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クリス・ヒルマン自伝『Time Between』から見る、カリフォルニア産カントリーロックの系譜(その3:マナサス〜SHF〜ソロ〜MC&H)

ザ・バーズ、フライング・ブリトー・ブラザーズ、マナサス、デザートローズバンドなどで活躍してきたクリス・ヒルマンの自伝『Time Between — My Life As A Byrd, Burrito Brother, And Beyond』(2020年刊行)から、彼の足跡を辿る連載の3回目。今回はブリトーズ解散からマナサス結成に至る流れから見ていこう。(ここまでの経緯については、前回前々回の記事をご覧ください)

スティーヴン・スティルスとの再会

フライング・ブリトー・ブラザーズが、クリスのブルーグラス時代の同僚ケニー・ワーツ(g, banjo)やバイロン・バーライン(fiddle)らを交えてブルーグラスセットもフィーチャーしたライブツアーを行なっていた1971年のある日、彼らが滞在していたオハイオ州クリーブランドでたまたまスティーヴン・スティルスのソロコンサートがあった。当時、スティルスはCSN(&Y)の活動から離れ、ソロアクトとして実績を積んでいた。このときスティルスと久々の再会を果たしたヒルマンは、さらにその後、当時のスティルスの本拠地コロラドでのライブでも彼と旧交を温める。

実は、スティルスはヒルマンにある恩義を感じていた。それはスティルスがニール・ヤング、リッチー・フューレイらと組んでいたバッファロー・スプリングフィールドがまだ駆け出しの頃に遡る話だった。1966年当時、LAの有名なクラブ「ウィスキー・ア・ゴーゴー」への出演を目論んでいたバッファロー・スプリングフィールドだったが、最初はクラブ側から出演の承諾をもらえなかった。スプリングフィールドのドラマー、デューイ・マーティン(その前はブルーグラスバンドのディラーズに在籍)を介して彼らの素晴らしい演奏に触れていたヒルマンは既にバーズで十分な実績のある存在。ウィスキーのオーナーと掛け合って、スプリングフィールドの出演を認めさせ、これがバッファロー・スプリングフィールド躍進のきっかけになった。その時の恩をスティルスは忘れていなかったのだった。

スティルスとの再会後しばらくして、バーニー・レドンと同居していたヴェニスビーチの自宅でオフを過ごしていたヒルマンの元に、スティルスの関係者から1本の電話が入る。これから録音しようとしているソロアルバムにカントリーやブルーグラスの要素を入れたいので、アル・パーキンス(steel)、バイロン・バーライン(fiddle)とともにマイアミのクライテリアスタジオに来てくれないかという誘いだった。ちょうどブリトーズの東海岸ツアーを控えていたヒルマンは、喜んでセッションに参加する。この時、スティルスは、ウィスキー・ア・ゴーゴーのお礼だと言って、「Gibson F-5 Lloyd Loar」という1924年もののマンドリンをヒルマンにプレゼントしている。(調べたみたところ、同種のものは現在12万ドル(=1,700万円以上)はするようである)あまりに高価すぎると最初は辞退したヒルマンだが、スティルスの熱意に押されて最終的にその楽器を受け取り、現在も愛用しているようだ。エゴが強いとよく言われるスティルスだが、少なくともヒルマンは、ミュージシャンとして友人としてスティルスのことを心底尊敬している様子が本書の文面の端々から感じられる。

短命に終わったマナサス

2度にわたって行われたマイアミでのセッションは、非常に中身の濃いものになった。そうしてレコーディングが全て終了した後、スティルスは、今回参加したメンバーを中心に新しいバンドをスタートさせたいとヒルマンに告げる。「CSNはどうするんだ?」と尋ねるヒルマンにスティルスは、ソリッドなバンドで、新しい方向に進みたいと言う。ロック/ブルースから、カントリー/ブルーグラス、アフロ/キューバ音楽までこなせるバンドがスティルスの理想だった。ブリトーズのリーダーだったヒルマンは一瞬戸惑うが、結局はほぼその場でオファーを受け入れる。ブリトーズはライブアクトとしては充実していても、ヒットとは程遠い存在だったからだ。こうして、スティーヴン・スティルスの新しいバンド「マナサス」がスタートするとともに、フライング・ブリトー・ブラザーズは消滅した。ちなみに、「マナサス」という名前は、南北戦争で最初の戦いが行われたヴァージニア州の町の名前で、南北戦争マニアのスティルスによって名付けられ、アルバムのカバー写真もその町の鉄道の駅で撮影されている。

