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デニー・レインの訃報に想うこと

今週初め(12月5日)、ウィングスの元メンバーでムーディーブルースの創設者のひとりでもあったデニー・レインが亡くなった。死因は間質性肺疾患、79歳だった。かつての仲間、ポール・マッカートニーも早々にSNSに追悼のメッセージを載せていた。

I am very saddened to hear that my ex-bandmate, Denny Laine, has died. I have many fond memories of my time with...

Posted by Paul McCartney on Tuesday, December 5, 2023

デニー・レイン個人の音楽については、私自身さほど入れ込んでいたわけではないし、ウィングス以降の彼の活動についても詳しくは知らない。ただ、ウィングスを多少なりともリアルタイムで体験した者として、彼の死はやはりショックだった。何しろ、ウィングスの結成から解散まで唯一ポール&リンダ・マッカートニー夫妻と活動を続けたメンバーであり、デニー・レインがいたからこそ「ウィングス」を名乗る意味があったとさえ言える。ウィングスのカラーとしてはリンダのバックヴォーカルも欠かせないものではあったが、それはウィングス結成以前のアルバム『Ram』(1971年)でもある程度見られていたものであり、それと比べると全盛期のウィングスのサウンドははるかに成熟したものだった。

ポール・マッカートニーという絶対的存在がいる中、デニーが前面に出ることはあまりなかったが、それでもポールの右腕としての彼の存在は欠かせなかった。私自身がウィングスを聞いたのは77年に北米を除いて世界的ヒットとなった「Mull of Kintyre」(「夢の旅人」)が初めてだったが、この曲もポールとデニーの共作だった。

当時私は小学校高学年でAMラジオで洋楽を聞き始めた頃だったが、この曲の4分の3拍子のアコースティックな響きに泣きたくなるような郷愁を憶えた。自分の中で同じ頃の記憶として残っているロッド・スチュワートの「Sailing」を聞いたときと同じような感覚だ。今にして思えば、両方とも非常にスコットランド色の強い曲調なのだが、その後しばらくして好きになるカントリーやブルーグラスも含め、いまだにこの種のアイリッシュ〜スコティッシュに源流かある牧歌的なアコースティック曲が好きなのは、やはり先天的に備わった感覚なのかなと思う。

話を元に戻そう。私がウィングスを好きな理由のひとつ。それは多分、彼らがとても70年代的なバンドだったからだと思う。70年代という時代は「ロックバンド」と呼べるようなフォーマットが最も隆盛を極めた時代だった気がする。レコーディングにせよ、ツアーにせよ、この前後の時代とは違っていた。60年代末頃まではアメリカではレッキングクルーを代表とするスタジオマンやサイドマンがスターを支える構図がある程度主流だったし、80年代になると、テクノロジーの進歩やロックの巨大ビジネス化によってバンドメンバーだけで演奏するようなスタイルが減っていった。それに比べて70年代は、基本的にバンドのメンバーだけでやりくりする傾向が強かったように思う。ウィングスの場合も、たとえば、ポールがステージでギターやピアノを弾く時は本来ギタリストであるデニー・レインがベースを弾くといった「やりくり」があり、そういったことがバンドとしてのある種の一体感やケミストリーを生んでいたように思う。70年代の中頃、一定以上の成功を収めたロックバンドでは、メンバーたちがハチャメチャに騒ぎながら自家用ジェットでツアーを続けるといった光景がよく見られた。バンドの一行が派手なツアーバスで街にやってくる様子は、さながらサーカス一座がやってきたようなワクワク感があっただろうし、実際、75〜6年頃のウィングスのツアードキュメンタリー映像を見ても、まさにそんな感じだった。

そんなロックバンドとしてのダイナミズムを音源としてパッケージしたのが、先日、ginger.tokyoさんも取り上げていらしたライブアルバム『Wings over America』(1976年)、そして、後にそれを映像化する形で公開された映画『Rock Show』(1980年)だ。そこで聞ける音は後年のポールのソロライブとは一味違う。ポール自身が年齢的に(30代半ば)脂が乗り切っていたこともあるだろうが、それだけではないロックバンド感がみなぎっていたように思う。

さて、今回の記事の表題だが、私が何を想うかと言うと、それは、自分が中学2年から3年にかけての1980年のことだ。デニー・レインの熱心なファンの方には恐縮だが、私にとってはデニー・レイン・ニアリーイコール・ウィングスなので、話はどうしてもウィングス絡みになる。1980年1月16日、ウィングスが来日した。小学生のときに「夢の旅人」でウィングスを好きになった私は、中学に入るとビートルズもだいぶ追いかけて聞いていた。まだウィングスのアルバムを購入するような段階ではなかったが、79年にヒットした「Goodnight Tonight」も好きだった(今聞くと時代のせいでディスコへの擦り寄りも感じられるが、ベースラインも面白いし、当時としてはまだ珍しかったプロモビデオも秀逸だ)。

