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『一九九一年未完詩集 青春』

 01 序 詩人論01

この作品を純粋無垢な[詩集]と考えるのには、多少の無理があるかも知れない。まず、書いた本人が純粋の詩集として読者諸氏の鑑賞に耐えるだけの自信がない。最初、詩集のつもりで編集を始めたのだが、長い作業のなかで性格変化していった。よくよく読み込んでいくと、この詩集はじつは著者の個人的なドキュメントというか、ノンフィクションの装いをまとったフィクション小説であるのかも知れないからだ。このことの背景には、詩人とはなにかという問題と現代に詩人は存在するか、という問題が二つながら絡みあって存在している。まずその事情を説明しなければと思う。 
この一冊の詩集をこの形でまとめあげるために、わたしはほぼ五十年の歳月を費やしている。ということは、わたしが子供心に「オレも詩人になりたい」と考え始めてから、五十年以上の、正確にいえば、一番最初に詩人になりたいと考えたのは中学校二年、十四歳のときだから、五十五年の風雪が積み重ねられて今日に至った、という意味なのだが、五十年前、十九歳のわたしが何者であったかといえば、社会的身分は学生だったが、心模様についていえば、詩人であったと書いてもおかしくないかも知れないと思いながらこれを書いているのである。
そもそも詩人とはいったいいかなる代物なのだろうか。ここでは、その最初の段階、わたしが詩人であろうとした時期のことについて書き、後書きの部分で、本書成立のいまから二十数年前の事情について書くつもりでいる。
まず、詩人と軽々にいうが、三好達治や萩原朔太郎であれば、職業詩人と書いていいのかもしれないが、たぶん、戦後昭和、それも昭和四十年代以降の日本社会では、詩人は社会的身分でもなく、職業でもない、心の有り様を示す言葉だったのではないかと思うのだ。これはつまり、社会的存在として、あるいは職業として専業的に詩人であろうとすると、収入もなくなり、失業者といわれても仕方のない、無力な存在に転落してしまうという意味でもあった。具体的に名前を挙げることはしないが、この時代以降の詩人たちはじつは皆、学校の教師であったり銀行員であったり、出版社の社員だったりしたのである。二人だけ具体名を挙げて論じるが、現代の詩人の代表格というと、谷川俊太郎さんがいるが、谷川さんは詩人の肩書きを持つタレントであると思う。彼は評論を書いたり、エッセイを書いたり、講演会をやったり、テレビに出たりしているが、これは実体としての詩人が[詩人・谷川俊太郎]という形で自分を商品化し、そこで生計を立てる能力を獲得することに成功した、唯一の実例であると思う。
もう一人、現代の詩人の先端的な存在の一人といわれている城戸朱理という人がいるのだが、この人についていうと、彼はわたしが昔、『ターザン』という雑誌を作っていたころのスタッフの一人である。誰の紹介で編集部に加わったかまでは覚えていないが、フリーのライターとして、花王のタイアップ広告のコピーをレギュラーの仕事にしていた。城戸はたしか、岩手県出身で実家が素封家の、奈良県の地主の息子だった保田與重郎と同じような、自分は執筆以外のことをせず、働かずにいて、それで収入がなくても食うのには困らないような、気楽な身分だったような記憶がある。本人にとって、そういう身分が本当に気楽かどうかまではわからないが、詩作に依存して生活しているような、職業詩人とはとても言えなかった。いまの彼の細かな事情まではわからないが、ここしばらくは新しい詩集も出していない。いまは横浜にある女子大の講師をしていると人づてに聞いた。
これは城戸朱理さんだけのことではなく、詩人を称する人たちについて書くと、細かいことは本人に聞いてみるしかないが、たぶん彼らは評論やエッセイや書評原稿など、多少は原稿書きもやっているだろうが、実際にはどこかの会社に勤めるサラリーマンだったり、ときどき、講演をやったりテレビに出たり、日常的に大学の教壇に立ったりして収入を得ていて、純粋に詩作そのもので生活しているわけではないだろう。それが何を意味しているかというと、小説家がいまや、印税、原稿料だけで暮らせなくなり始めている、文学全般の衰弱現象に先行して、現代詩の市場が真っ先に衰亡していったということだったのではないか。
