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要を蹴散らせ 2022年7月27日

家に猫がいる。紐状のものが好きで、家のそこかしこから何か見つけてはちょいちょい触って遊んでいる。ひな祭りの季節になると、雛人形たちが持っている色んな付属品をコロっと落として、それをずーっと追いかけている。

ある春の日、ついにお雛様の扇子を取られてしまった。小さくて、長い紐のついた美しい扇子。お人形は届かないように高めのところに置いていたのに。四つ足の跳躍力を完全になめていた。

なんとか回収に成功したけれど、肉球でもしゃもしゃといじられた扇子は飾りの紐が取れてしまっていた。長くて綺麗な紐。家に一つしか無いお雛様の扇子。直さないといけないなと思った。

「お雛様 扇子」と画像検索して出てきたものを参考に、がんばって結んでみた。

なんとか結べた。

よかった。

そう思った矢先。


本当に本当に、

なんでなのか自分でも分からないけど、

芍を束ねていた「要(カナメ)」の部分が気になって、

何となく、触ってみた。

そしたら、ポロって取れた。

要が取れた。

芍が散らばった。

バラバラになった。

ぜんぶバラバラになった。

終わった。



――当たり前だけど、扇子というのは「要」の部分が崩れたら終わり。要が全て。要が崩れるということは、芍をまとめていた部分が無くなると言うことで、全部がホダホダになって、蛇腹が砕ける。収拾がつかなくなる。直す前よりもひどいことにしてしまった。


結局、器用な母の手を借りてなんとか直してもらった。あぶなかった。


自分はそこそこ真面目な性格をしている……と思う。ただ、そんな自分のことを全く信用していない。謙遜でもなんでもない。まじで信用ならないのだ。

なぜならいつも「要」のところでやらかすから。

基本真面目でサボらないのに、最後の最後でやる。「この部分さえできれば大丈夫だから」と言われると、どうでもいいオマケみたいな部分を一つ残らず完璧に仕上げ、そして「この部分さえ」と言われたその肝心なところだけを、そこだけを選んだかのように、綺麗にやらかす。

「そのミスは流石にあり得ないでしょ」と自分で思うことでも、やるときは何でもやる。テストで名前の書き忘れを確認しなかったり、大切な申込用紙の郵送先の住所をぼーっと適当に入力したりする。たった今も、成績発表待ちのテストの中に名前を書いた記憶が無いものが一つあって、いらなかったはずの不安感を味わわなければならない状態になっている(多分書いたんだけど……くらいの不安感。こういうの一番やだ)。直さないといけないなと思う。

試験の大問1とか、本当に苦手だ。単語の暗記で済む、基本的な知識を問われるやつ。ただ覚えりゃいいだけなのに、「得点源だ!!皆の衆かかれ!!」と思って、そのプレッシャーでミスる。ただの勉強不足な気もする。



小学生の頃、クラスのみんなで初めてのパソコン体験として「名刺作り」をしていた時。あと少しで完成というところで、何故か先生のパソコンを間違えて触ってしまった。クラス全員のデータを吹っ飛ばした。


大学入試の時、試験開始と同時に、すぐ分かる問題が目に入った。夢中になってそれに取り掛かり始めた。自分にしては珍しく、集中のあまり周りが見えなくなっていた。そのまま時間が過ぎて、終了1分前まで名前と受験番号を書き忘れていた。あと1分終わるのが早かったら、通う大学が変わっていた。


そして今年の春、

扇子をうまいこと直した後、要の部分を壊して藻屑にした……



正直、上二つの話と比べれば、扇子なんて大したことない話だ。でも要がポロッと取れた瞬間、扇子がビロビロになったその刹那、それが何というか、自分の今までの人生の象徴という感じがして、芋づる式に色んなことを思い出した。

大体、事前に想像しうるミスなんて起こらないもんなのだ。ケアレスミスという概念自体が、そういうものだと思う。安全確認だと言って東西南北をチェックすれば、災いは北東や南西からやってくる。もっと念入りにと、東西南北から北東北西南東南西までチェックすると、今度は北北東あたりからやってくる。想像しうるミスは対策が出来るけれど、事前チェックで思いが寄らなかったら、それはもうどうしようもない。自分が人間である限り、どう頑張ってもバグとはいつも隣り合わせだ。トラップは想像の斜め上に。やらかしはいつも突然に。


大学入試での名前の書き忘れのこと……あれ、本当にやらかしていたら一週間くらいは発狂していただろうなーとぼんやり思う。

でも、それで大学が変わっていたとしたら、それもまた人生って感じだ。と、思わないでもない。ここまで書いておいてなんだけど、要が崩れる瞬間って、運命がグラッと揺れ動くのを感じられるから、少し楽しいと思っている。やらかして数日は「何が運命だ!冗談じゃない!」と人並みに青ざめるけど、青ざめる姿すら俯瞰的に見ている自分がいるのも事実で、振り返れば、やっぱりただただ面白い。

あのミスが無かったから今の大学に入って、今の友達と出会えた。それは言い換えれば、ここじゃない環境にあったはずの出会いを捨ててきたということでもある。毎日何かをやらかすたびに、何かを捨てたような、何かを拾ったような気持ちがする。何処に行き着いても何かしらの出会いがあるんなら、「じゃあもう、いいじゃないそれで」と感じる。

とはいえ、特定の環境への配属を目指して時間と労力を費やして頑張るわけだから、実際は「いいじゃないそれで」なんてお気楽に考えられる話でも無い。そう考えると、一週間どころか一か月くらい発狂してたかもしれない(真面目だから)。


結論。やらかすのって面白い。これまでに頑張ってきたデータや勉強が、想像だにしないミスで吹っ飛ぶ。それが偶々要だったせいで、ドミノ倒しのように全てが吹っ飛ぶ。青ざめるし絶望する。絶望しながら、なんか、もう面白いしいいやと思う。そう思うしか無いし、やらかしに気づいた瞬間、「人生!!!!!😆」って感じがするから。


取り敢えず次からは「先に名前を書く」「名前を書いたら指差し確認する」というのを忘れないようにしようと思います。

「人生!!!!!😆」ってならないように。


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