マガジンのカバー画像

雜記

50
思考以上言明未満のものたち
運営しているクリエイター

2021年2月の記事一覧

故郷にて

 故郷と云えば、なぜか山々の稜線に沈む夕日、照り映える小川の流れを思い出す(そんな記憶なんてないのに)。けれどもそれはたぶん唱歌「ふるさと」の世界観で、実際ぼくの故郷は喧噪と隣り合わせのごく普通の住宅地だ。大学の五年間を終えここに帰ってきて、けっこう変わってるところが多くて驚いたりしている。きょうは母校の小学校の前を歩いていると、なんと25mプールが更地になっているではないか。すべての学校から水泳が消えた世界を空想して、愉快な気もちになる。そして自分が泳げなくて劣等感に苛まれ

極彩色の陥穽

 もうすぐこの街を去る。きょうは銀行口座を解約するために銀行へ行った。待合は長い。長椅子に座ってテレビをみる。ミャンマーの暴動で亡くなった女性のことをやっている。たくさんの人々によって大規模な葬儀がなされていて、どうやら女性が亡くなってしまったことの怒りを義憤としてさらなる民衆蜂起・行動を焚きつけようというものらしい。  無数の人々が彼女の顔の書かれたプラカードを持ち、彼らの言語で、怒りを、憎悪を、悲しみをむき出しにする。霊柩車の中から、極彩色の棺桶が引き出され、人々の手を

引越

 短く。今日の日記とかを綴ろうと思ったけれども、一日に起こることが少なすぎて、起伏のない時間を過ごしていることを振り返って直視してしまった。逆に言うと、その起伏のない日常が、ぼくに詩を書かせ、そのなかにダイナミズムを求めさせているのだろうな、とも思うんです。来週には引っ越し。部屋にあったものが少しずつなくなってゆく。生活の痕跡、ぼくの生きていた証明が。もし、引っ越しのトラックが出ていって、ぼくが部屋で突然死んだら、ぼくの特徴は、性向は、どのように推し測られるのだろう。何も残っ

「わからない」ことを志向する

 送信ボタンを押す前に、何度も内容を反芻する。誤字はないか。いや、その前に失礼がないか。敬語がちゃんと合っているのか。誰に宛てたやつだったっけ?ああ、ささやかなる心労。  という経験はないだろうか。これはぼくが見知らぬ人へメールを送る際のちょっとした経験である。  この"心労"は、ストレスはどこからくるのか。おそらく、それは「見えない」「わからない」ことからきている。相手の顔が見えない、内面が、声の肌理が、特徴が、わからない。文字という情報に平面化されて、色と感触を失って

空洞から響いてくる言葉と翻訳

 最近考えているのは、自分について。そして自分の書くことのスタイルについて。書くことが日々を過ごしてゆくことと渾然一体となってきたこの頃、こうしてここに記すことに確かに意味はあるだろう。  ぼくは、ぼく自身を洞(うろ)だと思っている。  これは悩みでもあるのだけれど、ぼくは自分の内側から湧いてくる、創造的なことば、みたいな、「独創性」みたいなものがない。  ぼくが書くとき、それは本質として今まで出会った、あるいは本で読んだような誰かの言葉を借りて、それを組み合わせながら

不可逆を愛せ

 日々生きていて、もちろん、辛いことはたくさんある。今日はそれを感じている友人(たち)のために、そして自分自身のために気休めを書こうと思う。  ぼくは高校時代から、そして今も少し、人間関係に難がある。人を手放しに受け入れることができず、何かの見返りを求めてしまう。内省もせず呆けて生きている人間、と他人をどこかで蔑んでいる。だからぼくは友達が少ない。けれども、友達と呼べる人はとてもいい人たちだ。聖人のような人々だ。感謝が尽きない。  だから、非常にやさしい彼ら彼女らが、社会

#50 卒論を経験して思ったこと

 きのう、卒業論文なるものを提出した。これは最近noteを更新できていなかった理由のすべてである。これでいよいよ、卒業ができるらしい。留学を挟んで、大学には五年在籍したことになる。五年。とても永く、人生においての一つのチャプターになるような、そんな重たい時間だった。  文系のぼくは、翻訳について、主に文化研究や文学における先行研究(その分野ですでになされた研究の論文や書籍)を参照しながら、自分の考察を織り交ぜて書く、ひたすら書くという日々を送った。研究室で見る朝陽はいつも眩