「わからない」ことを志向する
送信ボタンを押す前に、何度も内容を反芻する。誤字はないか。いや、その前に失礼がないか。敬語がちゃんと合っているのか。誰に宛てたやつだったっけ?ああ、ささやかなる心労。
という経験はないだろうか。これはぼくが見知らぬ人へメールを送る際のちょっとした経験である。
この"心労"は、ストレスはどこからくるのか。おそらく、それは「見えない」「わからない」ことからきている。相手の顔が見えない、内面が、声の肌理が、特徴が、わからない。文字という情報に平面化されて、色と感触を失ってしまう。
ぼくはいままでこの状況が苦手だった。けれど、最近、そうも思わなくなった。
それは、「わからない」ことを前提として解釈しようと思うようになったからだ。他者は他者である限り分かり合えない。そういう諦念が芽生えた。画面の向こうの相手を知ることはできないのであれば、それはそれでいい。わたしはわたしでありさえすればいい。
これはnoteにおいても同じことで、これを読んでいるあなたの顔も声色も、特徴も何も知らない。何も知らない/わからないからこそ、ぼくはこうしてフラットに書ける。誰に宛てるでもないことを、誰にも強いられることなく、のびのびと空に向かって打ち上げるように書く。ちいさなことばの砲台。
そうそう(話に戻ろう)。そういう「わからない」によって、成り立っているものって確かにあると思う。匿名性は悪いことだけではなくって、けっこう力を抜くための、ツールにもなったりするのではないかとおもう。そして、余裕をもって、自分の空間に立ち返る。自分だけが、自分について、他人より少しだけ、わかっている。という感触。
「わからない」って、意外と貴重なんだ。