専業の詩人を称する人は昭和のそのころもいたし、いまもいるだろうが、じつは詩作はその人の生活費をまっとうに稼ぎだすことがない。調べると、その人たちも資産家の息子であったり、大地主の家の跡継ぎであったりしている。そうでなければ別口で糊口を塗する勤め人であるのだ。わたしは、詩は現代社会では市場的にはすでに滅びたと考えている者だが、滅亡以前の詩はいわば高等遊民や数奇者たち、インテリたちの手すさびであった。わたしは学生で、生活のなかの処々で発作的に詩を書いていたのだが、基本、親のすねかじりで、毎月なにがしかの親からの仕送りに依存しながら、テレビ局でADのアルバイトをしたり、ときどきだが詩作とはなんの共通項もない出版社からの頼まれ原稿を書いて小遣い稼ぎをしていたのだから、その意味で、そのころのわたしは社会的身分は学生だが、心情的には確かに詩人であったと思う。しかし、かくいうわたしもいろいろと社会勉強をして、詩人が職業としてはとても生活費を稼ぎ出せるような仕事ではないと分かった次点でさっさと筆を散文書きに取り替え、出版社の編集記者になっていくのである。
 わたしに関していえば、詩人というのは、人生のプロセスのなかの特定のある時期の精神状態を指し示す言葉だったわけだが、それではそれはどういう経緯でそうなったかを書き置かねばならない。なぜならば、それは少年時代のわたしの、僅か数年の間に起こった子供から大人への[成長]のドラマだったのではないかと思うからだ。
少年の頃のわたしは孤癖のつよい、わがままで協調性の欠如した子どもだった。チームプレイというのが理解できず、反射神経が鈍かったせいもあり、野球やサッカーのような集団でやるスポーツが大嫌いだった。基本、ひとり遊びが好きで、メンコとかベーゴマのような、敵がいないと成立しない遊びをする時以外は、昆虫採集とか、ボール紙と割り箸を材料にした紙ヒコーキ造りに熱中したりする、友だちと遊ぶより、一人遊びの方が好きな子どもだった。行儀は悪く、素行も粗暴な子どもだった。わたしは母親がもの持ちのいい人だったから、小学生の時の通信簿なども保存しているのだが、その、小学三年の時の通信簿の[行動の状況]という欄にはこんなことが書かれている。学級委員としての責任ある行動がとれず、常に脱線ばかりしています。責任感が乏しく、忘れ物が多く、落ち着きがなく、忍耐力がありません。我が儘なのか、いけないことを承知してやっています。協調性もなく、友だちとの協力が出来ない。楽天的で呑気である。同じことに長い時間耐えることが出来ず、直にあきてしまう。自分の行動を反省できず、注意されてもケロリとしている。マジに、いいことは何も書いてない記述である。同じ通信簿のなかに保護者の書き込み欄があり、底に母親が「頭の痛いのはこの子のことでございます」と書いている。それがなぜ、学級委員をやっていたのかよく分からないが、勉強は出来たから、これだけ成績がよければさぞかしいい子だろうと先生が考えて、学級委員に指名したら、大間違いだったというコトではないかと思う。[行動の状況]の方は引用したとおり、さんざんに悪口を羅列書きされているのだが、これが[学習の状況]の方になると、たとえば国語は「読み方は上手です。句読点を正しくとらえているので、意味や内容も正しくとらえることが出来ます。作文は文章を正しくまとめられます。漢字をよく理解していて、正しく書けます」と[行動の状況]に書かれていることからは信じられないようなイイコトがいっぱい書き込まれている。算数も社会科も理科も国語と同様の礼賛の言葉が並んでいる。
自分ではこれを、わたしがもう小学校低学年のころから反抗期に入っていたのではないか、と自己分析している。もう八歳、九歳のころから世間のありようが許せなかったのだ。このことに関連して付け加えるのだが、私には小学五年生ころまで、オネショをする癖があり、それがなかなか直らなかった。それもたぶん同じような意味があり、自分が生まれ落ちた立場というか、生活環境に対する抗議活動のような意味があって、現実を否定し、それに対する抗議としてオネショをしつづけていたのではないかと思うのだ。 普通の子どもの場合、反抗期は思春期といっしょにやってきて、親のいうことを聞かなくなり、非行に走るということが多いのだが、わたしの場合は一足先に反抗期だけがやってきて、悪態はつくわ、オネショはするわ、だったのである。あとからおくれて、クラスの美人の女の子を好きになるというような、思春期がやってきた。その間、学校の成績だけはどういうわけかいいのである。このメチャクチャのアンビバレンツがわたしの出発点だった。
