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ぼくらはハートをふりまきながら生きる。それは人を繋いだり、あるいは人の生きる力になる、形を与えられた可能性だ。ぼくらの指先から放たれ、残弾数には限りがない。だから、心を少しずつ分け与えてしまって廃人になる、みたいな心配もない。 現実世界ではこうはいかない。何に対しても「好き」であると表明することには、責任が伴い、価値観を浮き彫りにする。異性に対しての「好き」は、重複した場合、倫理委員会に殴られる。つまり「すき」ということばは、形こそないが、そうした真に迫る重みがあるのだ
本を読んでいて、はっとすることがある。それは自分の言語化できない領域の経験を、さらっと文章にしてしまわれた時とか。 しかし、不思議なことに、夕闇のせまる部屋でウイスキーをなめながら横になっていると、彼は、もう長いあいだ感じたことのない落着きを感じた。代数の試験に失敗して、かえって、解放されて自由になったと感じたときに似ている。失敗はそれなりに完璧な確実さだ。 ―カポーティ『最後の扉を閉めて』川本三郎訳 ちくしょう。なんて奴だ。たしかに、失敗はこのように、割り切った原
きょう、機会があって、アメリカ文学を訳す、という柴田元幸先生の講演をzoomで聞くことができた。私は彼の文体しか知らなかった。翻訳家として、文章を紡いでくださる彼のテクストと私は深く通じ合うものを感じていた。この内容についてはまたいつか書こう。今回はその「オンライン」のコミュニケーションで気づいたことを。 以前の世界で普通に生活していたらなかった接点で、私はその講演で肉声を聴き、知見を得た。でもこれは、インターネットに以前から仮託された一つの可能性の一つであったが、世
つまらない、誰も読まないことでも百日続ければ何かが生まれる、みたいな楽観を、僕は書き始めた時に持っていた。いや、何のことやねん、と思われるかもしれないが。きょうは「創作」について少し。 けれど創作(とまとめるのは良くないかもしれないが)につねに付帯するのは、ある種の責任だ。作り出したその瞬間から、それは表現であり、他者の感情や記憶や思考にはたらきかけることができる。ある人はそれによって心を揺さぶられ、ある人はトラウマを抉られて不快になるかもしれない。そういった他人の心に
Each room, shut windows and blind, the new sun blinks to whole of them. I'm watching them carefully, deep down, deep down to the bottom of its darkness. Then, I suddenly wake up to the truth―the truth at which I can't look the blue, vivid b