プロデューサー ブライアン・アハーンと「White Line」
少し前にエミルー・ハリスの初期の曲「アマリロ」(Amarillo)について書いた際、彼女の当時のプロデューサーであり、その後夫にもなるブライアン・アハーンについて言及した。70年代のカリフォルニアにおいて、ロックサイドからのカントリーロックでもナッシュビル産のカントリーでもない、独自のカントリーミュージック・モデルの形成に寄与したという意味で、ブライアン・アハーンの果たした役割は大きいはずだが、その貢献度については(特に日本では)これまであまり語られてこなかったように思う。そこで今回は、このカナダ人プロデューサー、ブライアン・アハーンについて少し触れてみたい。
※彼のラストネームをかつて日本では「エイハーン」と言っていたが、「アハーン」の方が実際の発音に近いようである。
ブライアン・アハーン(Brian Ahern)は、1945年、カナダ・ノバスコシア州ハリファックスの生まれ。ノバスコシアは、カナダの大西洋側にある、半島と島からなる同国の中では小さな州だ。アハーンは、60年代初めに地元ハリファックスの音楽テレビ番組のギタリストとしてキャリアをスタートさせた。その番組にオーディションを経て参加した歌手のひとりがアン・マレーだった。しばらくして、そのテレビの仕事を辞めたアハーンはトロントに移る。トロントでは、ロニー・ホーキンスのシングル盤「Home From The Forest」(1967年、ゴードン・ライトフット作)もプロデュースしていたようだ。その頃、アハーンは、既に音楽の仕事を辞めて教職についていたアン・マレーを熱心に説得し、彼女をレコードデビューさせる。すると、努力の甲斐あって、ほどなく彼女のシングル「Snowbird」が全米No.1のヒットを記録。カナダのグラミー賞と言われる「ジュノー賞」を獲得(1971年)するまでになる。
70年代半ばにロサンゼルスに移ったアハーンは、引き続きアン・マレーのプロデュースを担当。そんな彼に、リプリーズ・レコードから或るオファーが入る。急死したグラム・パーソンズのデュエットパートナーだったエミルー・ハリスのソロデビューに際し、プロデュースを担当してほしいというオファーだった。アハーンは、ハリスとの仕事に先立って、テキサス出身の若いソングライター、ロドニー・クロウェルと出版契約を結び、クロウェルの曲をハリスのレパートリーに持ち込むとともに、パーソンズのリプリーズからのソロアルバムでバックを務めていた名うてのミュージシャンたち(ジェイムス・バートン、グレン・D.ハーディン、ロン・タットら)に加え、クロウェルをハリスのバックバンドの一員に抜擢。こうして、エミルー・ハリスはアルバム『Pieces of the Sky』(1975年)でメジャーデビューを果たし、続くセカンド『Elite Hotel』(1975年)ではグラミー賞最優秀女性カントリー・ヴォーカル・パフォーマンスを受賞する。プロデューサーとしてのアハーンは、自分のブレーンとなるミュージシャンをある程度固め、その気心の知れたメンバーたちの「和」の中で、彼らの音を適材適所に活かしながらクリアな音を作っていく──そんな手法だった。それは、セッションメンをバックに音が作られるナッシュビルのやり方とは異なるものだったし、アサイラム系を中心とした西海岸ロックアーティストたちのやり方とも少し違っていた。
ブライアン・アハーンにとって、70年代後半は絶頂期と言える時代だった。引き続きエミルーのアルバムをプロデュースするとともに(二人は77年に結婚)、彼女のバックバンド「ホットバンド」をそのまま活用する形で、ジョナサン・エドワーズやジェシ・ウィンチェスター、ジョニー・キャッシュ、ビリー・ジョー・シェイヴァーらのアルバムを制作。ホットバンドのメンバーだったロドニー・クロウェルとアルバート・リーのソロデビュー作も手がけた。これらの作品の多くは、アハーンが大型トレーラーを改造して作り上げた移動式スタジオで録音されていた。「エナクトロン・トラック」と名付けられていたこの設備は、ザ・バンドの『The Last Waltz』の制作にも(どういう形でかはわからないが)使われたという。ラスト・ワルツのポストプロダクションではエミルーがザ・バンドと共演しているが、ホークス時代にトロントを拠点としていたザ・バンドとエミルーを結び付けたのも、アハーンだったのではないだろうか。
