L.ヘルム/J.キャッシュ/E.ハリス/C.ダニエルズらによる出色のコンセプトアルバム『The Legend Of Jesse James』
前回の記事でエミルー・ハリスの2番目の夫ブライアン・アハーンについて、彼が関わった70年代の作品を軸に取り上げた。一方で、エミルーの80年代を語るとき無視できないのが、3番目の夫ポール・ケナリーの存在だ。今回は、このポール・ケナリーについて、彼を語る上で鍵となるアルバム『The Legend Of Jesse James』を軸に掘り下げたい。
アルバム『The Legend Of Jesse James』(邦題『ジェシー・ジェイムスの伝説』)は、1980年にA&Mレコードから発表された作品。タイトル通り、19世紀後半のアメリカの無法者ジェシー・ジェイムスをテーマにしたコンセプトアルバムだ。誰のアルバムか一言で言うのは難しいのだが、ジャケットには副題扱いで次のように記されている。
つまり、リヴォン・ヘルム、ジョニー・キャッシュ、エミルー・ハリス、チャーリー・ダニエルズ、そしてアルバート・リーをフィーチャーした作品というわけだ。アルバムのプロデューサーは、グリン・ジョンズ。ご存じのようにイーグルスのファースト、そしてセカンド『Desperado』(『ならず者』)をプロデュースした人物だ。イーグルスの『ならず者』も実在のアウトロー、ダルトン兄弟一味(ドゥーリン=ダルトン・ギャング)をテーマにした素晴らしいコンセプトアルバムだったが、アルバムを聞くだけでドゥーリン=ダルトン・ギャングのストーリーが理解できるというわけではなかった。それに対してこの『ジェシー・ジェイムスの伝説』は、歌詞を通してジェシー・ジェイムス強盗団(ジェイムス・ギャング)のストーリーが理解できる内容になっている。参加している全てのシンガーたちに「配役」が与えられ、何れの曲も登場人物たちの台詞の形で歌われる。いわば耳だけで楽しむミュージカルだ。
主な配役は、次の通り。
ジェシー・ジェイムス(南北戦争期の中西部で強盗を繰り返したギャング団のボス)
リヴォン・ヘルムフランク・ジェイムス(ジェシーの兄でギャング団の一味):
ジョニー・キャッシュゼレルダ・ジェイムス(ジェシーの従妹で、彼の妻になる優しい女性)
エミルー・ハリスコール・ヤンガー(ジェイムス・ギャング一味であるヤンガー兄弟の兄)
チャーリー・ダニエルズジム・ヤンガー(ジェイムス・ギャング一味であるヤンガー兄弟の弟)
アルバート・リー
見開きジャケットの内側には、全曲の歌詞に加え、場面説明がナレーションのような形で付けられており、当時の時代背景などの全体説明も掲載されている。これら全ての曲の作詞作曲とアルバムのコンセプトづくりを行ったのが、ポール・ケナリーだった。
ポール・ケナリーは、1948年、イギリス・リヴァプール近郊の生まれ。70年代初め頃にはロックバンドをやっていたらしいが、ロンドンで広告の仕事をしていた76年にウェイロン・ジェニングスを聞いてロックオリエンテッドなカントリーミュージックの魅力に目覚めたという。英国人である自分がアメリカ人のようなカントリーミュージックの歌詞を書くのは難しいと考えた彼は、アメリカ南部に根ざした物語を題材にすることを思い付く。そうして、南北戦争時代の南軍の人々をテーマとした一連の楽曲を作り上げ、そのデモテープを何の面識もなかったグリン・ジョンズに送った。ジョンズを選んだのは、彼の名前が自分の好きなレコードの多くにクレジットされていたからだという。カントリー好きの英国人プロデューサーでアメリカの「カントリーロック」の隆盛に貢献したジョンズは、確かに最適な選択だったかもしれない。果たして数週間後、デモを聞いて感銘を受けたジョンズからケナリーに連絡が入る。こうして1978年にA&Mから発表されたのが、『White Mansions: A Tale of the Civil War 1861-1865』というアルバムだった。
