見出し画像

公教育の目的と教師の権威について

公教育の目的と教師の権威が果たす役割

公教育の主たる目的は子どもたちの公的な領域へのアクセシビリティを育むことである。

公的な領域とは、①人間の複数性に支えられて成立する②諸々の実践の体系である。この領域の豊かさは個人の生と社会の豊かさに直結するものであり、教育が公的な性格を帯びるとすればそれはこの豊かさをつくり出し、享受する主体の育成を目指すものであるといえるだろう。

公的な領域へのアクセスは、権威的な存在による導きを必要とする。

第一に、公的な領域は、多様な人々の意見や実践が叡智として蓄積された探究の空間である。探究とは、それをやってみるまではそれがどのようなものであるのかが決してわからないものである。したがって、まずはその領域に精通した権威的な存在のもとで指示された通りに実行してみること、その結果として得られた経験の意味を共に振り返り、理解につなげていくことが必要となる。公的な領域における学びは、決して一人では行うことができず、必ず自分よりもその方面において絶対的に優越した存在からの導きを必要とするのである。(注1)

第二に、公的な領域は互いに対等な個人で形成され、意見の多様性そのものが尊重される空間であるが、そうした空間は子どもたちを集めれば自然に形成されるようなものではない。民主的なコミュニケーションとは学ばれるものであり、意識的な教育の結果としてはじめて可能になるものであるからである。

そうしたコミュニケーションを学ばないうちに形成される集団においては、個人は集団の圧力に屈するほかはない。子どもたちの集団にしばしば見られるいじめやスクールカーストなどの排他的なふるまいは、民主的なコミュニケーションが学ばれなかったことの結果として多数者による暴政に場が支配されていることを示している。こうしたあり方は空気への同調を求め人間の複数性を否定するものであり、公的な領域のあり方の対極にあるものである。

したがって、公的な領域へのアクセスは、民主的な社会のありようを熟知・体現した大人による導きが必要である。私たちが共に生きる空間が弱肉強食の論理ではなく共生の論理で運営されること、あるいは、誰もがそのなかで対等に扱われるべきであるという考え方に正統性を与えるのは権威の存在なのである。

権威とは個人を抑圧するものであるとしばしば誤解されているが、本来、権威とは、その場にいる人々に平等性・対等性を担保する存在である。暴力を行使しなければ秩序を保てないという考え方はすでに権威が無効化した空間においてはじめて生まれるものであり、そうした不健全な権威主義は本来の権威とは何ら関係がないということを理解する必要がある。

不健全な権威主義

教師の権威が以上のような意味で理解され、行使されている限り、それは決して否定されるべきものではなく、むしろ必要なものである。

しかし、権威の意味を履き違え、それを不適切な形で行使することによって公教育の役割から大きく逸脱した指導を行ってしまうということが多くの学校でむしろ一般化しているように思われる。

したがって、問題は、権威そのものの否定ではなく、健全な権威主義と不健全な権威主義を識別することである。

不健全な権威主義の第一の特徴は、ある特定の知識や技術を教えようとするときに、学習者の実感に基づかない頭ごなしの指導をしてしまうことである。ある特定の領域において学習者に質的に深い経験をもたらそうとすれば、その領域に習熟した者からの指示が不可欠であることはすでに述べた通りである。しかし、その指示があまりにも乱暴に行われたり、権威を盾にして児童・生徒の存在そのものを貶めたりする場合(「お前はそんなこともできないのか!」といったような)には、その教師は自らの権威を正しく用いることの責任を放棄していることになる。

教師は学習者の習熟に一定の責任を持つものであり、その責任には、学習者の理解に寄り添い、指示を実行した結果として得られた経験の意味を共に解釈しようとする丁寧な姿勢を持つことも含まれる。こうした努力をせず、権威を盾にふんぞり返っていてよい理由はどこにもないのである。

知識や技術は学習者の腑に落ちてはじめて習得されるのであり、ただ知識として暗記させたり適切なリフレクションを促すことをせずに有無を言わせず特定の行為を強いたりすることは教師の怠慢に他ならないのである。

不健全な権威主義の第二の特徴は、集団に対して暴政的に振る舞うことにある。民主主義の理念を体現し、その場にいる者すべてに公正さを保障する存在として児童・生徒の前に立つことが、本来、教師に求められる権威のあり方であったはずである。しかし、児童・生徒の複数性を否定し、全てを教師の視点に同一化させようとする独裁的なふるまいが教師に許された権威の行使であると誤って解釈されてしまうのである。こうした認識から導かれる教室内のコミュニケーションは、教師からの一方的な指示ないし命令であり、子どもたちが自らの声を発することは決して許されない。あらゆるコミュニケーションは子どもたちの「間で」ではなく、彼らの「前で」展開される。この時子どもたちに求められるのは大衆的忠誠であり、公的空間を構成する主体として在ることではない。

