難しい。自分は価値のない存在だと思われるくらいなら、いっそ相手のことを嫌いなのだと思いこむ、気持ちをこじらせてしまうこともあるだろう。
 深読みすれば、痛みや寒さに鈍くなるという超常的設定があるのだから、正宗の感情に超常現象が関与していたとしてもおかしくはない。しかし神機狼のふるまいからしてそれは町に変化をもたらさない方向に働くはずであり、中学生らしい自意識や恋愛感情として一般論で憶測してもあながち的外れではないだろう。
 正宗がオートスナックで睦実に好意を吐露したのも、この感情から説明ができる。ちなみにオートスナックとは自動販売機で食品を購入して食事ができる店のことらしく、この作品に登場するのは無人店のようだ。
 その少し前、夜空にできたひび割れの光が居間に差しこんだことで正宗は現実世界を覗き、正宗と睦実が結婚していること、五実が二人の子供であることを知る。いわば正宗は睦実の気持ちをカンニングしたわけだ。原が新田に告白し、二人が結ばれるのを目にしたことも背中を押されたように感じただろう。睦実が「卑怯」(一五四頁)と正宗を睨みつけるのも無理はない。

正直な狼少女

 ようやく準備が整ったようだ。ここまでの整理を踏まえて睦実の心情を追ってみよう。
 まずは睦実の境遇を整理しておこう。睦実が学校を休み、園部がプリントを届けようとしたところを正宗がたまたま車で通りがかる。睦実は草ぼうぼうの駐車場の奥にある、長屋のような家で恐らくは一人暮らしをしていた。神事を任されてきた由緒ある家系の佐上家の娘なのに、なぜこんな暮らしをしているのか。
 園部と正宗の前に睦実が姿を現し、佐上家は後継ぎが欲しかったこと、〝でもあのおっさん、女に興味なくて。こぶつきだった私の母親は、佐上家に選ばれたけどすぐ死んじゃった。そして私も――この世界じゃ後継ぎなんて必要ないから、放り出された〟(七七頁)と語る。
 睦実はバケツを手に提げ、そこには〝線香とチャッカマン、雑巾〟(七八頁)があった。さきほどのセリフと併せて考えれば、睦実は母親の墓参りのため学校を休んだのだろう。ネグレクトとまではいわなくとも、睦実は温かな言葉を交わせる相手のない孤独な生活を送っていた。

 終盤近くで睦実は、佐上から五実の世話を押しつけられたこと、五実と一緒に過ごした日々を思い起こす。五実は初めて睦実を目にしたとき、笑みをみせた。〝なにか近いものを感じたのかもしれない〟(二一六頁)すなわち一種の母娘の関係にあることを察したのかもしれないと気づいた睦実は次のように強く思う(二一七頁)。

 近づきすぎてはだめだ、と。
 近づいたら、きっと、好きになってしまうと。
 そうなったら、この子を製鉄所に閉じ込めて暮らしていることへの罪悪感に、自分が潰されてしまうと思った。

 なるほど、そうだったのか――と流して、さっさと次に移りたいところだがそうもいかない。この三行がなにを意味するのか、もう少し考えてみよう。
 孤独な生活を送り愛情に飢えていた睦実の目の前に、自分を慕ってくれそうな少女が現れた。正宗のように気をまわす必要のない、なんの見返りも求めずにただ自分を愛してくれる娘同然の存在だ。自意識が傷つけられる恐れのない相手と日々接して、好きにならずにいられるだろうか。そう考えると初めの二行はうなずけるだろう。

