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#4 二分法の咎

 序

 無数の蛙たちの声のなかに溶けていくような夜が、僕のそばにあります。こんにちは。今は故郷とは違う地で一人で暮らしておるわけですが、ここに来るまでずっと、夜と静寂は一つの概念であると思っていました。こんなにも賑やかに彩られる夜があるとは、やはり、異なる場所で生活するのには興があります。


 「実用性」のはなし

 窓の外を眺めると、まずは派手な彩色の居酒屋があり、瓦屋根の一軒家の数々、そして緑の山々が広がる。一望に思うことをひろげることにする。

 設計され、思うまま作られた、人のための家々。利便性を考慮して敷設された、人のための道。人の歓楽のために用意された居酒屋。そして、唯一、人のために削られ、切り拓かれる山々。自然を、人間は利便性や実用性といった大義で殺してきたし、殺していることだろう。自然の反対語は「人工」であると義務教育で教えられるようになっているように、自然と人間というディコトミーが、二分法が、成立しているように見える。


 文学の話を思い出す。文学の定義を「事実 fact」と「虚構 fiction」によって説明できるのではないか、という主張yがあり、その際にイーグルトン[Terry Eagleton(1943-)]は、たとえば小説や見聞録が明確な事実でもなければ、明確な虚構でもない曖昧な要素を含んでいることを示唆しながら、「二分法では限界がある」ことを結論付けた。


 社会的にもこういった二分法の罪みたいなものが露呈してきている。生物学的特徴で二分されてきた性別の問題も、「心の性別」という新たな基準によってとりなされようとしている。「男と女」ということば群があと数十年すれば古い慣用句になるのかもしれない。そうなっていてほしい。

 

 きっと、物事が二つに分かれた様相を呈していると、わたしたちは美しいと感じてしまうし、無意識のうちに二項対立を考える。それは生物的な刷り込みか、あるいは教育的・後天的な産物のどちらだろうか。やはり、教育の段階においても、わたしたちは執拗に正解と不正解に截然と分断しようとすることは逃れようのない事実だろう。

 これからの教育、ひいて社会に求められるのは「不分」の姿勢であると思う。それはつまり、両極にある存在の中間にある曖昧さを肯定し、そこにいる他者を理解しようとする営み。他人にラベルを張るのではなく、一つの軸の中のどのあたりに位置しているのかを理解しようとするまごころのようなものが、求められているのではないかと思う。


〈参考〉Terry Eagleton, What is Literature: English Literature in Schools, (Stratford and Philadelphia, 1987) 


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