「古典的名著とかって、読んでなんか意味あるんすかぁ?」という質問に答える

前回は、ある書籍が古典的名著=その文明なり社会なりの基盤となっている価値観が述べられている書籍となる過程について説明した。
また、その社会がほかの社会に飲み込まれてしまったり自壊してしまったりする有様についても説明した。

さて、今回のお題。
なぜ古典的名著を読むのか。

軽く復習してみよう。

ある価値観が書籍という形で語られ、それがある社会の基盤となる価値観となり、それに基づいてその社会の枠組みが出来上がる。
そうすると、そのもともとの書籍の方は忘れ去られて、ダイジェスト版が教科書として使われるようになり、元ネタは忘れ去られる。
そのうち、ダイジェスト版の内容すら知らなくてもちゃんとやっていける程度にまで世の中が安定するようになる。

だから、「なんか意味あるんすかぁ?」という質問が出てくるのだ。

しかし、現在の世の中がそんなに安定しているのであろうか? そこまで安定はしていない。揺らいでいる。揺らぎ切ったわけではない。まだまだそこそこ安定してはいる。しかし、そこまで安定しているわけではない。微妙なところだ。

価値観ということで言えば、明治以降日本は必死で近代化≒西洋化につとめてきて、それは大体達成されたといっていい。しかし、本家本元の西洋の方から近代の限界が叫ばれるようになり、日本でも同様の状況だ。

実際のところどうなのか? 近代は本当に限界が来ているのか? 近代はまだまだやれるのか? もし仮に限界だとしたら、次にはどんな価値観が来るのか? 近代の枠組みの中で、次の枠組みの中でも使えるもの、使えないものは何なのか?

そういうことを考えるにあたって、ひとまず近代とは何か、近代の基盤となっている価値観とは何か、それにかわる価値観はあるのかどうか、といったことを確認せねばなるまい。

そういう意味で、まず自分が今いる近代という社会の基盤となっている古典的名著を読んでみることはそれなりに価値があるだろうし、ほかの社会の枠組みとなっている古典的名著も比較対象として読んだり、次の枠組みがどんなものであるのか模索したりといった具合に、学ぶ意味はあると思う。

さて次回は、古典として読み継がれてきた本を自分の目で読み直すことの意義や姿勢、方法について考えてみたい。



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