しかし、80年代に入る頃から、アハーンのプロダクションはややマンネリ化してくる。ロドニー・クロウェルやリッキー・スキャッグス、アルバート・リーといった優秀な才能がホットバンドから独立していったせいもあると思うが、エミルーのスタジオ作品もどこか精彩を欠くように思えた。結果、エミルーとのパートナーシップは83年の『White Shoes』を最期に解消。二人は84年に離婚する。新たに大のカントリー好きイギリス人ソングライター、ポール・ケナリーをプロデューサー、そして新しい夫として迎えたエミルーは、見違えるように輝きのある作品(『The Ballad of Sally Rose』(1985年)、『Thirteen』(1986年))を相次いで発表。今にして思えば、80年代前半のエミルーは、公私共にアハーンとのパートナーシップに行き詰まっていたのだろう。
ブライアン・アハーン関連人脈の作品を集めていると、頻繁に登場するひとつの曲がある。トロント出身のカナダ人シンガーソングライター、ウィリー P. ベネット(Willie P. Bennett)という人が書いた「White Line」という曲だ。その曲を私が最初に聞いたのは、アハーンとは一見無関係に思えるピュア・プレイリー・リーグ(PPL)の79年のアルバム『Can't Hold Back』に収められていたものだった。
これは、ハイウェイをモチーフにした、いかにも「ウェストコースト・カントリーロック」といった風情のミディアムバラードで、そのアルバムの中のベストトラックのひとつに挙げられる仕上がりだった。このPPLバージョンについては後述するが、「White Line」という曲が初めてレコードとして世の中にお目見えしたのは、英国系カナダ人シンガーソングライター、デイヴィッド・ウィフィンのセカンドアルバム『Coast to Coast Fever』(1973年)に収められていたものだったようだ。アルバムはほぼブルース・コバーンのプロデュースだが、この「White Line」だけがブライアン・アハーンのプロデュースだった。
なぜこの曲だけアハーンのプロデュースだったのかは分からないが、彼はこの曲がかなりのお気に入りだったようだ。1976年には、アハーンのプロデュースでデビューした彼と同郷(ハリファックス出身)のシンガーソングライター、ピーター・プリングルのリプリーズからのデビューアルバムでこの曲が取り上げられている。プリングルは、それまでアン・マレーに曲を提供したり、彼女のバックで歌ったりしていたようだが、アハーンと年齢(1945年生まれ)も同じ、おそらくは旧知の仲だったのだろう。プリングルのバージョンには、ビル・ペイン(key)、リック・カンハ(gu)、ミッキー・ラファエル(harmonica)など、エミルー・ハリスの初期アルバムに参加していたのと同じようなメンツが入っており、ハーモニーヴォーカルにはエミルーも参加。透明感のある仕上がりになっている。このアルバムではロドニー・クロウェルの曲も取り上げられており、そこではリンダ・ロンシュタットがハーモニーを付けている。
同じ1976年、アハーンは、ジョナサン・エドワーズのリプリーズ移籍第1弾アルバム『Rockin' Chair』もプロデュース。ここでも「White Line」がカバーされている。エドワーズは「Sunshine」(1971年)のデビューヒットで知られるボストン拠点のシンガーソングライターだが、このアルバムのバックは、ジェイムス・バートン、グレン D. ハーディン、エモリー・ゴーディ、ロドニー・クロウェル、ハーブ・ペダースンなど、完全に当時のホットバンドのメンバー。エミルー・ハリス本人もハーモニーで参加しているが、極端に言えば、リードヴォーカルを差し替えれば、そのままエミルーのアルバムになりそうなサウンドプロダクション。ロドニー・クロウェルの曲も収録されている。