『Stephen Stills Manassas』(1972年)(見開きジャケット表裏)マナサス駅の駅舎で撮影したもの。

1972年4月に発表された2枚組ファーストアルバム『Manassas』は高い評価を受け、ビルボード・アルバムチャートでも5位と好成績を記録した。マナサスでは、黒人のファジー・サミュエルズがベースを担当していたため、ヒルマンはベースではなく、ギターとマンドリンを担当した。その貢献は「The Wilderness」(「荒野」)と名付けられたアナログ盤B面のカントリー/ブルーグラス・サイドで顕著だが、そこでのサウンドは当時のブリトーズにスティルスがゲスト参加したという印象だ(実際、ほぼそれに近い状況だった)。それよりも、このバンドならではの力学をより感じるのは、少しラテン風味も加味しつつ、スティルスとヒルマンが繊細なメロディをハーモニーで歌う「Bound to Fall」や「It Doesn't Matter」のような曲だと思う。ちなみに「It Doesn't Matter」はスティルスとヒルマンの共作だが、後にファイアフォールがこの曲を取り上げた際には、全く異なる歌詞で歌われている(リック・ロバーツが歌詞を書き換えたと思われる)

バンドは1972年中ツアーを続け、その後セカンドアルバムのレコーディングに入る。しかし、多忙なスケジュールもあって、十分なマテリアルが揃っていなかったし、明確なコンセプトも決まっていなかったという。また、72年には、デイヴィッド・ゲッフィン率いる新興レーベル・アサイラムの発案で、オリジナルラインアップによるザ・バーズの単発リユニオンアルバムの制作も進行していた(ヒルマンは、このアルバムについて、ジーン・クラークの作品以外は輝きに欠けるものになったと書いている)。結果、マナサスのセカンドアルバム『Down The Road』の制作はダラダラと長引き、73年の春にようやく発表された時の批評は、賛否入り混じったものになったという。(ジョー・ウォルシュやボビー・ウィットロックもゲスト参加しているこのアルバムの泥くさい音は個人的には決して悪くないと思うが、心に残るアルバムかと問われれば、確かに印象が薄いのも事実だ)

左:Manasass『Down The Road』/ 右:『Byrds』(ともに1973年)

バンドはその後も断続的にツアーを続けるが、73年10月に一連のツアーをこなした後、あえなく自然消滅する。ヒルマンによると、特に揉め事やいさかいがあったわけでもなく、静かに終息したという。ただ、理由のひとつとして、CSNYの再結成を求める周りからのプレッシャーがスティルスには常にあったという。(実際、翌74年初頭にCSNYのリユニオンツアーが行なわれている)

レーベル主導で結成された、ザ・サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンド

自伝では正確な時間軸は述べられていないが、マナサスの終息と前後して、ヒルマンはアサイラムの社長デイヴィッド・ゲッフィンからある誘いを受ける。それは、ポコを辞めたリッチー・フューレイ、アサイラムから既にソロアルバム1枚を出していたシンガーソングライターのJ.D.サウザーとともに、CSNのようなスーパーグループを作らないかというものだった。当初さほど乗り気でもなかったヒルマンだが、マナサスからアル・パーキンス(g. steel)とポール・ハリス(key)の2人を誘い、ドラムスにバーズ時代から付き合いがあり、デレク&ザ・ドミノスを終えてセッション活動に戻っていたジム・ゴードンを誘ったことで、バンドとして一体感が出てきたという。

『The Souther-Hillman-Furay Band』(1974年)(見開きジャケット表裏)