しかし、その当時はまだ自分でロックコンサートに行こうとは思わなかったはずであり、どういう気持ちでその日を迎えたかは憶えていない。ただ、その日の夕方のニュースでポール・マッカートニーが大麻不法所持の疑いで逮捕されてしまったことを知ったときには仰天した。その日以降、テレビでは連日この話題を取り上げていた。ポールが留置所で囚人たちを前に「イエスタディ」を歌ったということも随分と話題になったが、当然ながらウィングスのコンサートは中止になった。

今回のデニー・レインの訃報に触れて私が思いを馳せたのは、この逮捕劇だ。なぜ当局はこの時、ポールを逮捕したのか。私より上の世代にとっては、この時の来日公演は本当に待望のものだったはずだ。66年のビートルズ武道館公演以来初めての訪日だった。後で知ったことだが、ウィングスは75年にも来日公演が予定されていたが、その時はポールの麻薬不法所持の前科で法務当局から来日許可が降りず、事前にキャンセルになっている。80年の来日ではプロモーターも万難を排して公演を準備したはずだ。コンサートのチケットだけでなく、警備やらメディア対応やら、ものすごい労力とお金が掛かっていたはずだ。しかも、ポールが所持していたのは大麻である。大麻を軽視するわけではないが、今にして思えば、当時の欧米のロックミュージシャンにとっては、もっとハードなドラッグも当たり前、大麻などは煙草くらいの感覚だっただろう。昨今のアメリカでは合法化されている州もあるくらいだし、何しろポールがその大麻を日本で売り捌いたりするわけでもないだろう。なぜ当局はもう少し「大人の対応」ができなかったのか。先日のジョン・レノンの命日にNHKの「アナザーストーリー」という番組で「Imagine」のことを取り上げていたが、このポールの逮捕劇の裏にどんなストーリーがあったのか、ぜひジャーナリストに取材してもらいたい。

この逮捕劇が引き金となり、ウィングスは活動を停止。ポールは同じ年の5月に自宅でひとりで録音したアルバム『McCartney II』を発表する。これが私が初めてアルバム単位で聞いたマッカートニー関連の作品だった。アルバムからはリードシングルの「Coming Up」がヒットしたが、「Frozen Jap」という曲が収められていたことも話題となった。曲は当時流行のテクノポップ風のつまらないインストゥルメンタルなので真意のほどはわからないが、当時ポールは「日本の美しい雪景色をイメージした」などと誤魔化していたように記憶している。ポールなりの皮肉だったのだろう。

ウィングスの活動からあぶれてしまう形になったデニー・レインは、同じ年、自身のソロアルバムを発表。そのタイトルは『Japanese Tears』。当時デニーがこのタイトルのアルバムを出したことは知っていたが、おそらくその時には国内盤も発売されず、耳にする機会もなかった。今回、YouTubeで探してみたところ、そのタイトル曲の内容は、楽しみにしていた公演が中止になって泣いている日本の女の子を歌ったものだった。ただ、西洋人にありがちだが、日本も中国も一緒くたのような音が使われていて、これは国内発売しなくて正解だったという印象だ。

こんなふうにウィングスは空中分解してしまったわけだが、私が想いを馳せるのは、もし1980年のポール逮捕劇がなかったらどうなっていただろう?ということ。まず、デニー・レイン。当時の彼がどの程度ウィングスの活動に満足していたかはわからないが、あの逮捕劇がなければ、少なくともあと数年はウィングスのメンバーとして活動しただろう。であれば、その後の彼のキャリアも、良いか悪いかは別にして、もう少し別なものになっていたはずだ。そして、もうひとつ想像してしまうのは、ジョン・レノンのこと。75年以降主夫業に専念していたジョンがまた音楽を作ろうと思ったきっかけのひとつは、ポールの「Coming Up」を聞いて「なかなかいい作品」と思ったことだという。もしあの逮捕劇がなければ、宅録作品「Coming Up」は少なくともあの時期に世には出ていなかっただろうし、そうなれば、ジョンの『Double Fantasy』は生まれなかったか、生まれていたとしてもその内容やタイミングは違うものになっていたかもしれない。そうなれば、もしかしたら、同じ年の12月8日の事件は起こらなかった可能性もある。そして、ジョンが40歳という若さで悲劇的な死を迎えなければ、80年以降の音楽界の景色がもう少し違うものになっていたであろうことはもちろん、ジョンの「Imagine」もここまで影響力のある曲にはならなかったかもしれない。戦争や社会に理不尽なことがあるたびに歌い継がれる「Imagine」だが、もしこの曲が今ほどの存在感を持たされなかったとしたら、世界の人々の価値観も少し違っていたかもしれない。

もし1980年の1月16日に日本の法務当局の責任者がポールの逮捕に踏み切らなかったとしたら…… そんなことを考えてしまうデニー・レインの訃報だった。

デニーの冥福を祈りたい。


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