私は今までこのアルバムの実物を見たことがなく未聴だったが、今回これを機に通販で入手した。このアルバムも複数のシンガーたちがそれぞれ登場人物を演じる構成になっている。主人公格を演じた(歌った)のはウェイロン・ジェニングス。ケナリーにとっては夢のようなキャスティングだったはずだが、ウェイロン自身、ケナリーが作ったストーリーに感銘を受けて参加を快諾したという。他には、ウェイロンの妻ジェシ・コルター、そして、オザーク・マウンテン・デアデヴィルズのジョン・ディロンとスティーヴ・キャッシュ。オザーク・マウンテンは、グリン・ジョンズがA&Mからのデビュー時に共同プロデュースを担当したイーグルス・フォロワー的なミズーリ出身のカントリーロックバンドだ。アルバムには、他にもグリン・ジョンズ繋がりのミュージシャンたちが参加している。ギター、バンジョー、マンドリン、ドブロ、ペダルスティールに、1曲の共作と大活躍なのがバーニー・レドン。そして、この頃ジョンズのプロデュースで『Backless』を録音していたエリック・クラプトンも、エレクトリック・スライドとドブロで参加している。
ウィキペディアによると、アルバムは、ビルボード・カントリーチャートで38位、ポップチャートで181位だったというから、商業的に成功したとは言えない。しかし、批評家からの評判は良かったようで、A&Mとポール・ケナリーは同傾向の作品をもうひとつ制作することになる。それが『ジェシー・ジェイムスの伝説』だ。
このアルバムについて紹介する前に、当時(70年代末〜80年頃)の米音楽界を振り返ってみよう。ちょうど私がいろいろな洋楽を聞き漁り始めていた中学生の頃だった。ディスコミュージックはまだ巷に溢れていたが、ピークは過ぎていた。一方で、ディスコの反動からか、カントリー的なサウンドがポップスの世界にかなり入り込んできていた。ウェストコースト産の「カントリーロック」は既に「AOR」に取って代わられていたし、LAでもニューウェイブが脚光を浴びていた。一方で、ケニー・ロジャースが相次いでヒットを放ったり、ウィリー・ネルソンのアルバムがポップチャートの上位に食い込んだりしていて、日本でも比較的容易に彼らの楽曲を聞くことができた。当時の音楽誌では、「アメリカでは今カントリーの波が来ている」といった評論家の言葉が散見され、私はそれを見つけては「しめしめ」と思っていたものだ。以前のコラムでも触れたことがある『週刊プレイボーイ』誌に掲載されていたアーヴィン・エイゾフの78〜9年頃のインタビューでは、イーグルスやスティーリーダンらのマネジャーだったエイゾフが次のように語っていた。
エイゾフがこの時語っていた映画は、80年に『アーバン・カウボーイ』としてお目見えする。『ならず者』とはかけ離れたストーリーだったが、イーグルスや、リンダ・ロンシュタット&J.D.サウザー、ボズ・スキャッグスといった西海岸ロック系アーティストのほかに、ミッキー・ギリーやジョニー・リー、ケニー・ロジャース、アン・マレーなどのカントリー系アーティストをもフィーチャーしたサントラ盤は、全米No.1のヒットを記録する。エイゾフが『FM』(1978年)である種の先鞭を付けた映画とポピュラー音楽とのカップリングは、80年頃に一気に花開いた感があったが、その中には『アーバン・カウボーイ』以外にもカントリー&ウェスタン的な主題を扱った作品がいくつかあった。クリント・イーストウッド監督・主演の『ブロンコ・ビリー』(1980年)ではマール・ハガードやロニー・ミルサップの音楽がフィーチャーされていたし、ライ・クーダーが初めてサウンドトラック全編を担当した映画『ロング・ライダーズ』(The Long Riders)は、奇しくもジェシー・ジェイムスの生涯を描いた作品だった。1980年は、大統領選で保守派のロナルド・レーガンが当選した年だ。当時の音楽評論では、アメリカはかつてのような強いヒーローを求めており、それが「古き良き」そして「強き」アメリカが求められる流れに繋がっているといった解説がなされていた。(二極化が進む近年のアメリカの一方の極に似たものを感じる)
それまでカントリー分野でほとんど実績のなかったA&Mレコードが、こういったトレンドを意識していたのかどうかはわからない。ただ、自らもミュージシャンであるハーブ・アルパートとジェリー・モスがトップを務めるA&Mは、比較的アーティストの自主性を尊重するレーベルカラーではあったようだ。経営トップの二人が、ポール・ケナリーの才能に純粋に惚れ込んだとも考えられる。