こうしてデビューアルバム『The Souther-Hillman-Furay Band』が1974年に発表され、最高位11位とまずまずの成績を収める。3人の優れたシンガーソングライターを半ば無理矢理くっつけたこのバンドには、確かにCSNのような3人でしかなし得ない化学反応のようなものこそないが、3人が持ち寄った曲はどれも秀逸で、かつバンドとしてのグルーヴも感じられる。サウンド的には、同じ年に出たイーグルスの『On The Border』あたりに通じる感触だ。ヒルマン作の3曲に関して言えば、バーズやFBB時代のような「カントリーロック」から進化し、サザンロック的なダイナミズムも感じられる。

バンドはアルバムをサポートする全米ツアーに出る。しかし、間もなくある問題が浮上する。ジム・ゴードンが突如として暴力的になり、殴り合いになるような事件が度々起こったのだ。ついに、ある時点でリッチーがジムを解雇する。後(1983年)に自分の母親を刺殺し、その後今年3月に亡くなるまで一生を刑務所で過ごすことになったジム・ゴードンの精神異常が既に進行していたのだった。ゴードンに代わって、J.D.が推薦するロン・グリネル(後にフールズゴールドに参加)をドラムスに迎えてセカンドアルバムの制作に取り掛かったSHFバンドだったが、ヒルマンいわく、ゴードンがいた時のようなグルーヴを生み出すことはできなかったという。結果、2作目『Trouble in Paradise』(1975年、プロデュースは名匠トム・ダウド)は輝きに欠ける作品になったとヒルマンは言う。アサイラムはアルバムをサポートするツアーも用意せず、結局、最後のセッションの後、彼らが再び集まることはなかった。そんな形で、サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドもマナサス同様、自然消滅してしまう。元々ビジネス主導で作られたこのバンドに対して、3人ともあまり強い思い入れを持てなかったようだ。ただし、お互いの友人関係は今も続いているという。

The Souther-Hillman-Furay Band『Trouble in Paradise』(1975年)

アサイラムからのソロ2作

J.D.サウザー、クリス・ヒルマン、リッチー・フューレイとアサイラムとの契約は元々バンド単位ではなく、それぞれ個人との契約だったという。そのためSHFバンド解散後は、それぞれがアサイラムからソロアルバムを発表するというのが自然な流れだったようだ。当初ヒルマンは、ボブ・ディランやジョニー・キャッシュを出掛けたナッシュビル拠点の著名プロデューサーにプロデュースを依頼する。しかし、このプロデューサーはろくにコミュニケーションを取らず、偉そうな態度で接するばかりだったという。(ヒルマンはこのプロデューサーの名前を明らかにしていないが、ディランの『Highway 61 Revisited』や『Blonde on Blonde』などを手掛けたボブ・ジョンストンと思われる)すっかり閉口してしまったヒルマンがスティーヴン・スティルスに相談すると、スティルスは「そんな奴はクビにして(マナサスのエンジニアを務めた)ロンとハワードのアルバート兄弟に頼めばいい」と言ったという。

左:『Slippin' Away』(1976年)/ 右:『Clear Sailin'』(1977年)

結果、出来上がったアルバム『Slippin' Away』(1976年)は、ハーブ・ペダースン、バーニー・レドン、リック・ロバーツ、アル・パーキンス、ジム・ゴードン、ティモシー・シュミットといった旧友たちに加えて、スティーヴ・クロッパーとドナルド・ダック・ダンの参加も得て、クリスとしても納得の仕上がりになったようだ。実際、このアルバムは、彼の全ソロアルバムの中でも個人的にはベストと思える仕上がりだ。「アコースティックで、メロディアスで、適度に泥くさく、かつ乾いた風のようなハーモニーが美しいロック」というのが「ウェストコーストロック」の典型だとすると、このアルバムはまさに典型的な「ウェストコーストロック」だと言える。