 三行目はどうか。たとえば睦実はなぜ正宗のように抗おうとしなかったのか。あるいは五実に完全な自由を与えることはできなくとも、佐上の目を盗んで人間らしい生活をさせるくらいは可能だったのではないか。
 正宗と異なり、睦実は五実の正体をあらかじめ明かされていた。佐上の言うことが正しいという保証はなかったにせよ、みだりに五実を自由にすればまぼろしの町が終わりを迎える危険があった。自分一人ならまだしも、多くの人を巻き添えにすることはできなかったと考えるのは不自然ではないだろう。
 この世界がまぼろしであることを町人たちに明かしたとき、うろたえる佐上に睦実は殴りかかるふりをして怯えさせ「まぼろしの世界だからってさ。ちょっとは現実見なよ」(一二九頁)とどすの利いた声で告げる。一方で、ウェディングドレス姿にされた五実を連れだそうとしたとき、睦実は佐上に「母さんから、あんたの悪口を聞かされたことなんて、一度だってない」(一九三頁)と言い放つ。
 佐上の言動に呆れる気持ちはあったにせよ、憎悪まであったわけではなかった。亡き母と同じように、女を愛せない佐上の気持ちを汲んで、しかたなかったのだと理解を示し、憎もうとまではしなかったのだろう。同時に、佐上がまるで本当の父親のようにふるまってくれるとは期待していなかったのではないか。まぼろしの世界では後継ぎの必要がなくなり、睦実は無価値な存在とみなされた。爆発事故を起こして廃墟と化した製鉄所のように、睦実は自分がこの世界に必要とされない存在だという諦念を抱いていたのではないか。
 こうして奇妙な愛情のパラドックスが成立する。自分を必要としない佐上を、睦実もまた必要のない人間だと切り捨て、憎悪ではなく無関心を貫いてきたと想像してみよう。この世に必要のない人間として心を閉ざし、喪った母親と寄り添いながら希望のない生活に耐えてきた。佐上に必要とされない睦実にしてみれば、佐上が必要とする五実は嫉みの対象ですらあったかもしれない。いや、嫉みを抱くことすら、佐上に対して無関心を貫きたい睦実には耐えがたいことだった。自意識を守るには佐上と同様に五実にも無関心な態度をとる必要があった。
 三行目の〝罪悪感〟は、文字どおり五実に非人間的な仕打ちをすることへのごく一般的な心の痛みと捉えて問題ないだろう。だが、常人であればそこで「だから私はこの幼い少女を虐待します」などと選択できるわけがない。佐上や亡き母との複雑な愛憎関係があればこそ、睦実はその選択ができたのではないか。
 言うまでもないことだが、どんな事情があったにせよ睦実がしたことは道義的に許されるものではない。大人たちの勝手な事情など知らない五実にしてみればとばっちりでしかない。中学生めいた自意識の拗らせ方で迷惑をかけないでほしい。ただ、そんな仕打ちを初めに受けたのは睦実のほうだった。

 長かったが、ようやく初めのほうで提示した疑問に答えることができるようだ。この物語はどこから始まったのか。佐上睦実はなぜ菊入正宗に五実の世話を手伝うよう頼んだのか。
 答えはひとつしかないだろう。睦実は正宗のことを嫌っていたからだ。
 これまでの解釈を前提として信頼するなら、睦実が正宗に好意を寄せるわけがない。正宗というより、あらゆる人間に対してだ。亡き母への想いだけを胸にこの世に不要な存在として他人に希望を抱かず、ただ淡々と孤独な日々を送り、そのことに誇りさえ抱く。それが私にとっての睦実の人間像だ。
 実際、睦実はその心情を正宗へ正直に打ち明けている。オートスナックで正宗に告白された睦実は「私は、好きじゃない」(一五五頁)と断言して外にでると、駐車場で「私達は! 現実とは違うのに! 生きてないのに、意味ないのに……ッ!」(一五五頁)と激昂する。居間で垣間見た現実とまぼろしの世界を混同した正宗と異なり、睦実はその二つを峻別していた。現実世界で正宗に必要とされる睦実に対して憧れを抱いたとしても、まぼろしの世界にいる自分とは他人だと厳しく自らを戒めていた。

