クリス・ヒルマン自伝『Time Between』から見る、カリフォルニア産カントリーロックの系譜(その5(最終回):90年代半ば〜現在)
ザ・バーズ、フライング・ブリトー・ブラザーズ、マナサス、デザート・ローズ・バンドなどで活躍してきたクリス・ヒルマンの自伝『Time Between — My Life As A Byrd, Burrito Brother, And Beyond』(2020年刊行)から、彼の足跡を辿る連載の最終回。今回はデザート・ローズ・バンド(DRB)解散後の90年代半ばから現在にいたる活動を見ていこう。
ハーブ・ペダースンとのベイカーズフィールド・サウンド・トリビュートアルバム
DRB解散後のクリス・ヒルマンの音楽については、あまり語られることは多くないように思う。しかし、この時期、彼は非常に質の高い作品を残している。この時代のリラックスした雰囲気の作品群を聞いていると、商業的な制約から解放され、自身の満足いく形で音楽に取り組めたことが好結果に結び付いているように思える。
94年のDRB解散後、音楽活動からしばらく離れ、空手のレッスンなどにいそしんでいたヒルマンだが、1年ほどすると音楽への熱が再燃する。そんな時、またしても渡りに船になったのが、80年代初めにクリスのアコースティック・ソロアルバムをリリースしてくれたシュガーヒル・レコードの社長、バリー・ポスだった。DRBでのパートナーでもあった盟友ハーブ・ペダースンとのデュオとして、彼らのルーツの一つである50〜60年代のカリフォルニア産カントリー、ベイカーズフィールド・サウンドのトリビュートアルバムを作るという企画がまとまったのだった。集められたミュージシャンは、やはり元DRBのジェイ・ディー・マネス(steel)に加え、ラリー・パーク(gu)、リー・スクラー(b)ら少数精鋭。制作予算はわずか8千ドル。無駄な時間は掛けられず、スタジオに入った時にはほぼ一発録りできる状態で臨んだという。それが吉と出、完成したアルバム『Bakersfield Bound』(1996)では、バック・オウエンズやマール・ハガード、エヴァリーブラザーズなどのカバーを含む、2声ハーモニーを特徴とする、イキイキとしたカリフォルニア・カントリーサウンドが再現されていた。
興味深かったのは、「Close Up the Honky Tonks」や「Brand New Heartache」など、収録曲のうち数曲がフライング・ブリトー・ブラザーズ(FBB)の幻のサードアルバムとなったカントリーカバー集(グラム・パーソンズ在籍末期に収録されたがお蔵入りし、後に編集盤で陽の目を見た)で演奏されていた曲だったことだ。クリス・ヒルマンのやりたい音楽は、FBBの時代から基本的に同じであるということに妙に安心したものだ。実際、クリス自身も「カリフォルニアで生まれ育ったハーブと僕には、この種の音楽のDNAが埋め込まれている」と自伝に書いている。大半はこういったカバー曲だが、それらのカバー曲をコンセプト的にまとめる意味合いで書かれたクリスのオリジナル作品も秀逸だった。
ライス兄弟、ハーブ・ペダースンとのブルーグラスアルバム
ハーブ・ペダースンとのデュオアルバムに続いて当時の私をさらに狂喜させたのが、97年にラウンダーレコードから発表されたアルバム『Out of the Woodwork』だった。これは、60年代前半の南カリフォルニアのブルーグラスシーン(本連載の「その1」参照)でしのぎを削った旧友、ラリー・ライス(vo. gu. mandlin)・トニー・ライス(gu)兄弟と、ハーブ・ペダースン(vo. gu. banjo)、そしてクリス(vo. gu. mandolin)のクァルテット名義のアルバムで、直訳すると「木工細工から」となるタイトル通り、全編アコースティック楽器による作品。と言ってもトラディショナルなブルーグラスではなく、曲はDRB時代のものも含むクリスやハーブのオリジナル、ラリー・ライスのオリジナルに加え、スティーヴン・スティルスのマナサス時代の曲「So Begins The Task」、FBBのファーストでも取り上げられていたサザンソウルクラシック「Do Right Woman」、さらにはリチャード・トンプソンやマック・マクナリーの作品まで、ブルーグラス楽器を使ったコンテンポラリー・アコースティック・サウンドと言っていい素晴らしい仕上がりになっている。
