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#36 少しずつ書く僕が見つけたこと

 つまらない、誰も読まないことでも百日続ければ何かが生まれる、みたいな楽観を、僕は書き始めた時に持っていた。いや、何のことやねん、と思われるかもしれないが。きょうは「創作」について少し。


 けれど創作(とまとめるのは良くないかもしれないが)につねに付帯するのは、ある種の責任だ。作り出したその瞬間から、それは表現であり、他者の感情や記憶や思考にはたらきかけることができる。ある人はそれによって心を揺さぶられ、ある人はトラウマを抉られて不快になるかもしれない。そういった他人の心に負う責任。責任であり、可能性。それを忘れてはいけない。


 僕が半年くらい前に書いた「他者」の姿は、読者として、創作を選び取る側から書いている。半年前、書き始めたぼくは紛れもない読者であり、書き手としての意識なんて全くなかったんだなぁ、とわかった。

 

 創作は、他人の心へ訴えることができる創造性そのものだ。それでいて、それ以上の効能があることを、僕は「書き手」として発見した。ここに記しておこう。


 それは...

それは、端的に言うと、自分の「分身」みたいなものを作り出せることだ。その時々で自分が何を考えて生きているのか、文章として型を残しておける。粘土細工みたいなもので、後からその概形から細部に至るまで、作り出す過程までたどりながら見直すことができる。リアルタイムで生きている自分と、その時生きて考えていた「自分」という、対話の相手を、創作は与えてくれる。みずからの思考の過程、歩みの軌跡を目に見える形でのこすことができるのだ。

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る   ―高村光太郎「道程」より

 それがどんなに不器用で見るに堪えないものでも、意味がないということはないのだ。創造するということそれ自体に意味があり、その積み重ねが、ひとつの道になる。その道は、みずから自分の内側の深い草叢を、手探りで掻き分けて、紡いでゆくものだ。振り返って初めて、そこに道ができたと分かる。


僕は本を読むのが好きだと自認している。けれどそれだけでよく文章が書けるわけではないことが身にしみてわかった。表現は、知識はたしかに本から手に入るものだが、その用い方、文体は、自分で書きながら、考えながら、経験的に構築してゆくしかない。人にもよるが、毎日少しずつ書きながら、僕は学んだ。いや、学んでいて、これからも学んでゆくだろう。

 

つまらない、誰も読まないことでも百日続ければ何かが生まれる、みたいな楽観を、僕は書き始めた時に持っていた。

冒頭にこう言ったが、これはある意味で正しい。書くこと自体に、きっと意味があるのだ。そう信じて、これからも毎日少しずつ書いていこう。

どうかあたたかく、これからも少しずつ書く僕の文章を見てほしい。

ありがとうございました。