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完結している人間が好きだ

 日はとっくに落ちてしまって、蒸した夜のペトリコールと大学生の話し声がTシャツ越し、べとべとと肌にまとわりついてくる。大学から帰っている。研究室で少し遅くまで論文を探し、図書館に取り寄せていた資料を取りに行った帰りだ。車が一台通れるかどうかという道幅のところに、20人くらいの学部生と思しき集団が固まって歩いている。はあぁ。まあ、ええか。どうやってコミュニティが維持されているのだろう、とか、一人一人と関係を取り結ぶのだろう、とか考えながら、ため息を隠して仕方なくいつもの五千倍ゆっくりと後ろを歩く。

 大学生が嫌いなわけではない。彼らは明るく、僕と同じくらいに馬鹿で、多様性がある。が、なんか過剰に群れている(コロナ前の飲み屋の前とか)のは辟易してしまう。というより理解しがたいものがある。あんな風にはなれないなあ、と思っていつも遠巻きにしている。


 たとえば一方で、昨今の情勢の影響で、図書館も2人ずつ向かい合うテーブル席の対角線だけを使おう、という姿勢をとっていて、みなが静かにPCと向かい合い、本を読み、ペンを走らせ、あるものは突っ伏して夢想にふけっている。ひとりひとりが目的をもってそれぞれの作業へと向かってゆく、完結した世界。ひとりで、ひとりのことを黙々と。その静かな熱量が充満する、(もちろん喚起はしている)図書館という理想郷も、おなじ大学の中に存在する。不思議だ。それはきっと、緊急事態宣言の東京ともうすぐ五輪のTOKYOが同じ場所にあるのと変わらない理屈だろう。

 そんなことから、僕はきっと完結した人間がとても好きだ、ということがひらめいた。自らの欠乏を他者に求め、つながることを求める人より、自ら満ち足りていて、(あるいは欠乏があってもいい、と思っていて)、まあどっちでもいいけどきみに付き合ってあげようか、という人の方が気楽でいい。とおもうのだが。