春に巣食う希望は眩しすぎる

春、だった。まだ5月に差し掛かってもいないというのに、夏かと思うほどに暑い日がある。桜の下が賑わっている、そんな風景を見たのは何年振りだったか。今振り返ると、誰にも歓迎されていない、そんな桜を見ることにすら少し望郷に感じてしまう。それ程に、ここ何年かはろきちゃんたちの生活を変えてしまった。

大学のキャンパスがキャンパスとして機能できているのも懐かしい。新入生で溢れかえるキャンパス、新入生で溢れかえる学生街。彼らの目に溢れる希望が眩しい。受験という終わりの見えそうにない戦争を戦い抜き、彼らは今、あらゆることを以て自分に彩りを加えようとしている。

そして、街にはろきちゃんよりも年齢も学年も下の社会人が、新年度の開始とともに出現していた。ろきちゃんよりも年下が社会人として、大卒新卒として働いていると思うと、いよいよろきちゃんの情けなさは深刻だ。これは、そうだ。甲子園に出ている子たちが年下であることに気づいた時ぶりだ。まだ、少しだけ年下の社会人が年上に見える。それ程までにろきちゃんが社会に対して未だ無貢献である、というその対称性。頭抱えて叫び出すか、走り出してしまいたくなる。彼らの目には何が映っているのか、ろきちゃんにはそれが希望に見えてしょうがない。万事が天国な訳がない。訳がないけど、生き辛さは青春を演出する。生き辛さ反転、青春真っ盛り。

にしても、新社会人と新入生は一目で分かってしまうものだ。それは、真新しいスーツも、着慣れていない私服も、着る人を選ばないからだろう。ろきちゃんが持ってるコムデギャルソンのスーツケース(スーツケースだけで中身は洋服の青山だ)ごときは、ろきちゃんを排除するくせに、彼らの着る真新しいスーツと着慣れない私服は、誰にだって相応しい。

そんな初々しさに身を染め上げた彼らのうち少なくとも半分くらいはもう半年もすれば、すっかり社会に慣れ腐り、敵意もないのに他人の気分を害するような量産型人間になってしまうことだろう。あの頃の志はすっかり忘れ去り、「楽」が行動基準の核を支配する様になる。そして、最もらしい言葉で口を汚し始め、ダサい音楽ばかり聴く様になる。真実が何かを見抜くことを放棄し、自分の経験から共感できるものだけに賛同する様になる。あの頃の、受験戦争を、就活戦線を勝ち抜いた時のカッコ良さなんかは見る影も無くなってしまうのだろう。悲しいかな。

いやしかし、桜が美しいのは一瞬。刹那に咲き誇るから美しい。そんな姿にオーバーラッピングしたい。半年もしなくても、桜が散る頃には既にカッコ良さは身を潜めているのか。

そう考えると、なんとも恋しくてしょうがない4月だったと思う。

ただただ希望に溢れているだけの春に、ろきちゃんは耐えることができなかったであろう。しかし、その先には見るにも及ばぬ希望の残骸が横たわっていることを妄想すれば、なんとか立っていられた。そんな春だった。

春に巣食う希望は、まさしく眩しい。それと同時に悪魔でもあった。

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