このソロアルバムのプロモーションツアーのため、クリスはバンドメンバーを集める。最初に声を掛けたのはブリトーズ時代の同僚、リック・ロバーツ、そして、ジョック・バートリー(g)とジョジョガンにいたマーク・アンデス(b)。しかし彼らは、ほどなくして自分たちのグループとしてやっていくことを選択し、これにクリスのバーズ時代からの同僚、マイケル・クラークが加わる。クリスがデモ録音のプロデュースも行ったというこのバンドは、その後間もなくファイアフォールとしてデビューすることになる。

ファイアフォールが独立したため、ヒルマンは新たにバンドメンバーを集めてツアーを敢行、その後、セカンドアルバムの録音に取り掛かる。この新しいバンドには、この頃解散したロギンズ&メッシーナ・バンドにいたメリル・ブリガンテ(dr)、ラリー・シムズ(b)、アル・ガース(sax, fiddle)らも含まれていた。しかし、ファーストアルバムとは別のプロデューサー(= ファイアフォールの最初の2枚のプロデュースも担当したジム・メイソン)を付けたセカンドアルバム『Clear Sailin'』(1977年)は、ヒルマンいわく曲が弱く、2枚目のジンクスに陥ってしまったという。(確かにファーストアルバムのアコースティックなタッチとは異なるが、個人的には決して悪いアルバムではないと思う。参加メンバーからして、またアルバムのタイトルやジャケットも、ロギンズ&メッシーナの『Full Sail』を思い起こさせる仕上がりになっている)

バーズのオリジナルメンバー3人が再集結

アルバム『Clear Sailin'』発表後、ヒルマンは当時住んでいたコロラド州ボールダーから再び南カリフォルニアに引っ越し、暫くの間、音楽活動から距離を置いていた(自伝では特に語られていないが、アサイラムとのソロ契約はアルバム2枚で終了したのだろう)。一方、その頃、バーズ時代の同僚、ロジャー・マッギンは新たにキャピトルレコードとの契約話を進めていた。キャピトルは、もしマッギンがジーン・クラーク、クリス・ヒルマンと再び組むなら、もっと金を積むというオファーをしてきたという。当初、興味を示さなかったヒルマンだが、キャピトルが提示してきた条件がかなり良かったようで、結局はアルバム3枚を制作するというこのオファーを受け入れ、バーズのオリジナルメンバーの5分の3が再集結した「マッギン・クラーク&ヒルマン」が誕生する。

『McGuinn, Clark & Hillman』(1979年)

ヒルマンの提言で、マナサスのファーストやヒルマンのファーストソロのプロデュースを担当したロン&ハワード・アルバートにプロデュースを任せ、彼らの本拠地マイアミのクライテリアスタジオで録音されたアルバム『McGuinn, Clark & Hillman』(1979年発表)は、ヒルマンとしても納得のいく作品となり、この中からマッギン作の「Don't You Write Her Off」がトップ20に入るヒットを記録した。(ただし、ウィキペディアによるとこのアルバムの評価は必ずしも芳しいものではなかったようだ。実際、内容は平均点レベルで、3人の元バーズによるシナジー効果のようなものはあまり感じられない上、当時のディスコブームの余波を感じさせるアレンジが若干気になる曲もある)

久しぶりに商業的成功を体験したヒルマンたちだったが、その好調は長くは続かなかった。アルバム発表後のツアーあたりから、ジーン・クラークが一時絶っていたドラッグとアルコールに再び溺れるようになり、結果的にクラークは途中で離脱。マッギンとヒルマンは、キャピトルとの契約を果たすため、80年に2枚のアルバムを発表するが、その2枚はかなりお粗末な出来だった。最後には、ニューヨークでのライブのバックステージで、ヒルマンが横暴な振る舞いをしたキャピトルの担当者を殴る事件にまで発展。キャピトルから契約を解除されることになってしまう。その後、マッギンは「もうお前とは仕事をしたくない」とヒルマンに告げたという。

余談だが、マッギン・クラーク&ヒルマンのバックバンドでリードギターとバックヴォーカルを担当したジョン・サンバターロ(当時クライテリアスタジオのセッションマンだった)は、その後、リック・ロバーツやラリー・バーネットが抜けた後の末期ファイアフォールに参加している。


次回につづく

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