5つ目は、私の最も好きなバージョンで、ブルーグラスバンド、セルダムシーンのメインヴォーカリストだったジョン・スターリングの最初のソロアルバム『Long Time Gone』(1980年)に収められていたもの。このアルバムのプロデュースは、J.J.ケールのプロデューサーだったオーディー・アッシュワースという人とローウェル・ジョージが(おそらく曲ごとに)担当。ブライアン・アハーンの直接の関与は見られない。しかし、元々ワシントンD.C.で活動していたエミルー・ハリスと、同地を拠点にしていたセルダムシーン、とりわけジョン・スターリングとは、深い関わりがあった。スターリングの当時の妻フェイスーはエミルーのバンドでバックヴォーカルを務めていたことがあったし、ジョン自身もエミルーの『Elite Hotel』で素晴らしいハーモニーヴォーカルを聞かせている。後年、エミルー、リンダ、ドリーの『Trio』の音楽監修を務めたのもジョン・スターリングだ。彼がこのアルバムで「White Line」を取り上げたのも当時アハーンの妻だったエミルー経由だったと推測できるし、実際、彼女自身がハーモニーヴォーカルを付けている。ちなみに、インストゥルメンテーションは、トニー・ライスとポール・クラフトのギターに、ダニー・ペンドルトンのスティール、リッキー・スキャッグスのマンドリン、マイク・オールドリッジのドブロ。そこに、控えめながらローウェル・ジョージのスライドが絡むという感涙ものだ。
実は、ジョン・スターリングは、75年発表のセルダムシーンのライブアルバム『Live at the Cellar Door』で既にこの曲を取り上げている。アルバムには、スターリングが「良く知らないけど、カナダのウィリー P. ベネットという人の曲」と言うMCも収録されている。このMCから、スターリングとベネットの間に直接の繋がりはなかったものの、このライブが収録された74年12月時点までに彼が何らかの形でこの曲の存在を知ったと考えられる。(ちなみに、エミルーのメジャーデビューは75年2月)
このワシントンD.C.コネクションを考えると、最初に紹介したPPLのバージョンに関しても、ブライアン・アハーンとの繋がりが見えてくる。PPLの『Can't Hold Back』(79年)は、それまで無名に近かった若手シンガー&ギタリスト、ヴィンス・ギルを新たなフロントマンとして初めて迎え入れたアルバム。ほとんどの曲でヴィンスがリードヴォーカルを取っており、バンドがその後のヒットに繋がる垢抜けたウェストコースト風ロックに生まれ変わった作品だ。プロデュースはマナサスのアルバムなどを手掛けていたマイアミ・クライテリアスタジオのロン&ハワード・アルバート兄弟で、アハーン=ハリス人脈の関与は見られない。ただ、ヴィンスは、70年代半ば、リッキー・スキャッグスがホットバンド加入直前に結成していたブルーグラスバンド「ブーンクリーク」に短期間在籍していたことがある。また、PPLの75年のアルバム『Two Lane Highway』(プロデュースはジョン・ボイラン)には、エミルーがバックヴォーカルで参加していた。つまり、ヴィンスがリッキー経由、もしくはPPLの既存メンバーがエミルー経由で、この曲を知った可能性が考えられる。後年、ヴィンスの12インチEPでのソロデビューをエミルー人脈がサポートしていたり、エミルーのアコースティックアルバム『Angel Band』(1987年)にヴィンスが全面的にフィーチャーされていることを考え合わせれば、前者の可能性が高いのではないだろうか。
ここまで見てきたように、ブライアン・アハーンがウィリー P. ベネットの「White Line」推しだったことは確かだ。そうなると気になるのは、作者ベネットのことだ。この名前が長年引っかかっていた私は、レコードがあれば入手したいと考えていたのだが、2年ほど前、中古レコード市でついに彼のアルバムを見つけた。(今の時代、ネットで調べれば簡単だったのだろうが、元来「出逢い」を大切にしたいタイプなので、考えがそこまで至らなかった)
