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詩集『熱帯』 アジアの記憶

リゾートホテルは異国からの旅人たちのものだったが、そこから一歩、圏外に出ると、茫漠として闇のなかにメコンは流れていた。そこは別世界、濃密なアジアの匂いが立ちこめる、密林地帯だった。その林縁で、人々は昔ながら、太古から変わらぬ悠久の暮らしをつづけていた。

20201110メコンの夜明け 

アジアの記憶

アジアの内陸深く迷い込んで 遠く霞立ち折り重なる山々の脈絡の果てに
吹き渡る優しい風に無窮の思いを寄せ褐色に濁って悠々と流れ国境を越え
くだってきた大河メコンとメナムにひそやかに アジアへの思いを込めて

あヽ この四方を山に囲まれた異国の小都市で生き継いできた何世代もの
人々の何百何千何万ものアジアの民の願いと夢と憎しみとが折り重ねられ
紡がれて そして遠ざけられたことだろうか

幾百幾千幾万年もの遙かな往古のまだ大陸が地つづきでありやがて無数の
島々となるべき土地に歩いて渡ることさえできた素朴な日々あなたがたの
祖先たちは粗末な衣を身に纏って簡単な道具を手に持って河沿いに歩いて
季節を越え遠い歴史の果てにいずれわたしたちとなる遙かな旅をつづけた

この小都市を取り囲む鬱蒼と繁る熱帯雨林の生命のエネルギーを迸らせる
木々と生物たち彼らについて何千年にわたり語り継がれたあと忘れられた
わたしたちのアジアの記憶

そう そうだった 風は確かに大地をこのように吹いて渡った
水牛たちはゆっくり水草をはみ揚げ羽蝶は花々を流れるように
舞い乱れた 蝶や水牛と同様に人もそのように生き 女たちは
そのように男たちを愛したのだった

まもなく一日の終わり わたしはその町の中央を流れる川のほとりに
たたずんでこの世を焼けつくすかと思わせる深紅の斜光を放って沈む
夕陽にあぶり出されてずっと昔 こんな場面に立ち会ったことがある
そんな気がして

そう わたしは確かにかつてこの夕陽を見たような気がする
こんな美しい日没のなかで生きていたことがあった それは
わたしの細胞の一番内奥に塗り込められた古いアジアの記憶

その古代史の闇へとわたしを導く血のように赤い夕陽が
すべてを思い出し終わったわたしにあらためてささやく
〈旅立て 旅立て〉と何千年何万年を越えてあらためて
語られた アジアの風土の地霊たちがかたる秘密の言葉 

かくてわたしは
弁解もなく仕草もなく、ただただ古い記憶の傷が
絶えず痛み続けるような感覚に纏いつかれながら
世界は虚空に数条の朱色の残光を集束させて輝き
その後 音もなく純粋の暗黒に向けてゆっくりと
沈んでいくのを沈黙したまま見送ったのであった

キシタアゲハ 

ランタンの花に吸密するキシタアゲハ。アジアを代表する、巨大なアゲハチョウだ。

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