[読録]『しんせかい』山下澄人


作家は、かれの現実の世界における、存在の感覚からすっかり離れて、かれの小説における世界の感覚をつくりあげるのではない。作家は、かれがそのようにこの世界のなかに存在していることの、他人には伝達不可能であるほどにも、彼のそうしたありようの実質に、具体的に、肉体と意識にかかわって根ざしていることこそを、小説の世界において、再現しようとするのである。

(大江健三郎『文学ノート付15篇』新潮社刊,p.18)

小説とは、作家による現実の経験の再現である、という当たり前に見える事実。けれどもこれこそが、私たちが小説を読む理由の本質を穿っている。私たちは他人の人生、経験へと入り込み、肉体と意識を借りる。  『しんせかい』。ここで私たちが目撃することになるのは、忘れながら、考えながら言葉を紡ぎ出す語り手のリズムだ。喋っているひとの声の間、思考の感覚が改行に現れ、飛び跳ねるように、戯曲のように言葉が紡がれていく。そして、それはわたしたちに、私たちが考えるリズムと似ている、というリアルさを意識させずにはおかない。以下に彼の文章を引く。

わたしたちは気がついたらいた、目がさめたら交通量の激しい交差点の真ん中にいたように、そうしてわたしたちは存在し、子どもになり大人になり老化して死んでいく、そうなる前に死ぬのもいる、その間わたしたちは何をするのか、していたのか、いつ大きくなったのか、どのように大きくなったのか、手からか、足からか、あれこれの奇妙な思い込みや幻想を脳にどのように、どの順番でセットしたのか、何がどう起動しはじめたのか、いつ言葉を使用しはじめたのか、何もおぼえていない 何ならおぼえているのか 輝かしい無駄な時間だからこそ思い出せなかった。

(「あとがき」『しんせかい』新潮文庫版p.170)


私たちは非常にもろい記憶の上に成り立った現在に生きていることは、おそらく誰にも否定できないだろう。本を読破したその瞬間にも、その本のことを微に入り細を穿つように覚えている人は少なく、食べ終えたその瞬間に味は忘れられ、寝て起きたら夢の世界は捨て去られ、赤子の時分、それから、小学生、またそれ以後、それらの記憶は私たちの中でもはや線ではなく、点滅する点でしかないような脆い記憶だ。私たちが覚えていない、ということの限りないリアル、「気がついたらいた」という意識にとってのリアルを、この作品はするどく捉えきっているように思う。「輝かしい無駄な時間」として生きることを組織することで、わたしたちは『しんせかい』に生きることができるかもしれない。

 併載の「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」という短編も、その表題からして記憶力には自信が無さそうだ。覚えていない、というリアルへの追求が、表現として真に迫ってくるのである。