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追悼 デイヴィッド・クロスビー─『Remember My Name』

去る1月18日、デイヴィッド・クロスビーが亡くなった。81歳だった。ここ数年極めて精力的な音楽活動をしていたのでショックだったが、考えてみれば、この年齢までよく頑張ったと言うべきだろう。なにしろヘロインやコケイン中毒、肝移植手術(1994年)を経た上、糖尿病も患い、身体には8本ものステントが入っていたというのだから。

2019年にキャメロン・クロウがクロスビーに密着取材して制作したドキュメンタリー映画『David Crosby: Remember My Name』をこの機に観たが、非常によくできた作品だった。今回はその映画の内容、そしてクロスビーの死から2週間を経た2月3日に行われたグレアム・ナッシュのインタビューの内容を紹介したい。


CSNに独特の緊張感をもたらした、クロスビーの音楽性

デイヴィッド・クロスビーのことを新聞の訃報欄的に紹介すると「バーズやクロスビー・スティルス&ナッシュ(CSN)、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSNY)で活躍したウェストコーストロックのレジェンド」といったところだが、クロスビー自身の音楽性は一般的に想起される「ウェストコーストロック」のイメージ(=メロディアスで心地の良いロック)とは単純には結び付かない。

「ウェストコーストロック」のもうひとつの特徴といえるハーモニーという点では、確かにそのひとつの典型を作ったと言える。CSNの活動以外でも、グレアム・ナッシュとともにまざまな同時代のシンガーたちに駆り出され(あるいは進んで参加して)、類稀なヴォーカルハーモニーを聞かせていた。しかし、クロスビー自身が作るメロディは、60年代のバーズの時代から、ヒット性とはほど遠い、ある種風変わりなものだった。

同じバーズのメンバーでも、例えば、ロジャー・マッギンならディランやピート・シーガーなどの初期フォークの影響、ジーン・クラークはフォークとビートルズ、クリス・ヒルマンはブルーグラスやバック・オウェンズなどの西海岸カントリーといったように、ルーツがわかりやすいゆえ、作品にも親しみが持ちやすかった(この点、ブルースやフォーク、ラテンが根底にあるスティーヴン・スティルスも同様)。それらに対して、クロスビーの音楽性はわかりにくかった。実際は、幼い頃からジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスなどのジャズに親しみ、その影響が大きかったのだが、それは一般のロックファンにとって必ずしもわかりすいものではなかった。しかし、例えば、サイケデリックロックを象徴する1曲と言われるバーズのヒット曲「Eight Miles High」(「霧の8マイル」)(クラーク、マッギン、クロスビーの共作)の浮遊感のあるサウンドも、意識して聞いてみれば、そこにはモーダルジャズの影響が窺い知れる。

変則チューニングを多用したギターもクロスビーの特徴だった。だが、彼のそれは、ブルースが基本にあるスティーヴン・スティルスのオープンチューニングほどわかりやすいものではなく、聞き手を落ち着かない気分にさせるようなものだった。これら全ての点において、デイヴィッド・クロスビーの音楽性はかなり特異で、他に類を見ないものだった。強いて最も近いものを挙げるとすれば、クロスビー自身が見出してデビューさせ、一時は恋人でもあった、ジョニ・ミッチェルかもしれない。単純に「ウェストコーストサウンド」とは言い切れない、全盛期のCSN(CSNY)独特の緊張感のあるサウンド(「Déjà Vu」や「Wooden Ships」「Guinnevere」といった曲に代表される個性)は、クロスビーの存在なしにはあり得ないものだった。

2度と実現しない奇跡のハーモニー

ご存じの方も多いかと思うが、デイヴィッド・クロスビーとCSNYの他のメンバーとは、2015年末以降絶縁状態が続いていた。きっかけは2014年、クロスビーが当時ニール・ヤングと付き合っていた女優ダリル・ハンナ(80年代にはジャクソン・ブラウンとも付き合っていた、2018年にニールと結婚)のことを「実に不快極まる性悪女」(a purely poisonous predator)と罵ったことに始まるようだ。元来歯に衣着せぬ性格のクロスビーだから、そういう類のことは以前からもよくあったはずだが、今回決定的だったのは、今までクロスビーの一番の理解者だったグレアム・ナッシュの堪忍袋の緒が切れたことだった。2016年のインタビューでナッシュは、クロスビーは「いい人間とは言えない」とした上で、「複雑すぎてそれ以上言えないが、もう終わったということだ」とかなり憤慨した様子で語っている。

CSNは2015年3月に来日していて、私もその時の大阪公演を見たが、あの絶妙のハーモニーは健在で実に素晴らしいコンサートだった。しかし、今となってみれば、その頃すでにデイヴィッドと他の2人との軋轢はかなり進行していたのかもしれない。

