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人生についての圧倒的な楽観と悲観

そこに狂おしいほどに赤々と光るリンゴがある。それはそれは見たことのない程に美しく輝いていたので、手に取ってみた。しかし持ち上げてみると、そのリンゴの底はそひどく醜く腐っていて、到底食べるに値しなかった。そっとそのリンゴを置くと、そのリンゴに手を伸ばして貪り尽くす人がいた。腐っているリンゴを貪り尽くす人がいた。意味が分からなかった。

「この前さ、ディズニー行ってきたんだ!」
と言うと、
「誰と行ったの?」
と返ってくる。ろきちゃんは意味深なイタズラ顔で、
「そんなことを聞くのは野暮じゃないか」
と返す。ややもあって、男友達とふたりで行ったことがバレると、途端にろきちゃんの話し相手は興味をなくす。え、ろきちゃん腐ったリンゴ食べてたの?ろきちゃんはすごく楽しい話をしてるのに…。

ディズニーは、カップルや家族で行くものであり、少なくとも男友達ふたりで行くものではないそうな(実際にそのマッチングは滅多に見ない)。男ふたりで行くディズニーはとても美味しそうに見えるのに、実際には腐っているリンゴと同じだそうだ。いや、そんなこと分かっている。分かってる一方で、男友達ふたりで行くディズニーと言っても、やっぱり楽しい。カップルで行くディズニーも、男女入り混じった6人ぐらいのグループで行くディズニーも知らないろきちゃんにとっては、男友達とふたりで行くディズニーは至高すぎてギリギリで鼻血が出ない。本当に楽しくてしょうがないのだ。

しかし、そんな大はしゃぎはろきちゃん側の都合。カップルで行くディズニーも男女入り混じった6人ぐらいのグループで行くディズニーも知っている人からしてみたら、男ふたりで行くディズニーの良さなど、とっくに通り越していっているのだろう。ろきちゃんたちがこんなに大事にしているものを、彼らはなんとも悲しげな遠目で眺めている、気がする。

経験したことのないものについての想像力は非常に貧しい。時に、想像力が働かないだけで腐ったリンゴ以上に嫌悪感を抱いてしまう。それは、めちゃくちゃに美味しいモノに違いないのに。

どう生きようが自由であり、この世界には自由が溢れているかのような、無限の選択肢があるかのような錯覚がある。確かに自由はろきちゃんたちの生活を包み込んでいる。しかし、その選択の幅は初めからうんと小さくなっている。今までの自分がこれからの自分にバイアスをかけているんだ。アレは絶対にやらない、コレは絶対にやらない、と。なんと勿体無い。飛び込んで仕舞えば良いのに。新しいことをすることがどんどん億劫に。自由は極めて制約されている。

ろきちゃんは腐ったリンゴを食べている。赤々と光る完全体のリンゴの美味しさを知らないろきちゃんは、延々と腐ったリンゴを食べ続けるのか。

ろきちゃんはまだ、完全体のリンゴを食べる人たちの意味が分からない。

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