アルバム『ジェシー・ジェイムスの伝説』は、まだ15歳だった少年ジェシーとその継父ドクター・サミュエルのもとに北軍の兵士たちが馬に乗って押し寄せてくる場面を描いた「Ride of the Redlegs」(「レッド・レッグスの襲撃」)で幕を開ける。1863年、南軍のゲリラ隊に参加したかどで北軍に手配されていたジェシーの兄フランクを捜索に来た北軍兵士たちは、非協力的な態度を取ったサミュエルをジェシーの目前で絞首刑にしてしまう。少年ジェシーの心の傷となったこの出来事が、南軍のゲリラ隊への参加を経て、彼を強盗の道へと駆り立てるストーリーへの伏線となっている。
この曲でサミュエルを演じる(歌う)のは、ウィリー・ネルソンのバンド「ファミリー」のギタリスト、ジョディ・ペイン。冷酷な北軍将校役はロドニー・クロウェル、ジェシーの母親役はロザンヌ・キャッシュだ。このアルバムの素晴らしい点のひとつは、こうしたキャスティングだった。ウォルター・ヒル監督の映画『ロング・ライダーズ』では実際の俳優兄弟たちが役上の兄弟も演じていたことでリアリティを高めていたが、この『ジェシー・ジェイムスの伝説』ではシンガーたちの個性と登場人物たちの台詞とが見事に合致しているように思えた。加えて、オールドウェエストのムードを盛り上げる演奏面のキャスティングも素晴らしかった。
A面3曲目「Six Gun Shooting」(「復讐の六連発」)は、フランク・ジェイムスの独白。ゲリラ隊の一員としてメキメキ銃の腕を上げていく若干17歳のジェシー。そんな弟への期待と畏れの入り混じった感情を、ジョニー・キャッシュが例の独特の唱法で聞かせる。曲の後半で粘っこいスライドを弾いているのは、ジェシ・エド・デイヴィスだ。
アルバム中何曲かでお得意の南部訛りの「語り」を聞かせてくれるのが、コール・ヤンガー役のチャーリー・ダニエルズ。そのうちの1曲、ジェシー・ジェイムスが銀行強盗の計画を練っている様子をコール・ヤンガーが語る「The Old Clay County」は、リヴォン・ヘルムとの掛け合いで歌われる。この曲でバンジョーを弾いているのは、前作に引き続いて参加のバーニー・レドン。チャーリー・ダニエルズ自らがフィドルとスライドを弾いている。
コール・ヤンガーの弟、ジム・ヤンガー役はアルバート・リー。英国人でありながらアメリカのカントリーの一翼を担っていた彼にとって、同胞のケナリーが作り上げたこのプロジェクトへの参加は喜ばしいものだっただろう。彼が歌うB面1曲目「Hunt Them Down」は、クラプトンの武道館ライブ『Just One Night』(1980年)でリーをフィーチャーして収録されていたマーク・ノップラー作品「Setting Me Up」を彷彿させる曲だ。
傷を負ったジェシーを献身的に支える美しい妻ゼレルダの真摯な姿を歌い演じるのに、エミルー・ハリス以上に適した女性シンガーはいなかっただろう。映画『ロング・ライダーズ』では特に目立ったなかったゼレルダの存在は、このアルバムでは重要なアクセントになっている。
そして、何より適役と言えるのは、主役ジェシー・ジェイムスを演じたリヴォン・ヘルムだ。リヴォンの個性ある歌い方は「リヴォン・ヘルム」にしか聞こえないという向きもあろうかと思うが、ヤンキー(北部の人間)たちに憤りを感じている南北戦争時代の誇り高き南部人という設定自体、あのザ・バンドの名曲「The Night They Drove Old Dixie Down」を彷彿させる。アルバムでは全てのドラムスをリヴォンが叩いており、タメの効いた彼のドラムスが全編を貫いていることで、自ずとザ・バンド的な空気感も生まれている。
「The Night They Drove Old Dixie Down」と言えば、ザ・バンドのセカンドアルバムのエピソードビデオ(『Classic Albums』シリーズ)で、ロビー・ロバートソンが語っていた言葉を思い出す。(下記映像の2:52あたりから)
