見出し画像

#39 Hurt My Heart

 本を読んでいて、はっとすることがある。それは自分の言語化できない領域の経験を、さらっと文章にしてしまわれた時とか。

 しかし、不思議なことに、夕闇のせまる部屋でウイスキーをなめながら横になっていると、彼は、もう長いあいだ感じたことのない落着きを感じた。代数の試験に失敗して、かえって、解放されて自由になったと感じたときに似ている。失敗はそれなりに完璧な確実さだ。 ―カポーティ『最後の扉を閉めて』川本三郎訳

 ちくしょう。なんて奴だ。たしかに、失敗はこのように、割り切った原動力になったりする。期末テストとか、終ってしまえばもう後は何とでもなれ、とペンを投げて40人で一斉に教室の天井へ伸びをする午後の教室。

 こういった細部を描くことは、まぎれもなく巧みさが必要な作業だとおもう。カポーティの文章は、ぼくたちの共感を掻き立てるような、生活の細かい経験に訴えかけるような文章に思える。それは彼の非常に鋭い洞察によるものであり、社交界の多様な経験によるものだろう。



 最近ずーっと考えているのは、「よい文章」について。僕が一生かけて書けるかどうかというものだと思うんですけど、それをどのように捉えるかということについて。

 三年前くらいに読んだ本の中にあった、カフカの言葉を思い出す。

「僕たちを切ったり刺したりする本だけを、僕たちは読むべきなんだ。良い文章っていうのは、凍った海に対する斧でなくてはならない」

 なんという巧みな比喩!安住しようとする心を貫くような、劇薬のような文章。それは大衆小説、エッセイ、純文学、官能小説、ルポ等のジャンルを問わず、自分にとって新しく、そして自分をある程度「傷つける」ものでないといけない。筋トレにおける筋損傷みたいに、ほどよく傷ついて強く、大きくなる。心もそれと同じ。

 ただ傷つけすぎるのも良くないとおもう。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』は悲劇的で救いのない物語であるがゆえに、同調した多感な青年たちが数多の命を散らした。文章で人は死ぬ。

 文章で、人は、死ぬ。その事実は裏を返せば、私たちはある程度文章の上で生きている。言葉の上に生きているがゆえに感情に名前を振って、制御しようとする。人を傷つけるのが良い文章であるならば、人を癒すものもまた良い文章であるべきではないか。

  しかしまだぼくの読書には、傷が足りない。自分の好きなもの、読みたいものを読んでいる。それはあるいは、自己満足の、完結的な読書かも知れない。自分の外に出ることは、いつだって勇気がいるし、傷を負う覚悟が必要だ。

 だからぼくはことばの巨大な海のなかで、襟を開いて、祈ってみる。「ぼくの心を抉ってくれ、貫いてくれ」と。