 そう考えると、なぜ睦実は校舎の屋上から正宗にパンツを見せたのか理解できる。それは見た目どおりの意味だった。正宗を性的に誘惑して言いなりにさせよう。そう思って実行したまでだった。
 これもオートスナックでの場面でやりとりされている。「知ってたろ。もともと、俺が……お前のこと好きなの」(一五四頁)と迫る正宗に睦実は知っていたと認める。先にカンニングをした卑怯者は睦実だった。現実世界で二人が結婚していることを佐上から知らされており、ずっと前から睦実は正宗の視線の意味を把握していた。
 間違いなく自分のことを好きな男子がいる。自分だけが一方的にそのことを把握している。そんな状況に置かれた女子が思うことはなんだろう。恐らく睦実は増長した。正宗のことを軽蔑さえしたかもしれない。ちょっと誘惑してやれば言うことを聞き、自分の命令には逆らえないと確信していただろう。
 これは映画では省略されていたと思うが、小説では睦実が『取扱説明書』と記した、五実の世話に関する約束を記したしおりを正宗に渡す場面がある。そこには『裸を思い出し、自慰をしてはいけない』(六三頁)という約束も書かれていた。
 園部が神機狼に呑まれたことで正宗が動揺し、慰めるように五実が顔を寄せてくる。それを目撃した睦実は正宗の胸倉をつかみ「てめえ、やっぱ雄かよッ!!」(一一四頁)と凄む。この場面を目にしたとき私は「いや、こんな状況を作った犯人はあんたやん……」と思ったものだが、このときの睦実の心理からすればこのセリフはごく自然なものだった。睦実は本気で正宗を屈服させていると信じていた。だからこそ五実との浮気めいた光景に、飼い犬に手を噛まれたような怒りを覚えたのだろう。
 物語のドミノの初めのピースは、やはり五実の身体的成長だったのかもしれない。世話をする上で体力の限界を感じ、正宗に手伝わせようと思った。その裏にあった感情は好意ではなく、支配欲だった。たまたま前後して園部が正宗に好意を抱いたり、正宗が過剰に五実のことを気にかけたせいで、睦実には制御不能なレベルにまで事態が変わっていってしまった。

 すると当然、次の疑問が浮かぶだろう。オートスナックの駐車場でのキスはなんだったのか。睦実は正宗を嫌っていたのでないのか。
 それは口づけを交わす直前の二人のやりとりを思いだせばわかる(一五七頁)。

「お前を見てたら、イライラして。お前が話してるの、気になって。むかついたり、でも、なんかドキドキしたり」
「正宗……」
「五実だけじゃない。俺だって――……ちゃんとここに、生きてるんだって。お前といると、強く、思えるんだ」

 正宗にとって、好きという感情は大嫌いという感情とよく似ていた。逆もまたしかり。大嫌いという感情が好きという感情に似ていても不思議ではない。一行目のセリフで、睦実は自分もまた正宗と同じ感情を抱いていると気づかされたのではないか。
 さきほど、たまたま前後して園部が正宗に好意を抱いたと書いた。それはたまたまではなかったのかもしれない。上履きを隠した園部に、睦実のことが嫌いなのかと問うと、園部は嫌いではない、「だけど、なんかあの子といると……気持ちが焦るっていうか。ほんとよくわからないんだけど。私、あの子見てると……」(六〇頁)と答える。
 園部が正宗に好意を抱いたのは、睦実が正宗に視線を送っていたことがきっかけではないか。それは好意の視線だったかもしれないし、あるいは軽蔑や嫌悪感、未分化などれともつかない感情だったのかもしれない。いずれにせよ化学反応のようにそれが園部の心に影響した。
 さて、一行目だけなら睦実の心を揺らがせはしても、それだけで終わっていたかもしれない。決定的な変化を与えたのは三行目のセリフだった。
 このやりとりの前後、二人はおたがいの心臓の鼓動を、息の熱さを感じあい、そしてキスに至る。おたがいの肉体を通じて二人はたしかな生を感じる。この町から変化が失われた長い歳月をずっと孤高であろうとし続けてきた少女が、一瞬で、劇的に変化した。自分はまぼろしに過ぎないと、この世界に不要な存在だと信じて生きてきた睦実にとって、それは初めてみつけた希望だった。