このエピソードを意識すると、このアルバム自体、最初からリヴォン・ヘルムを念頭に作られたのではないかとさえ思えてしまう。さらに、こじ付けると、ロビーがリヴォンの父親の言葉として語った最後のフレーズ「南部が見返すからな」(The South's gonna ride again)と基本的に同じ意味のフレーズ「The South's Gonna Do It Again」は、チャーリー・ダニエルズ・バンドの代表曲のひとつだ。
この『ジェシー・ジェイムスの伝説』が発表されたのと同じ80年に公開された映画に、『Coal Miner's Daughter』(邦題『歌え!ロレッタ愛のために』)がある。カントリー歌手ロレッタ・リンの半生を描いたこの作品では主演のシシー・スペイセクがアカデミー主演女優賞を受賞しているが、この映画で、ケンタッキーの炭坑で働く、ロレッタ・リンの頑固な父親役を演じたのが、俳優初挑戦のリヴォン・ヘルムだった。リヴォンはその後も数作の映画に出演しているが、もしかすると、このアルバムで「演じること」に目覚めたのかもしれない。
『ジェシー・ジェイムスの伝説』のキャスティングに関しては、当時のエミルー・ハリスのプロデューサーであり、夫でもあったブライアン・アハーンの尽力があったと考えられる。アルバム全編でベースを弾いているのは、エミルーのバック「ホットバンド」のメンバーだったエモリー・ゴーディ。同じくホットバンドにいたロドニー・クロウェルとアルバート・リーは、何れも70年代末にアハーンのプロデュースでソロデビューを果たしたばかりだった。そして、クロウェルが78年にデビューアルバムをプロデュースし、翌79年に結婚したのがロザンヌ・キャッシュ。言うまでもなく、その父がジョニー・キャッシュだ。ジョニー・キャッシュはエミルーの80年のアルバム『Roses In The Snow』でも客演しており、このあたりの人脈はファミリーと言えるような関係だ。「ファミリー」と言えば、ドクター・サミュエルを演じたジョディ・ペインはウィリー・ネルソンのバンド「ファミリー」のメンバーだが、ウィリーとエミルーは互いのアルバムで客演し合う間柄。エミルーとザ・バンドのメンバーたちも互いに客演し合っているが、これはカナダ出身のアハーンだからこそ成し得たコネクションだろう。さらに、台詞だけのわずかな出演ながら、ジェシー・ジェイムスを暗殺する重要な役どころであるフォード兄弟を演じていたのは、ロドニー・クロウェルの旧友でブライアン・アハーンの右腕的エンジニアだったドノヴィン・コワートとマーティン・コワートの兄弟。これらの顔ぶれを見れば、「Special Thanks」の一番最初にブライアン・アハーンの名前がクレジットされているのも当然だろう。
しかし、皮肉なことに、このアルバムは結果的にエミルーとブライアン・アハーンの公私にわたるパートナーシップ終焉のきっかけとなる。エミルーはこのアルバムを通してポール・ケナリーの才能に惚れ込んだようだ。その後の自身の作品『Cimarron』(1981年)と『White Shoes』(1983年)(何れもアハーンのプロデュース)でそれぞれ1曲ずつケナリーの作品を歌っていたエミルーは、84年にアハーンと離婚。翌85年にポール・ケナリーと全曲共作・共同プロデュースを行なったアルバム『The Ballad of Sally Rose』を発表。同じ年にエミルーはケナリーと再婚する。
『The Ballad of Sally Rose』(邦題『サリー・ローズのバラッド』)は、ストーリー仕立てのコンセプトアルバムだった。サリー・ローズという女性シンガーがある男性シンガーに引き立てられスポットライトを浴びるようになるも、その男性シンガーが事故で亡くなってしまうというストーリーは、グラム・パーソンズとエミルーとの関係を彷彿させるものだった。実際には、グラムのエピソードと『スター誕生』のストーリーを掛け合わせて発展させたようなフィクションだったが、このようなコンセプトアルバムをMTV全盛の85年に作ったという事実からも、エミルーがいかに『ジェシー・ジェイムスの伝説』のアルバムづくりに共感したかが想像できる。ただ、アルバムカバーも含めたトータル性の点で言えば、『ジェシー・ジェイムスの伝説』に軍配が上がる。個々の曲や演奏は申し分なかったが、フィクションであるせいかストーリーがやや説得力に欠けたし、レコード会社の理解度や予算の違いもあったかもしれない。セールス的にも芳しい結果は残せなかった。