このプロジェクトは、当時たまたま再会したラリー・ライスから「一緒にアルバムを作らないか?」と持ちかけられたことから実現したもので、プロジェクト自体が彼らと同時代のカリフォルニア・ブルーグラスシーンで活躍したクラレンス・ホワイトに捧げられており、バックには、マイク・オールドリッジやジェリー・ダグラス(共にドブロ)らブルーグラス界の名手も名を連ねている。
アルバムの発表元であるラウンダーレコードは、ボストン近郊のフォークシーンを背景に70年代初頭から良質のフォークやブルーグラスアルバムを送り出し続けてきた良心的な独立レーベル。そんな音楽性重視のレーベルに支えられたのか、ライス・ライス・ヒルマン・ペダースン(RRHP)は、特に熱心にプロモーションツアーを行うことなどなくても、緩い繋がりのユニットとして存続。その後も99年と2001年にアルバムを発表しており、いずれの作品においても1枚目と違わぬ良質のアコースティックミュージックが展開されている。
シュガーヒルからの久々のソロアルバム
クリスは、RRHPをサイドプロジェクト的に続ける一方、98年にシュガーヒルから新たなソロアルバム『Like A Hurricane』を発表する。シュガーヒルとラウンダーは似たようなレーベルカラーから友好関係にあり、一方の契約が有効でも異なるプロジェクトであれば双方のレーベルからアルバムを発表することに異論を唱えることはなかったという。プロデューサーにサウザー・ヒルマン・フューレイ(SHF)バンドのファーストを担当したリッチー・ポドラーを迎え、ハーブ・ペダースン、ジョン・ジョーゲンソン、ジェイ・ディー・マネス、スティーヴ・ダンカンの元DRB組や、ジェリー・シェフ、デイヴィッド・クロスビーらの旧友も参加したこのアルバムの出来はまずまずと言ったところ。決して悪くはないが、楽曲自体がやや弱いのと、この当時、ハーブ・ペダースンらとのプロジェクトで美しいハーモニーを聞き慣れていたせいもあってか、ハーモニーがさほど強調されていない面に若干物足りなさを感じてしまう。
この当時のヒルマンは、トリビュートアルバムの類にも頻繁に駆り出されている。97年にはローウェル・ジョージのトリビュートアルバム『Rock and Roll Doctor』に参加。ジェニファー・ウォーンズとのデュエットで「Staraight From The Heart」をゆったりとしたカントリー調でカバー。また、99年にエミルー・ハリス主導でまとめられたグラム・パーソンズのトリビュートアルバム『Return of the Grevous Angel』では、FBB時代の曲「High Fashion Queen」をスティーヴ・アールとのデュエットで披露している。
近年の作品や彼の人生を支える信仰心
傍目には積極的に音楽活動を行なっているように見えた90年代後半のクリス・ヒルマンだが、自伝によると98年から99年初頭にかけては、C型肝炎で生死の境をさまよったという。99年1月、主治医が「後はもう神に祈るだけ」と言う状態にまでなった夜、彼は神様に「自分はもうそちらに行く用意ができているので、後はお任せします。家族のことだけお願いします」と祈ったという。すると、その翌朝、不思議なことに奇跡的に快方に向かったという。
このエピソード自体、実に不思議だが、クリス・ヒルマンの後半生はある意味信仰に支えられていることが自伝を読むとよくわかる。実際、彼の90年代以降の曲のいくつかには、「自分はある程度十分に生きたから、後は神様にお任せします」といった姿勢が垣間見れる。クリスが最初に真剣に信仰を意識したのは、SHFバンド時代の同僚、アル・パーキンスに勧められたことに始まるが(リッチー・フューレイも同様)、その後も宗派を変えながらも信仰心を深めていく。私たち日本人の多くには理解しがたい部分もあるが、こういった信仰心が人間としてのある種の強さと後半生の充実につながっていることを実感した。その点、現在牧師としても活動しているリッチー・フューレイにも通じるものがある。
再びハーブ・ペダースンと
2000年代に入ると、クリスは再びハーブ・ペダースンとのデュオとして定期的に活動を行うようになる。2002年には元々ヴァージンレコードの子会社だった独立レーベル、バックポーチ・レコードから再びデュオとしてのアルバム『Way Out West』を発表。ジェイ・ディー・マネス(steel)、ビル・ブライソン(b)、ラリー・パーク(gu)らお馴染みのメンバーの参加を得たこのアルバムは、ルーヴィンブラザーズやエヴァリーブラザーズのカバーが取り上げられるなど、二人の前作『Bakersfield Bound』の続編といったところ。
