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受験の確率

「確率」って、意外と凄い。らしい。たかが2人じゃんけんでも、何百回何千回と続ければ勝率は、確かに50%に近似する、らしい。そこまでやる人はいないと思うが。

世界は確率に支配されている。いや、ろきちゃんたちの行動は確率に支配されている。例えば朝、傘を持って行くかどうかの行動は天気予報の確率に支配されている。過去、何十年の気圧配置のデータから、似たような気候データから、天候を推測する。過去いくつの事例中何個の事例が晴れだった、みたいな。

そんな訳で、行動のひとつひとつに、ろきちゃんたちはそれなりの確率を当てはめて、決断している。高校の頃に数学で習った「確率」の原理は、そういう意味では、高校の勉強の割には役に立っている。いや、案外と高校の勉強は日常に還元できるのかも知れぬ。思考をぐりぐり動かさないうちに、価値判断を下すこと程危険なことはない。

受験は、確率で雁字搦めになってしまう。模試を受ける度に、A判定、B判定、C判定、D判定、E判定に分類される。それぞれ、合格確率を基にして分類される。80%以上とか、20%以下と。君はA判定だから大丈夫だ。君はE判定だからやめた方がいい。そんな感じで。共通テスト(ろきちゃんらの頃はセンター試験)を受けた後ですら、確率が受験生に降りかかる。何故ならそれを概観した上で、出願しなければいけないのだから。

いやしかし、「確率」とは何だったか。確か…同じ条件の下で試行を極めて大きな回数繰り返したときに、事象が起こるもっともらしさ、とかって言えるのではないだろうか。そうである時、受験の合格確率なんぞは果たしてアテになるのだろうか。今年の入試はたった一回きり。何回も何回も同じ条件下で試行を繰り返すことなど到底できやしない。その一回の結果を今の実力から測ろうとか、そもそもナンセンスではなかろうか。受験において確率なんぞは通用しない。少年たちよ、博打を仕掛けるなら今だ。

きっと、不確実な未来を、不確定要素を多分に含んだ未来を、今ある微かな情報から推測して可視化しようとした人類の進化のひとつが、合格確率及び合格判定なのだろう。それは、確かに人類が打ち立てた立派な利器であり、将来にかけて、もっともっと精度の高い道具に進化していくだろう。しかし、ろきちゃんには、確率という道具が、見えないものを無理に形にして、人間の可能性を、若さ溢れる青春の1ページを、狭める危険性のある劇物にしか見えない。我々は良くも悪くも確率に支配されている。でも、どこまでいったって確率は、何回も試行重ねた場合のもっともらしさに過ぎない。そんなものに身を預けるには、受験は博打すぎる。

信じてほしい、ここまでやってきた自分の道のりを。信じてほしい、恥ずかしくなるほどに青臭い、大の大人たちが唄ってきた数々の歌詞を。信じてほしい、確率以外の、もっとも近代的ではないものを。

戦いは次から次へと。桜サク。頑張れ受験生

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