この大人に対する反抗の態度は小学校の高学年になっても改まることなく、わたしは片時もじっとしていられない、まことにすわりの悪い子どもで、とにかく目立ちたかったのだろうが、教室で授業中に先生が授業するのを邪魔するように騒ぐので、先生たちからも目の仇にされていていた。歴代の担任の教師にも何度か殴られているのだが、これをわたしは自分ではすっかり忘れてしまっていて、覚えていないのである。
過日、小学校五、六年生のときの同窓生の集まりに出席して、その時の担任の先生が亡くなられていたことを知ったのだが、その先生が、そのころの思い出話に「わたしは教室で子供たちに暴力を振るったことはほとんどないが、シオザワだけは殴った。それをいまも後悔している」と語ったというのだ。その話を聞かされた時の慚愧に堪えぬ思いはいまも忘れられない。村上先生というのだが、この先生に殴られたことをわたしはすっかり忘れ果てていた。わたしに限ったことかも知れないが、人間というのは自分に都合の悪いことはさっさと忘れてしまうものなのである。
態度が悪い、生意気だということで、何人もの先生に怒られたり、殴られたりしたが、わたしが先生に殴られた最後の記憶というのがある。それは中学校二年の時の担任の先生で、牧村という、定年まじかの国語教師だった。
それが、授業時間に教科書のなかに隠して柴田錬三郎の『眠狂四郎』を読んでいるのを見つけられて、立たされ、殴られた。このころのわたしはクラスで一番、二番の成績で、特に国語と社会科、理科は学年でもいつも一番、二番の成績を取っていて、牧村先生としても自慢の生徒だったはずだから、先生は[コイツは授業をバカにして、いい気になっている]と思って、よほど腹が立ったのではないか。わたしはこのころ、家の近所にあった貸本屋の常連で、山田風太郎とか柴田錬三郎とか、山手樹一郎、吉川英治なんていう作家たちの書いた時代小説や剣豪小説が大好きでそういう類いの小説を片っ端から読破している、その途中だったのだが、先生に殴られ、読んでいた本を没収され、あとから職員室に呼び出されて、先生から「こんな本ばかり読んでいないでもっとチャンとした本を読め」とお説教され、取り上げられた本を返してくれた。
そのころのわたしの家は、父が浮沈をくり返すような世渡りをしていたので、基本、貧しく、昔、旅館だったという古い建物の八畳一間を借間してそこで、家族五人、父と母と姉と妹とわたしで身を寄せ合うようにして暮らしていたのだが、そういう貧窮のなかでも、母が行李のなかに入れて絶対に手放そうとしない、日に焼けて表紙が変色してしまった岩波文庫が二十冊ほどあった。夏目漱石やトルストイ、ルソーの『懺悔録』、ジイド、メリメ、徳冨蘆花ほか、雑多な作家たちの作品なのだが、これは昭和十四年に中支で戦死した母の兄(つまりわたしの伯父さん)の蔵書で、大切な遺品だった。伯父の戦死の状況はほとんど分からないが、腹部を撃たれ苦しんで死んだと聞かされている。四人姉弟のただ一人の男の子で家の大事な跡継ぎ、東京高等師範(のちの東京教育大学、現在の筑波大学)出身の英才だったという。
母はオッチョコチョイでいかれポンチ、いつまでたってもオネショばかりしているわたしをいつも嘆いていて、どうしてこの子はこんななのだろうと考えていたのだろうが、ちゃんと勉強なぞしないのに学校の成績だけはよかったから、たぶん、母親にとってわたしは、その戦死した伯父の生まれ変わりのはずだったのである。
わたしは担任の牧村先生に殴られ、「『眠狂四郎』を読むなとはいわないが、もっといま読んだ方がいい、大切な本がいっぱいあるはずだ。ちゃんとした本を読め」とお説教された。そのとき、先生がどんな本を読めといったかまでは覚えていないが、これと前後して、同じクラスのわたしが好きだった女の子が「堀辰雄と立原道造が好き」と言っているのを小耳に挟んで、図書館で堀辰雄の作品集と立原道造の詩集を借りて、読んで、そのロマンチックにたちまち取り憑かれることになるのである。急にそういう本、いわゆる文学書を読み始めたわたしに、「読んでご覧なさい」といって行李のなかから出してくれたのが、伯父の遺品の二十冊の岩波文庫だった。前述したように、本の内わけは雑多で、主として内外の小説作品だったが、そこに一冊だけ、詩集が混じっていた。それが明治時代に『明星』や『スバル』などで詩人として活躍し、ドイツ文学者としてゲーテやリルケ作品の翻訳も手がけた茅野蕭々という人が編集した『上田敏詩抄』という詩集だったのである。上田敏は本邦の初翻訳詩集である『海潮音』の著者だ。詩集が作品の体裁として一番取りつきやすく、読みやすかったこともあったが、この詩集を読んで、作品のなかのカール・ブッセの「山のあなたの空遠く「幸」住むと人のいふ」(『山のあなた』)とか、ポール・ヴェルレーヌの「秋の日のビオロンのため息の身にしみてひたぶるにうら悲し」(『落葉』)とか、レミ・ドゥ・グルモンの「シモオヌ、そなたの髪の毛の森にはよほどの不思議が籠もっている」(『髪』)なんていうフレーズにすっかりやられてしまうのである。