とはいえ、ベイカーズフィールドサウンドに特化した前作よりはもう少しブルーブラスの色も感じさせる仕上がりになっているが、クリスのオリジナルもキャッチーな佳曲揃いだ。クリスの姪が担当したというカバーアートやインナースリーブでは、50年代のアメリカ西海岸で育ったクリスとハーブの幼少期や青年期の写真がフィーチャーされ、タイトル通り西海岸カントリールーツを象徴するような秀逸なデザインに仕上がっている。しかし、残念なことにこの作品を発表したバックポーチ・レコードはその後倒産してしまい、現在このアルバムのマスターテープは行方不明のままだという。
ハーブ・ペダースン プロデュースによるアコースティックソロ作
2005年にはハーブ・ペダースンのプロデュースで、久しぶりのソロ作が登場する。ソブリン・アーティストというマイナーレーベルから発表されたこのアルバム『The Other Side』は、RRHPの作品群同様、アコースティックな肌触りを大切にした仕上がり。バーズ時代の「Eight Miles High」やマナサス時代の「It Doesn't Matter」、ジェニファー・ウォーンズがハーモニーを聞かせるトラディショナル曲「The Water Is Wide」などカバー曲もそれぞれ秀逸だが、大半の作品はDRB以降の曲作りパートナーであるスティーヴ・ヒル(彼も敬虔なクリスチャン)との共作。タイトル曲の「The Other Side」や「Heaven Is My Home」「Our Savior's Hands」など、先に触れた「いつ神に迎えられてもいい」といったニュアンスの曲が目立ち、クリスのヴォーカルやマンドリンも今まで以上にまろやかな響きを帯びている。
そして、2008年にはトムス・キャビンの招聘でクリス&ハーブのデュオとして来日。クリスのギターとマンドリン、ハーブのギターとバンジョーという完全アコースティックで全国の小さなライブハウスでの公演が実現した。私も下北沢のラ・カーニャというライブハウスで至近距離で彼らの演奏に触れることができた。当時の近作『The Other Side』の世界をそのまま再現したような、リラックスしつつも高度な演奏とハーモニーが素晴らしいコンサートだった。(下の映像は、2012年の二人のアコースティックライブから、バーズ時代の曲「Eight Miles High」)
トム・ペティ最期のプロデュース作品となった 『Bidin' My Time』
この頃になるとようやくクリスの功績が評価されるようになってくる。2009年にワシントンDCの国会図書館に自身の音楽体験についての講演を依頼されたのを皮切りに、グラミー博物館やゲッティ・ミュージアム、UCLAなどでも講演を依頼された。また、既にバーズのメンバーとしてはロックの殿堂入りしているヒルマンだが、2000年代以降はソロアーティストとしても彼の功績を讃える受賞が増えてくる。アメリカーナ・ミュージック・アソシエーション(2004年)やイギリスの『Mojo』誌からの「ルーツ・アワード」(2005年)、ファーウェスト・フォーク・アライアンス(2013年)など、「アメリカーナ」や「ルーツミュージック」という考え方が定着してきたことによって、ようやくこの分野におけるヒルマンの存在が広く認知されてきたのだった。
そんな中、新たなソロアルバムの企画が浮上する。それは、あのトム・ペティにプロデュースを任せるというもので、盟友ハーブ・ペダースンのアイデアだった。2016年にトム・ペティが再結成したマッドクラッチのレコーディングとツアーにゲスト参加したペダースンが、クリスとトムの双方にこの話を持ちかけたのだった。元々熱心なバーズ・フォロワーでロジャー・マッギンとも親しい間柄だったペティだが、ヒルマンとはそれまでさほど関係が深いわけではなかった。
2017年1月に始まったレコーディングは、ヒルマンにとって良い刺激になったという。元々はアコースティックアルバムをイメージしていたヒルマンだが、徐々にエレキギターやドラムス、キーボードなどが加えられていったようだ。こうして完成したアルバム『Bidin' My Time』は2017年9月にラウンダーから発表された。