崇高な輝きのある近年の作品群

このようなCSNとの亀裂については、私も最近まできちんと認識していなかったのだが、そんなことがあったせいかどうか、ここ数年のデイヴィッド・クロスビーの創作意欲は目に見張るものがあった。2014年の20年振りのソロスタジオ作『Croz』から、2021年の『For Free』まで5枚の新作アルバムを出し、それらのいずれもがクロスビー独特の音楽性を凝縮して蒸留したような質の高い作品だった。(クロスビーはドラッグ中毒や服役を乗り越えた80年代末〜90年代初めに2枚のソロ作を出しているが、それらの作品は周りに担がれたような印象があり、彼自身の個性が十分に発揮されたものとは言い難い)

とりわけ2016年のアルバム『Lighthouse』では、40歳以上も歳の離れたマイケル・リーグらの若手と組み、彼らに触発される部分も多きかったようだ。その後、2018の『Here If You Listen』では、再びリーグら「ザ・ライトハウス・バンド」を迎え、スタジオで一気に作品を完成させている。(スタジオ入りした際に持ち寄った曲は2曲だけだったと、アルバムのスリーブに記されている)

自らの死を見据えた、懺悔のドキュメンタリー

さて、冒頭に述べたドキュメンタリー映画『David Crosby: Remember My Name』。映画の撮影時点で76歳だったクロスビー──この時点で「共に音楽を作った仲間とは絶縁状態だ」と語っている(前述の通りCSN&Yの他のメンバーたちとの絶縁状態が続いていた)。映画のタイトルは彼の最初のソロ作『If I Could Only Remember My Name』(1971年)から採ったものだが、このタイトル自体なかなか言い得ている。かつての仲間やファンから取り残されようとしている孤独とある種の開き直り、そして、病気の総合商社状態になっている自らの死を意識して「俺のことを憶えておいてくれ」という気持ち、この両方を表現しているのが、タイトルの「Remember My Name」だろう。

この映画はある種クロスビーの懺悔のメッセージであり、実際にデイヴィッドがそう望んでいたかどうかはわからないが、「俺のことをわかってくれ」という彼の心情が伝わってくるようだった。本映画の後に制作した、スタジオ作としては遺作となったアルバム『For Free』(2021年)の最後を締めくくる曲は、「I Won't Stay For Long」(「もうそんなに長くはない」の意)という曲だった。曲自体はデイヴィッドの息子であるジェイムズ・レイモンドが書いたものだが、まさに日々そんな心境で過ごしていたのだろう。

映画は、インタビューを通して彼の人生を時系列に映し出していく流れになっている。したがって、デイヴィッド・クロスビーのことを知らない人にも、壮絶な人生を送ってきた一人のミュージシャンの記録として楽しむことができるし、彼の音楽に親しんできた私のようなファンにも、新しい発見や驚き、共感を感じられる内容になっている。

彼の音楽に親しんできた者として興味深かったシーンを2〜3挙げると... まずは彼がまだ10代の頃に見たジョン・コルトレーンの衝撃。バックステージで見たコルトレーンの演奏の衝撃をまるで昨日のことのように語っていた。バーズをクビになった際のエピソードも面白かった。身勝手な言動を繰り返すクロスビーに、ロジャー・マッギンとクリス・ヒルマンがクビを宣告するシーンがアニメ調で再現されていた。そして、クビになったクロスビーがまずとった行動が、帆船を安く買って太平洋やカリブ海を航海すること。「Wooden Ships」や「The Lee Shore」「Page 43」といった名曲は、マヤン号というその帆船(CSNのアルバム『CSN』のカバーに映っているのがその船だろう)の上で書かれたものだそうだ。

衰える身体を押してコンサートツアーに出る最近の姿も象徴的だ。ツアーに出る理由のひとつには音楽こそ生きがいというミュージシャンとしての性があるが、もうひとつはストリーミングの時代になってわずかな著作料しか入ってこないという現実。バケーションにいく余裕もなくなって帆船は既に売却し、自宅だけは売らずに済むよう、コンサートをするしかないのだという。

グレアム・ナッシュのインタビュー

クロスビーの死に際してはさまざまなミュージシャンが哀悼のメッセージを発信しており、彼がロック界に与えた影響の大きさが窺い知れた。そんな中で気になったのは、彼がグレアム・ナッシュらと最後まで絶縁状態だったのかだが、その点に関して、ナッシュ自身のインタビューがAARP(中高齢者を会員とするアメリカのロビー団体)のニュースサイトに掲載されていた(2月8日)。そこでナッシュは、デイヴィッドが亡くなる10日ほど前の話だとして次のように語っている。

実は、最後の方は少し距離が縮まっていたんだ。彼がボイスメールで「謝りたいから、話す時間を決めてくれないか」と言ってきたから、「わかった、君の時間で明日の11時(東海岸では2時)に電話してくれ」って言ったんだ。結局、電話はなく、彼はそのまま逝ってしまった。