 睦実はどこか謎めいた印象があり、態度がころころ変わるため、なにかたくらみを秘めているように思えてしまう。
 ただこうして改めて解釈してみると、睦実はたいして嘘をついていない。もちろん正宗に五実の面倒を頼んだのは女の子のようだからとつまらない嘘をついたことはある。しかし心理面、感情的な態度については嘘がない。軽蔑しているような顔のときは本気で軽蔑しているし、惚れたような顔をしているときは本当に惚れている。
 やや複雑な家庭事情があり、まぼろしの世界という特殊事情のせいもあって、些細なきっかけで感情が劇的に変化する。そのせいでわかりづらい、推し量り難い印象になってしまう。

 いよいよクライマックスにおける睦実の心の変化を追ってみよう。
 ウェディングドレス姿にされた五実を連れて逃げ、さまざまな苦労の末に正宗たちはようやく列車に五実を乗せようとする。だが五実は「まさむねと……むつみと! いっしょにいる!!」(二一六頁)と必死に訴えかける。名前を呼ばれたことで睦実は五実を世話してきた日々を思い返し、自分も現実世界に行くと言いだす。乗り遅れそうになり、連結部の手すりにひっかけた正宗の指を剥がしさえする。
 上述のとおり、もともと睦実は五実を嫌っていたわけではなかった。まぼろしの町を守るため、そして佐上や亡き母との複雑な愛憎関係から、あえて素っ気ない態度をとっていた。しかし、五実が正宗と睦実のキスを目にしたことでまぼろしの世界は崩壊が近づきつつあった。正宗との関係を通じて自身を本物とみなすことで、まぼろしの自分が五実に愛情を注ぐわけにはいかないという言い訳は無効化された。これまでの非人道的態度を悔い改めるように、たとえ自分を犠牲にしてでも最後くらいは五実に尽くそうとしてもおかしくはないだろう。
 だが、睦実は再び考えを改める。きっかけはハッカパイプだった。
 十年前の現実世界にて、盆祭の夜に睦実はハッカパイプを買ってほしいとねだった。正宗と睦実はわざと置いてけぼりにし、残された五実は行方知れずとなった。現実世界の正宗はそのことを思いだし、半ば無意識にハッカパイプを買う。偶然からそれが睦実たちの手に渡ったのだった。
 盆祭の楽しい記憶を思いだした睦実は、本来なら当たり前のものとして五実が享受するはずだったさまざまなものに思いを巡らせる。そして五実に「他のものは、ぜんぶあなたが手に入れて。だけど、正宗の心は私が手に入れる」(二二二頁)と告げる。睦実だけが列車から飛び降り、五実は列車に乗ったままトンネルへ送られる。
 当然だが、自由を奪われていた五実が現実世界に送り返されただけでも、この作品は充分に感動的だったろう。そこに睦実の心情の変化が加わることで、より複雑な意味を孕むものへ変貌している。
 正宗たちと引き裂かれた五実は列車で泣き叫ぶ。睦実はトンネルからの声を「泣き声が、聞こえる……生まれたばっかの、赤ちゃんみたいな」(二三一頁)と喩える。評論家が喜んで指摘しそうなことだが、誰がどう考えてもこれは出産の比喩だろう。
 ただ、それは五実が二度目の生を迎えた、未来を与えられたということだけを意味しない。まぼろしのはずの睦実がまるで母になったかのような印象を受ける。列車から飛び降りたとき怪我をした睦実は「ちゃんと、痛い!」(二二七頁)と興奮し、とびきりの笑顔をみせる。
 世界から無価値とみなされ、そんな世界こそ自分には無価値だと虚勢を張り、他人に心を開くことを拒んで痩せ我慢をしてきた睦実が、正宗に存在を認められることで熱い感情を解放し、愛する者たちのために最善の選択を考え抜いて行動した。変わらない世界でまぼろしのように希薄になっていた少女が痛みを、人としての尊厳を取り戻した。五実に未来を与える形で睦実は生の実感を、希望をつなぐことができたのではないか。