さすがに年齢のせいかヒルマンの声がやや枯れて聞こえるが、サウンドとしてはトム・ペティの好みか、初期バーズの面影を色濃く感じさせるものとなった。バーズ時代の曲「Bells of Rhymney」(ピート・シーガー作品)、「She Don’t Care About Time」(ジーン・クラーク作品)、「Old John Roberston」(ヒルマン自身の作品)のリメイクを含む上、ゲストにはマッギンやクロスビーも参加しており、ある意味当然と言える仕上がり。個人的には近年のアコースティックなヒルマンの良さが少し薄れてしまったようにも感じるが、見方を変えればバーズ時代から今にいたるヒルマンの音楽の総括と取れないこともない。(下の映像は『Bidin' My Time』のプロモーション映像)
このアルバムが2017年9月に発表されると、アルバムプロモーションのためのショートツアーが9月末から10月に掛けて企画された。ところが、その最中の2017年10月2日、クリスの元にトム・ペティ急死の知らせが届いた。ショックのあまり、残りのツアーをキャンセルしようとしたクリスだったが、彼の元に電話を掛けてきたロジャー・マッギンが言った。「トムはそんなことは望んでいないはずだ。彼を讃える意味でも残りのショーをやり遂げるんだ」と。旧友マッギンのこの言葉が後押しとなって、ヒルマンは悲しみを乗り越えてツアーを完遂することができたという。
ようやく評価を得るにいたった近年の姿
『Bidin' My Time』ツアー終了後、またしばらく音楽活動から離れていたヒルマンだが、2018年にロジャー・マッギンの発案で、カントリーロックの礎と言われるバーズのアルバム『Sweetheart of the Rodeo』発表50周年記念のミニツアーが企画された。バックには、彼らのフォロワーとも言えるマーティ・スチュアートと彼のバンド、ファビュラス・スーパラティヴズが付いた。ヒルマン自身も後で知ったことなのだが、実はこの企画は、2017年の暮れにカリフォルニアの山火事で自宅を半焼させたり、トム・ペティや相次ぐ旧友たちの死などで落ち込んでいたヒルマンを元気付けるために、マッギンがマーティ・スチュアートを誘って企画したものだったという。
2020年に今回の連載で取り上げている彼の自伝『Time Between — My Life As A Byrd, Burrito Brother, And Beyond』が発表されて以降、ヒルマンに対する世の中の認知がより深まってきたようだ。昨年(2022年)9月には、ナッシュビルのカントリー・ミュージック殿堂博物館で、60年代後半から70年代にかけてのロサンゼルスのカントリーロックとその影響の大きさに迫る企画展「Western Edge: The Roots and Reverberations of Los Angeles Country-Rock」がスタート(2025年5月まで)。そのオープニングで、ショーン&サラ・ワトキンス兄妹とともに演奏を披露するなど、ヒルマンはこの企画の中でも特に重要な存在として扱われている。
バーズが『Sweetheart of the Rodeo』を録音中の1968年、「生意気なヒッピーたち」と見られてナッシュビルで苦い体験(本連載の「その2」参照)をしてから50余年。そのナッシュビルの音楽産業の中心でカリフォルニアのカントリーロックが讃えられるようになったのには隔世の感もあるが、クリス・ヒルマンやリッチー・フューレイなど、必ずしもロックの表舞台で商業的成功を得たわけでない地道なアーティストたちに光が当たり、彼らのレガシーが受け継がれていくことは、長年のファンとして嬉しい限りだ。
またクリスは、2022年の5月からデジタルラジオ放送のシリウスXMで「Chris Hillman’s Burrito Stand」という番組を受け持ち、現在も継続中。私は未聴だが、同時代の旧友たちや彼のフォロワー(例えば、ロジャーマッギン、バーニー・レドン、リッチ・フューレイ、J.D.サウザー、ジョン・マキュエン、ドゥワイト・ヨーカム、マーティ・スチュアートら)を時々に迎えてさまざまなエピソードを披露しているようだ。
2023年9月現在、78歳のクリス・ヒルマン。彼の人生はかつての同僚グラム・パーソンズほどドラマチックなものではないかもしれない。しかし、ヒルマンがいなければ、「カントリーロック」と呼ばれたカリフォルニア産の音楽の風景が少し違うものになっていたかもしれない、そのくらい重要な存在だったことは間違いのない事実だろう。
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