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極彩色の陥穽

 もうすぐこの街を去る。きょうは銀行口座を解約するために銀行へ行った。待合は長い。長椅子に座ってテレビをみる。ミャンマーの暴動で亡くなった女性のことをやっている。たくさんの人々によって大規模な葬儀がなされていて、どうやら女性が亡くなってしまったことの怒りを義憤としてさらなる民衆蜂起・行動を焚きつけようというものらしい。

 無数の人々が彼女の顔の書かれたプラカードを持ち、彼らの言語で、怒りを、憎悪を、悲しみをむき出しにする。霊柩車の中から、極彩色の棺桶が引き出され、人々の手を渡ってゆく。

 あれ?死って、こんな形をしていたっけ、と思う。死は、祈りと静寂と共にあるものであると思っていた。ぼくは、個人として死がさらなる死を呼び起こしてはいけないと思う。たくさんの人たちに思われるのは良いことだが、その死をマテリアルとして消費することは決して、誰にも許されることではない。

 死はひとつの終着だと思う。だからきっと死んでしまった人の肖像を使ったり、その死を”利用する”ような今回のパフォーマンス的葬儀に、何か違和感を感じてしまった。残された者たちが死者に対して、そしてその「死」に対してどのように向き合っていくかということは、避けては通れない問題で、そしてそれ故に考えなくてはならないことだろう。覚えておかなければならない。それは生きることを考えるのと同じくらい重要なことかもしれないぞ、と。