これがわたしと詩との本格的な遭遇で、このあと、わたしはたちまち島崎藤村とか、土井晩翠、与謝野鉄幹、神原有明、薄田泣菫、北原白秋、三木露風と明治の詩人たちの世界に迷い込んで、漢和中辞典を片手に文語体表現の雅語にまみれて暮らすようになる。これが中学二年生、十四歳のときの出来事である。彼らの真似をして、見よう見まねでへんてこりんな詩も作ったが、まず、わたしがやったことは大学ノートに彼らの作品をそっくり書き写すことだった。このあと、そのノートはそのまま、日記になって文章修行と生活記録を兼ねた存在になっていくのだが、そもそもの始まりは人の作品を模写するためのノートだった。じつに、わたしの詩人になりたいという素朴な願望はここから始まったのである。詩はとにかく、文章は短いくせに濃密な意味に溢れていて、貧弱だった少年の想像力をめいっぱいかき立ててくれた。この詩を読むのに夢中になり始めた中学生のころ、たぶん、ヘッセとか夏目漱石とかも読んでいるのだろうが、自分の記憶としては、いろんな人の詩集ばかり選んで読んでいたような気がする。記憶しているところでは、三好達治の『測量船』のなかにあった〝母よわたしの乳母車を押せ、泣き濡れる夕陽に向かって、凛々とわたしの乳母車を押せ〟とうたう「乳母車」とか、佐藤春夫の『殉情詩集』のなかの、〝こぼれ松葉をかき集め おとめのごとき君なりき〟という書き出しの「海辺の恋」などは心にしみこんで愛唱した。特にショックを受けた詩集は、萩原朔太郎の『氷島』で、この詩集のなかの作品はどれも緊張感に富んだものだと思うが、そのひとつに「歸郷」という作品がある。表題のそばに「昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱えて故郷に帰る」という朔太郎自身の作品解説が着いている。こういう作品である。

 わが故郷に歸れる日
 汽車は烈風の中を突き行けり
 ひとり車窓に目醒むれば
 汽笛は闇に吠え叫び
 火焔は平野を明るくせり
 まだ上州の山は見えずや。
 夜汽車の仄暗き車燈の影に
 母なき子供らは眠り泣き
 ひそかに皆わが憂愁を探れるなり
 嗚呼また都を逃れ来て
 何所の家郷に行かむとするぞ。
 過去は寂寥の谷に連なり
 未来は絶望の岸に向へり
 砂礫のごとき人生かな!

どうして子どものわたしがこの詩に心が震えるような感動を味わったかというと、小学校の三年の終わりに自分が経験した故郷からの家族での出奔(夜逃げ)にそっくりのような気がしたせいではないかと思う。
朔太郎の場合は、東京での生活をあきらめて故郷に帰るところで、わたしたちは逆に生まれ故郷を捨てて、東京に逃げるという、話の立場は逆なのだが、切羽詰まった心情は極近しいものがあったのである。萩原朔太郎はご存じのように『月に吠える』や『青猫』ではひらがなの持つ柔軟な言語感覚を徹底的に追求して見せていたのが、この『氷島』では一転して、漢字言葉の持つ歯切れの良さを生かした韻律の詩編を作りあげていて、わたしには猛烈にショッキングだった。憂愁とか寂寥とか絶望とか、それまで、その存在すら知らなかった言葉がぎゅうぎゅうに詰めこまれていた。
このころから本格的に小説も読み始めたが、詩集は片っ端から読み漁るというような状態で、外国の詩人たちにまで手を伸ばし、ランボーやボードレールやリルケ、エリオットの訳詩集などに夢中になった。詩集を読むのと並行的にノートや原稿用紙に自己流の詩を書き綴り始めたわけだが、大学一年生(一九六六年ころ)までにはかなりの数の詩を作ったし、ノートに日記を書く癖も中学生のころに始めた人真似して詩を書き綴るところからのもので、それらのノートも手元に保管しているが、これは作品としてはひどくて、読むに堪えない。書いていることの辻褄も合っていないので、ちょっと人に見せられない。
大学生になって、自分が[オレは人に読ませることのできる文章が書けるようになった]と思えるようになったのはこのあと、一九六七年ころからのことである。それと同時的に鮎川信夫とか、吉本隆明とか、森川義信とかの作品に接するようになった。そこで自分なりのオリジナリティということも考えるようになり、この本に収録したような作品を書き始めたのである。