二人は翌86年にも共同プロデュースでアルバムを発表する。エミルーの13作目『Thirteen』(1986年)は70年代の彼女の作品と似た傾向のカバー曲中心のアルバムだったが、どの曲にも真摯に訴えかけてくるものがあった。このアルバムでは、ケナリーは3曲にソングライターとしてクレジットされている。
この頃から90年代初めにかけてのケナリーは、マーティ・スチュアートやスウィートハート・オブ・ザ・ロデオ、タニヤ・タッカー、ジュース・ニュートン、パティ・ラブレスら、エミルー・ハリス周辺の人たちを中心に多くのカントリーアーティストにヒットをもたらしている。この時期の彼の曲は、アコースティックな響きを活かしながら小気味よくロックする「ヒルビリーロック」といったタイプのものが多かった。マーティ・スチュアートには、そのものズバリのタイトルの曲を提供しているが、とりわけザ・ジャッズには多くのヒット曲をもたらした。
しかし、ソングライターとしての仕事が多忙を極めたせいか、エミルーのコラボレーターとしてのケナリーの存在感は『Thirteen』以降見られなくなってしまう。その後のアルバムでアラン・レイノルズやリチャード・ベネットらをプロデューサーに起用するようになったエミルーは、引き続きアルバム中1曲程度はケナリーの曲を取り上げていたが、蜜月は長くは続かず、結局二人は93年に離婚した。
その後のポール・ケナリーの活動については、私自身あまり意識しなくなってしまった。と言うのも、ちょうどこの90年代前半頃から「オルタナカントリー」などの新しいアーティストたちが出てきため、従来から「カントリー」と呼ばれていたジャンルの新作を私自身があまり聞かなくなってしまったからだ。今回この記事を書くにあたって調べてみたところ、ケナリーは98年に自身のミニアルバム(EP)をマイナーレーベルから発表しているようだ。2000年代以降も、数人のカントリーやルーツ系アーティストが彼の曲を取り上げているようだが、さほど目立った活動をしているようには思えない。ただ、比較的最近、2022年に出たダニエル・タシアンのアルバム『Night After Night』では、何曲かタシアンと共作しているようだ。ダニエル・タシアンは、今年出たサラ・ジャローズの新作もプロデュースした人だが、80年代にエミルーのホットバンドのメンバーだったバリー・タシアンの息子。そんなわけで、彼は若い頃からケナリーを慕っていたようだ。そのタシアンのアルバムの曲をYouTubeで数曲聞いたみたところ、なるほどいかにもポール・ケナリー風と感じさせるヒルビリーロック調(バディ・ホリー調とも言える)のものだった。
キース・リチャーズやマーク・ノップラー、エルビス・コステロなど、アメリカのカントリーミュージックに憧れて続けていた英国人は数多いが、実際にアメリカのカントリーミュージックの中枢で裏方的に重用され続けた英国人となると、ポール・ケナリーのほかにはいないのではないだろうか。彼の作風は、決して革新的ではない。むしろ「オールドスクール」の流儀だが、ツボを心得たようなところがある。ただ、後年の作品には、『ジェシー・ジェイムスの伝説』にあった叙情性やバラード作品も含めた広範なソングライティングの妙は感じられない気がする。
グリン・ジョンズや参加アーティストたちとのケミストリーがあったゆえかもしれないが、「カントリーロック」という言葉が死語になろうとしていた1980年、「アメリカーナ」や「ルーツロック」といったジャンル名が生まれるずっと以前に、アメリカ南部人のルーツを掘り下げながらも同時に親しみやすい「大河ドラマ」のような作品を作り上げた彼の存在は、非常に稀有なものだったと思う。
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