AARP (2023年2月8日) "Graham Nash Remembers David Crosby: ‘He Was Remarkably Unique’"

「自分が死ぬとわかっていたんですかね?」というインタビュアーの質問にナッシュは、次のように答えている。

実は僕もそう思っていたんだ。彼はとても賢い男だからね。本当に最期だと知っていたのかもしれない。でも、実際、僕たちはもう20年も彼がいつ死んでもおかしくないと思っていたんだ。<中略> 本当のところいつ何が原因で亡くなったのかは誰もよくわかっていないんだ。ただ、リハーサルに入った直後に2回目のコロナにかかったみたいだ。

ナッシュによると、クロスビーはサンタバーバラにある劇場の150周年記念のコンサートを控えていて、そのためのリハーサルをしていたという。今回の彼のバンドにはスティーヴン・スティルスの息子、クリス・スティルスも参加していたという。そのリハーサルの後にクリスから聞いた話について、ナッシュはこう語っている。

デイヴィッドは、僕たちが連絡を取り合ったことをとても喜んでいて、終始ご機嫌だったそうだ。その後、デイヴィッドの息子のジェイムズ(レイモンド)からも同じようなメッセージをもらったよ。僕らが再び連絡を取り合ったことをとても喜んでいたって。

クロスビーがそう最期に思っていたことを知って、彼の死を少しは受け入れやすくなったとナッシュは語っている。

ちょうどクロスビーと僕がやったBBCの番組を見ていたんだ。多分71年だと思うけど。本当に素晴らしかったよ。「Guinnevere」だ。僕とデイヴィッドだけで歌ってる。そういうのだけを考えるようにしているんだ。いい思い出だけをね。

グレアム・ナッシュは、『Now』と名付けられた新しいアルバムを5月に発表する。

クロスビーを的確に表現した、ケニー・ロギンズの言葉

前述のようにデイヴィッド・クロスビーの死に際してはさまざまなミュージシャンが哀悼のメッセージをSNSで発信していたが、その中でクロスビーのことをとても言い当てた表現をしていたのがケニー・ロギンズだった。最後にその一部を紹介したい。ともに60年代から音楽活動をしていた二人だが、ロギンズとクロスビーとは、さほど親密な関係だったわけではない。ケニー・ロギンズが最初にクロスビーに会ったのは、彼が子供向けの曲を集めたアルバム『Return to Pooh Corner』(1994年)のハーモニーヴォーカルにクロスビーとナッシュを招いた時だったという。

デヴィッド・クロスビーの死は、ひとつの時代の終わりを意味する。彼は文字通り、60年代というパラドックスを体現していた。時に優しく、時に激しく、でも決して「適切」とはいえない──そんな彼のすべてがあの反抗的な時代を体現していた。
<中略>
彼の音楽が美しく、安らかなものだったのと同様、僕が思い起こすのは、反抗的な態度でハーレーにまたがり、偏見や不公平に食って掛かる『イージーライダー』のビリーの元となった彼の姿だ。妥協を許さない、最も正直なデイヴィッド・クロスビーであること。そして、他の人にも同じものも求める。そんな彼と付き合うのが難しいのも無理はない。悲しいけれど、彼が亡くなったことで、60年代が正式に終わったのだと思う。

Kenny Loggins website (1/21/2023)より

映画『Remember My Name』でも語られていたが、60年代の終わりを象徴する映画『イージーライダー』でデニス・ホッパーが演じたビリーのモデルはデイヴィッド・クロスビーだったという。実際、クロスビーはホッパーやピーター・フォンダと親交があり、あの映画はそのつながりからできたようだ。(映画にはロジャー・マッギンやバーズの曲も印象的に使われていた)。素晴らしい才能で自由と理想を語るが、皮肉屋であるため、発する言葉が時に人の心を逆撫でし、実際の社会にうまく適合できない──あまり友達にはしたくないが、とても魅力的な人物。そう考えると、その存在はジョン・レノンに通じるものもあるのかもしれない。

そんなクロスビーを最も象徴する曲が、CSNのファーストアルバムに収められていた「Wooden Ships」(「木の舟」)だろう。クロスビーとスティルス、それにジェファソン・エアプレインのポール・カントナーの共作であるこの曲では、核戦争と思われる終末の世界の中、木の船に乗って自由で穏やかな理想の世界へ漕ぎ出すという、ノアの方舟のような情景が描かれていた。(選ばれた一部の人しか救われないこのストーリーに違和感を感じたジャクソン・ブラウンは、後にこの曲へのアンサーソングとして、全ての普通の人々が最終的に救われるべきと歌う「For Everyman」を作っている(その曲にはクロスビーがハーモニーを付けている))

「Wooden Ships」の歌詞は主にスティルスとカントナーによるものだそうだが、クロスビー自身のこのような価値観が、晩年ナッシュたちとの間に禍根を生む結果となってしまったのかもしれない。


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