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空洞から響いてくる言葉と翻訳

 最近考えているのは、自分について。そして自分の書くことのスタイルについて。書くことが日々を過ごしてゆくことと渾然一体となってきたこの頃、こうしてここに記すことに確かに意味はあるだろう。

 ぼくは、ぼく自身を洞(うろ)だと思っている。

 これは悩みでもあるのだけれど、ぼくは自分の内側から湧いてくる、創造的なことば、みたいな、「独創性」みたいなものがない。

 ぼくが書くとき、それは本質として今まで出会った、あるいは本で読んだような誰かの言葉を借りて、それを組み合わせながら、模倣することで文を繋いでいるだけ。


 それはひどく悲しいことに思えた。たとえば明治の文豪とか、村上春樹とかドストエフスキーとかカーヴァーとか、自身の文体を持つ人が、ひどく遠く、羨ましく思えた。彼らは新しいものを、面白いものを書くことができ、それが世間に評価され、古典として定着してゆく。独創性はそれだけで価値だ。

 

 いまのぼくの考えは、洞であることに意味を見出すことができるか、ということだ。


 そこで、今月に入って、ぼくは翻訳をし始めた。英米文学の短編を翻訳することで、言葉に対しての感覚をつかむ。翻訳は、ぼくの研究の専門でもあるけれど、自分が当事者になることを考えていなかった。ペースは恐ろしく遅くて、大変な作業だ。翻訳は、しばしば「再創造」re-creationと呼ばれるように、原文から何かが失われ、そして訳文の中に何かが生まれる。そしてその感触が、なんとなくわかってきた。


 ぼくという空洞をとおして、文章は、文化は、社会は、世界は、屈折することになる。そして言語圏を越えて紡がれる文章には、どこかにぼくが空洞である意味が見つかるかもしれない。空洞を通してしか、翻訳という行為は成り立たない。境を越えてゆくためには、壁があってはならないのだ。



 noteで、今度から翻訳作品を投稿していこうと思います。そのときは是非、読んでください。

 丁寧に原文の世界と向き合いながら、そして、この世界と向き合いながら書いていこうと思います。


つづり