おわりに

 初めのほうで私は、この作品は物語の緩急が明確で、エンターテイメントとして物語構成が優れていると述べた。
 一方で、思春期の痛々しい心情を描こうと力を入れるあまり、生理的/道義的に受けつけ難い要素を多々含んでしまった。興行成績は伸び悩むのではという意見があれば「まあ、そうでしょうね」と首肯するしかない。
 くわえてエンターテイメントとして注文をつけるなら、やはり睦実の心理的変化を追いづらいことはマイナスとしか言いようがない。ここまで述べてきたのはあくまで私個人の解釈に過ぎないが、仮にこれが正しいとして、映画を一度鑑賞しただけですべて理解できる者などいるだろうか?
 この作品はおおむね正宗の視点から語られる。睦実は謎めいたところのあるヒロインとして登場したのだから、中盤でしっかりとその背景が明かされ、終盤では観客との心理的一体感を果たさなければならない。私は映画館で、ずっと心の中で「わからん……女心がわからん……」と呻きながら鑑賞していた。

 しかし忌々しいことに――これは正直に告白するしかないが――私がこの映画で感動したのは、クライマックスで列車から飛び降りた睦実が怪我をして「ちゃんと、痛い!」と叫んだ場面だった。
 なぜ、と訊かれても困る。本当にそうだったんだとしか答えようがない。四十代後半、国内ミステリや深夜アニメばかり摂取してきた男の経験に基づく実に疑わしい意見でしかないが、どうも人は理解するより先に感動するものらしい。「ちゃんと、痛い!」と叫んだ睦実の笑顔を目にしたとき、私はここが到達点だと感じた。この場面にたどり着くためにすべてがある。いや、そんなにはっきりとしたものではなかった。言葉にしがたい、心を動かされたとしか言いようのない体験だった。

 希望とは目覚めている者が見る夢というアリストテレスの言葉を思いだしてほしい。これをこの作品に当て嵌めれば、目覚めている者とは現実世界の正宗たちのこと。夢とは中学生のままの正宗たちがいる、まぼろしの世界を指すだろう。失踪した五実がもしかしたらどこかで無事に生きているかもしれない。そんな希望がまぼろしの世界を創りあげた。
 現実世界では五実が行方知れずになったことで〝正宗と睦実の人生は、沙希を捜すことだけが命題〟(二〇五頁)となった。まぼろしの見伏がそうだったように、この夫婦の日々も閉塞感に満ちたものとなった。〝そろそろ二人目がほしいなどと話していたが、そんな話も消えた〟(二〇五頁)という。未来のない現実世界の者たちが、未来のないまぼろしの世界を夢見ていた。
 まぼろしの世界において睦実が成し遂げたのは真逆のことだった。まぼろしの世界から現実の世界へと五実を送り返す。五実に未来があると信じることで、それが希望となって睦実たちはいつか終わりを迎えるであろうまぼろしの世界で最後まであきらめず懸命に生きていく。未来をつかんだまぼろしの世界が現実世界の未来を夢見ている。
 もちろん『アリスとテレスのまぼろし工場』は虚構に過ぎない。けれど、こうは考えられないだろうか。まぼろしの世界は夢に過ぎず、だからどこにでもある。私たちが生きる現実もまた、まぼろしの誰かに夢見られているのかもしれない。もちろん厳しい現実はあるだろう。未来を信じられないと感じるときがあるかもしれない。けれどそれは考え方ひとつで、あるいは恐れず変化に挑み、懸命にもがくだけで変わるものなのかもしれない。
 などと教訓めいたことを述べて終わりにすることはできる。ただ、私がこの長々しい文章で伝えたかったことはそうではない。
 現実からまぼろしへ、まぼろしから現実へ。現実と虚構を巧みに対照させたこの形は美しい。なるほど、この作品はエンターテイメントしては傷があるかもしれない。痛ましく、気持ち悪く、薄暗く、わかりづらい。だが、それがどうしたというのだろう。
 あまりみだりには使いたくない言葉だが、他に適当なものを思いつかないのでしかたがない。天才が為せる技を私は堪能することができた。ここまでたどり着いたことに満足して筆を擱くとしよう。

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