これらの詩篇がどれほどのものなのか。正直いって、この詩集が客観的な立場に立ってみて、どれほどのものかもわかっていないのだが、子どものとき、詩人になりたいなどと考えなければ、作家はおろか、編集者にもなっていなかったと思う。本好きは子どものころからのことだったから、書店とかに勤めていたかもしれない。この詩集のなかには、その大学生になったころからの作品が収められている。[詩を書く]ということを、人間の生の本質はエネルギーの発露だと考えているわたしの基本的な考えからすれば、わたしのなかの行動の粗暴と学的な叡智とは表裏一体のもので、じつは[生きる意志]のようなものだったのだと思う。つまり、少年というか幼年のときの、無軌道で無原則な情念、自分のなかのなにかに対する怒りとかあこがれに対しての感情的なほとばしりを、自分は詩人であると考え、詩という表現の形を定めることで、そういう自分自身のエネルギーの過剰や暴発をコントロールできる能力を手に入れた。そして、それによって人より早くやってきた幼年性の反抗期を乗り越えることができた、ということなのではないか。
その基準を整えるための心の基本の形は、主として[恋愛]というか、好きな女の子に対してのあこがれの思いであり、それが詩人でありたいという自分の状況を通じて、わたしという人間の基本形を作り出したと思う。その意味で、そのころにわたしと行動を共にしてくれた美しい少女たちに改めて感謝しなければならないだろう。
わたしの恋愛はうまくいったり、うまくいかなかったりしたし、純情だったり不純だったりしたが、五十何年かが経過してみて、わたしに分かったことは、男は最終的にどんなにうまくやっても一人の女だけしか幸せにできない、ということだった。それは男のせいではなく、男はいつも計算もなにもなく、本質的にというか本能的に、つまり、出発点はつねに、生物学的に[オス]であるということなのだが、一人でも多くのいい女とセックスして、あわよくば種付けに成功して、自分の血筋を一人でも多くこの世のなかに残したい、そして、その子をその女に育てて欲しいと身勝手は承知の上で考えるものだと思う。
男というのは多少の後ろめたさはあるが、幾人もの女たちを幾重にも愛せるものなのだ。しかし、最終的には一人の女だけしか幸福にしてあげられない。それは女たちがいつも、自分の最後の男を求めているせいもあるが、自分がその男にとっての最後の女でなければ気が済まないという、女の側の思考の形=エピステーメーのようなもののせいでもある。女はいつも、自分がその男にとっての最後の女であることを求める。これは『源氏物語』が書かれる以前からの人間的真実である。わたしは男だし、生涯、妻だけを愛したと書くわけにもいかないが、けっきょく、最後は一人の女だけしか幸せにしてやれなかった。これはこの年齢になったからこそ気が付いた、人間の、というか、男の宿命である。そして、あらためて書くのだが青春とは、ひと言で言えば、人生の本当の答えを知らずに生きることのできた、幸福な日々だった。いまのわたしに、人生の答えがわかったというような悟った思念はないが、人間の生と死についての自分なりの思いはある。そして、かなりの喪失感といっしょに自分の書いた詩篇のなかに顔を埋めて泣きたいような気分がある。わたしの人間についての自分なりの思いとは、このこともいろいろな本にくり返し書いてきているが、

 人は生まれ、そして苦しみ、やがて死ぬ

ということである。人生のある種の本質だと思う。人間がなぜ苦しむかといえば、夢の実現や希望、野望、欲望、追い求める理想のせいだ。詩集『青春』のなかには、上の一行の真実に気付かずに生きることができた日々の、幸福な自分がいる。これらの詩のなかの感性を昔の自分のことながら、若いということを含めてつくづく羨ましいと思う。傷だらけだったし、その傷は始終痛んだ気がするが、思えば、全然痛くなかったような気もする。
この本は自分が詩人でありたいと考えていたその、特定の何年間かの詩作品を中心にして編集したものだ。それらを整理し、羅列書きしてみると、大きな流れの中でのドキュメントになっていた。つまり、この詩集は私の青春のセルフ・ドキュメンタリー小説であり、なんとか人に読ませることのできるものを書けるようになったわたしの、一番最初の文学的道標である。

(序 おわり)

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