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我々という存在を規定するのは、我々が持つ不可能性である

最近、自分の愛しくも目を背けたくもある性格が如実に顕在していたので、戒めと労いを送るために書いていく。あと思考整理。

私には、「常に次のステージへのステップアップを求め続ける」という性格がある。これが頼もしくもあり、厄介である。この性格ゆえに、常に自分の将来を見据えた計画を立て、行動をとってしまう。

良く言えば好奇心旺盛・向上心がある。悪く言えば飽き性。

わかりやすい行動例を挙げると、就活で内定を獲得した直後から次のキャリアプランを見据え始めていた。そして、そのために必要な資格の勉強を始めていた。まだ目の前の内定企業で働いてすらいないのに。

もちろん、先のことを考えて行動できるのはいいことではある。プラスに働くことの方が多い。

  • 貯金体質であり、新卒1年目で200万ほど貯まった

  • コツコツと努力を続けることができる

  • 大きな目標に対して、柔軟な計画で達成できる

などなど、いいことがたくさんあった。これからもあると思う。

しかし、度が過ぎると目の前の現実を蔑ろにしてしまい、ストレスをためてしまう。中途半端な現実になってしまう。

以下の記事で書いた「人生で一番堕ちた話」もこの性格が原因である。将来のためにあれこれと行動し、詰め込み、今という時間を切り捨て、そして爆発した。

常に先を見据え、将来の自分と現在の自分を比較する。自分の可能性に浸って酔いしれる。そしてその希望に向かって行動もする。しかし、現在の自分にはあれこれ制限をかけている。

詳しくは書かないが、ここ数か月もそんな生活を送っていた。そして、「あ、これはまずいな」と思って少し引き返している最中。そして戒めの本記事執筆に至る。備忘録でもある。前は人生で一番堕ちたけど、今回は浅めの傷で立ち直れそう。大丈夫、ちゃんと成長してる。

今後人生において、私は思い描いた自分になったとしても、そこからまた新たな目標を探して設定する。そして、そこに向かって歩みを続けると思う。

実際、今は小さい頃の夢だった仕事をしている。ありがたいことに。「この仕事に就きたいな、だとしたらこの会社だな」と思い描いた会社で働いている。それなのに、現状に飽き足らず「次はどのような道へ進んでいこうか」と考えている。自分のさらなる可能性に浸って幸福を感じ、それを原動力として進んでいこうとする。

1つ厄介なのは、この性格が承認欲求を起因としているわけではないということ。私はSNSをやっていない。このnoteだけ。他人への嫉妬は驚くほどない。あるとすれば、将来の自分への嫉妬。

ただただ目の前の人生階段を昇りたいのだ。「より高い段にいること」に幸せを感じるのではなく、「段を昇ること」に幸せを感じるのだ。

このような生き方だと、大きな失敗はしないが、幸福の追求には程遠い人生となってしまうのではないだろうかと、ふと怖くなった。無いものに目を向けて幸せを探し求めるのではなく、今の自分を愛していきたい。

・・・と、ここまでを思考整理して書いてから思った。

「あれ、これ前と全く同じ結論じゃね?」

上で紹介した「人生で一番堕ちた経験」の記事でも、同じことを結論の1つとして言っている。「ありのままの自分を愛そう!そのままでいいよ!」って。やってること同じじゃん。

えー、まじかあ。成長したと思っていたのに、同じこと繰り返してるじゃん・・・。困ったな。

そして改めて考えた。その結果が以下。

「ありのままの自分」に「上昇を求め続ける自分」が含まれていなかったのかもしれない。上昇志向を戒めの対象としている時点で、ありのままの自分を愛していないのかもしれないな。条件付きの肯定となっている。

つまり、私にとっての「自分を愛すること」とは、「成長しなくても大丈夫だよ!そのままでいいんだよ」と自身の横に立って背中に手を添えるのではなく、「ほら、お前は進むしかねえんだよ、覚悟持って走れ!失敗して傷つくこともあるだろうけど、そこを含めてお前なんだから受け入れろ!」と自身のケツを叩くことなのかもしれない。

これが新たな結論。そしてこの記事はここまで。

殴り書きで内容が支離滅裂となってしまいましたが、ご覧いただきありがとうございました。

タイトルは四畳半神話大系の一節から。前回の堕ちた自分にぴったりの好きな言葉です。

しかし、今の自分なら「とは言うものの、可能性の存在によって初めて不可能性は定義されるよ」とも付け加えます。まだ見ぬ自分を信じて走り続けたいですね。自分の場合、それが何よりの自己肯定のようです。

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