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宙ぶらりん相談会 2022年12月27日

「教科書」の話。

学校で使われる教科用図書、通称「教科書」。欧米におけるこれは、日本と違ってレンタルが主流だそうだ。つまり書き込みが出来ない。自分の後も色んな人が使うものだから、汚してはいけないのだという。重要単語にマーカーを引くとか歴史上の人物にヒゲを書くとかはしちゃいけないのだ。私はこれを、大学の授業で習うまで知らなかった。

それで何が言いたいかというと、「教科書への落書き」というものが、実は日本独自のあるあるだったと気づいたのだ。「先生の話が退屈だと、教科書に落書きしたよね~」が、日本以外では通じないなんて。ヒゲ描くとか顔写真に体生やすとか、そういう自分がこれまで当たり前にやっていた事は、実はとても希少な文化だったのだ。そう考えると、ただの落書きが、国民の芸術性を育む基盤となりうる何かすごく大切な事だったような気がしてくる。ザビエルの顎に点を二つ書いてペンギンを生み出したことがあるかどうか。それは子供の発想力を左右する重要な問題だったのではなかろうか。


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久々の投稿、教科書の話だけで終わるのが惜しいので、近況。

〈12月15日の日記〉

良くしてくださっている大学の先生と話した。何の話をというわけでもない。何となく喋りたいなーと思って。本当、忙しいのに、何でもない雑談だったのに一時間ぐらい一緒に話してもらった。結果、ほぼほぼカウンセリングみたいになって、終始つかみどころの無い相談会という感じだった。本当にありがとうございました。詳細はさておき、そこで考えたこと。

ここ数ヶ月、「去年、自分にしては頑張ったから」というのを理由に、かなりふわふわとした頭で生きていた。授業は春学期の半分も聞いていないし(聞いていないというか、頭に入ってこない)、友達と話しても何となくぼーっとしてしまうし、来年度が学生最後の年だっていうのに、学校の先生になるのか就活をするのかすら決められず、「何も気が向かないな」と、ただそれだけを思い続けていた。そんな自分がいる一方で、回りの人達は時期的にも就活の準備を進めたり、教員採用試験の勉強を始めていたりする。周りのやる気に能力に、押しつぶされそうで仕方ない。

さっき「去年、自分にしては頑張った」と書いた。

去年まで、何なら今年の春学期までの私は、与えられた課題を素直にこなし続ける、そこそこ真面目で意欲的な学生だった。最初の二年間、私の大学生活はこの上なく充実し、類は友を何とやらで、今いる友達にも、学問に対して真面目で意欲的な人が多い。未だに世間で言われている「大学は人生の夏休み」なんて、全く言わせる隙が無いくらい、私たちは本当に毎日、課題と実習とゼミと趣味と、色んなものに全力で向き合って、超ハッピーに過ごしていたのだ。それで今に至る。いろんな事が重なって心が忙しく、大好きだった皆んなの真面目さに、心理的にも体力的にも全くついていけなくなってしまった。

今月になってから、いよいよこのままではまずいと思えるようになって、復活しなきゃと思って、それで先生と話そうと思った。沈んだ気持ちを奮い立たせようとすることが必ずしも良いことだとは思わないけれど、今の自分としては、復活しなきゃと思えるだけの余裕が生まれたということなんじゃないかと前向きに捉えている。とにかく先生と話した。先生に話した。そこでもらった言葉が、こんなのだった。

「話、聞いてる感じだとね、」

「今のあなたは考えるより流されてた方がいいと思うよ」

「気力無いなりにキャリアセンターとか行ってみれば〜。やる気なくてもいいんだよ〜」


温かい。なんて温かい言葉なの。春先の日に当たった猫みたい。結構難しい授業をする先生なので学科内ではビビっている人が多いそうだが、否と言いたい。先生はやさしい。何なら私がお世話になってきた教授陣の中で、全く怖くないと思えるのは今のところこの先生だけだ。別れ際にそれを伝えたら「あなたもあなたでなかなかにおかしい」みたいなことを言われた。


「考えるより流されてた方がいい」


流されてていいんだ。
そこ、いいよって、言ってもらえるんだ。肯定してもらえるんだと思って、言われた瞬間、全身の力が抜けてしまった。


ずっと、何も考えられない自分に焦っていた。この日の先生とのやりとりの中で、そもそも何に焦っているのかすら分かっていなかったんだと気が付いた。それだけでも大きな一歩だった気がする。何が不安なのか気が付くだけで、不安って結構減るんだなと思った。




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