このデビュー作のタイトルをアルバムカバーのヒッピー風のベネットの写真と合わせて見た時、「White Line」という曲のタイトルが改めて気になった。それまで、この曲で歌われている「White Line」はハイウェイのセンターライン(白線)のことと額面通り受け入れていたのだが、「White Line」にはコカインの意味もある(コカインの粉を鼻からすする際、白い粉を線状に並べることに由来する)。そして、アルバムのタイトル 『Tryin' to Start Out Clean』は、そのまま訳すと「きれいになって出直そう」だが、「clean」には「麻薬中毒でない」の意味もある。「White Line」の歌詞を改めてよく見てみたところ、コカインに直接言及しているわけではなかったが、この曲が作られた70年前後の時代背景を考えれば、コカインの呪縛から逃れようともがいている男の歌のようにも聞こえる。
残念ながら、YouTubeにアップされているウィリー P. ベネット自身によるバージョンは、晩年の彼の弾き語りライブしかない(彼は2008年に56歳で亡くなっているようだ)。それらの映像ではオリジナルバージョンにあった空気感が伝わらないため、ここではアルバム冒頭に収められている「Driftin' Snow」という曲のリンクを貼っておこう(雪国での鬱屈した生活を憂うように聞こえるこの曲の内容は、「White Line」の歌詞にも通じる)。アルバム全体としては、ディラード&クラークあたりに通じる、ブルーグラス・フォークロックとでも言うようなサウンドだ。
このアルバムは、カナダの「Woodshed Records」というレーベルから出されている。調べてみたところ、このレーベルは、David Essigというカナダのシンガーソングライター兼プロデューサーが立ち上げた自主レーベルのようだ。クレジットを見ると、地元トロントの仲間内ミュージシャンで固められているようで、アハーン=ハリス人脈の関与は見られない。ただ、 レーベルを見ていて、面白いことに気が付いた。曲は全てベネットの自作だが、「White Line」だけ他の曲と出版元(著作権管理者)が違うのだ。調べてみたところ、「Tessa Music」というこの音楽出版社はブライアン・アハーンが興した会社だった。この会社名は70年代半ば頃までに「Jolly Cheeks Music」と改名されており、ロドニー・クロウェルの70年代の作品は全てこの会社が出版元になっている。つまり、アハーンは、これぞという若手ソングライターを青田刈りして出版契約を結び、自分が関わるアーティストたちにせっせと彼らの作品を歌わせていたことになる。別にアハーンのことを悪く言うつもりはないが、なかなかしたたかな戦略だ。もちろんそれは、プロデューサーそして音楽ビジネスマンとして彼に確かな眼力があったからに他ならない。
アハーンは、90年代に入ってナッシュビルに拠点を移す。それ以降の彼のプロダクションは私も追いかけなくなってしまったが、2013年には、エミルー・ハリスとロドニー・クロウェルが初めてデュエットアルバムという形で組んだ作品『Old Yellow Moon』をプロデュース。2014年のグラミーで「ベスト・アメリカーナ・アルバム」を受賞している。ジェイムス・バートンやグレン・D. ハーディン、エモリー・ゴーディ、ジョン・ウェアなど往年のホットバンドのメンバーたちも参加したこの作品には私も期待したが、残念ながら往時のようなスリルは感じられなかった。このアルバムの中で最も響いたのは、マトラカ・バーグという人のカバーで、エミルーが少し枯れた声で切々と歌う「Back When We Were Beautiful」という曲。<私たちが美しかった頃>というその内容は、あたかもエミルーとアハーンのかつての関係を物語っているようだ。
※ヘッダー写真は、 Haligonia.caから拝借
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