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恥は誰が為の感情か

およそ2年前ほどから不思議に思っていたことがある。「恥ずかしい」という感情がどうして我々人間に備えられているのかということ。

喜怒哀楽を感じるのは、その先の目的を考えれば自然なことである。怒れなければ生存競争ができないし、戦うこともままならない。哀しめなければ愛なんて存在しないし、感動することもできない。

喜怒哀楽、妬み、嫉み、苦しみ。これらの感情は集団生活を営むにおいて必要不可欠だと思うし、悟りでも開かなければこれらを捨て去ることはできない。初めから持って生まれてこなければ、さぞかし不幸な人生を歩むことになるだろう。

私は緊張にめっぽう弱い人間である。そりゃあ甘やかされて育ってきたからだとか、世の中を経験していなさ過ぎるだとか、責任はいくらでも私に帰することができるだろう。しかしいくら何でもたかが一回の英語の授業で5分程度発表するだけのことにガチガチに緊張してしまえば、生物備え付けのシステムそのものに文句を言いたくなるのもまた同情してもらえないだろうか。

緊張そのものの存在理由は分かっているつもりだ。交感神経が活性化されて、脈動が速くなり、血の気が引いて、冷たい手汗がにじみだす。あれは体が臨戦態勢に入っているのだと聞いた。しかし、私たちが緊張するときにその引き金となっている感情「恥」だけは、別に生物的にも必要ないではなかろうか。

青二才の単なる恨み言に過ぎないのは重々承知であるが、同時に率直な疑問でもあるのだ。

私は外国で暮らしたことなどただの一度もないが、もしかすると恥を大きく感じるのは日本特有の文化なのかもしれないなどと推察してみる。我々の社会において、一人前の大人になるには、恥を乗り越え、乗りこなすことが必修科目なのだろう。大人とは何か、19歳にして未だ5分も分からない。

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