不健全な反権威主義

以上のような誤った権威のあり方が一般化してしまっているために、権威主義はリベラルな教育の研究者・実践者からの評判が悪い。

しかし、そのような反権威主義者は、問題なのは不健全な権威主義であり権威そのものではないという理解を欠いているために、また別の問題を引き起こしてしまう。すなわち、権威を手放すことによって子どもたちを公的な領域へ導くという使命を放棄してしまうのである。

これは、アーレントが『過去と未来の間』のなかで指摘しているポイントである。

「公的な空間」への参入に備えさせることが学校の役割であるとすれば、教師の重要な役割として、次の点を挙げることができる。一つは、子どもたちがこの「世界」の叡智に触れることを通して、世界の奥深さを学び、そうした叡智の担い手として世界に参入することを志すことができるような学習の機会を提供することである。そうした役割が明確に教師によって意識されていれば、教育は、この世界において「美的、知的、倫理的な重荷」(水村美苗)を背負うことのできる個人の育成を可能にするだろう。

しかし、現在の我々の社会の平均的な教育観は、将来の我が子の経済的成功のために、いかに効率的に知識を詰め込み、受験学力を高めるかということに関心を持つ。その結果、教師に求められる専門性は、特定の領域の叡智にアクセスし、そこではじめて出会うことのできる「質」の経験を子どもたちに垣間見せることにあるのではなく、特定の知識を効率的に教えることのできる「うまい教え方」にあると考えられるようになってしまった。アーレントは、すでに彼女が生きた時代のアメリカの教育にその兆候を見て取っていた。アーレントは言う。

教師が身につけるべき技能は教え方であって、特定の専門科目に習熟していることではないと考えられた。(中略)この態度はここ数十年、とりわけ公立のハイ・スクールにおいて、教師が自分の専門科目に習熟する努めを目に余るほど蔑ろにする結果を生み出している。教師は自分の専門科目を知る必要がないため、授業の始まる一時間ほど前に知識を詰め込むことなどめずらしくもない。このことは翻って、生徒は実際には放置されていることを意味するだけでなく、教師の最も正統な源となっているもの――つまりどんな方面であれ生徒よりも知識があり、生徒自身が為しうる以上のことができる人物である――がすでに効力を喪失していることを意味する。

ハンナ・アーレント『過去と未来の間』引田隆也・齋藤純一訳(みすず書房)

つまり、教師自身が「美的、知的、倫理的な重荷」を担うことをやめてしまったのである。

こうして、教師が「世界」を代表することができないとき、子どもたちの学習から「質」の経験が失われる。代わりに「次のテストで高い点数を取ること」という「量」的な尺度だけが重視される。このことは、子どもの側に著しい学習意欲の減退を引き起こすばかりでなく、子どもたちの「世界」に対する興味を失わせてしまう。「世界」に参入し、自らの専門性を高めることによって「世界」のなかで自分がある位置を占めることの歓び――もっと単純に言えば「一人ではできなかったことができるようになること」の歓びは、教育がもたらす経験のうちでも最上のものであり、それは「世界」のなかで共に学ぶことを通してしか得られない種類の経験である。しかし、現在の学校教育においては、そうした経験の重要性は無視されているとまでは言わないまでも、軽視されていることは確かである。

教師の役割のもう一つの重要な側面は、学校での生活を通して、子どもたちが民主主義の理念を学び、公的な空間を協同してつくり上げる経験を積むことで「公的幸福」を実感することができるような場を提供することである。

ただし、この「世界」の構成に関わることの疑似的な経験が成り立つためには、いくつかの条件が満たされねばならない。まず、アーレントが指摘しているように、公的な世界の構成に関わる人々は互いに対等の存在でなくてはならないというのがそれである。そこに上下の関係がある場合には、人間の複数性は尊重されず、その分、世界の豊かさは損なわれる。そして、人々が対等な存在として見做されるためには権威が必要である。

ここで注意すべきことは、そのように対等な関係からなる公的な空間は、その構成を子どもたちに委ねれば自然と成立するものではないということである。公的な空間は所与のものとして人間に与えられたわけではなく、自然状態からひとりでに導かれるものでもないからだ。ということは、「公的な空間の構成」それ自体が、教育の目標として目指され、実践される必要があるということである。

ところが、現代の教育においては、このような認識を妨げる考え方が広く共有され、マジョリティを形成している。

伝統的な教育観に立つ教師にとっては、教育とは子どもを管理することであり、子どもたちに公的な空間を構成する力があるなどとははじめから信じられてはいない。そして、それが教育可能なものであることも同時に信じてはいない。したがって、そうした空間が子どもたち自身によって築かれることは教育の目標となり得ない。

一方、進歩的な教育観に立つ場合にも、子どもたちの公的な空間への参入の道は閉ざされている。というのも、この教育観は、子どもたちの自由を重んじるあまり、教師が子どもたちの「世界の構成」に介入することを躊躇わせる傾向があるからである。アーレントによれば、この教育観は「子供には子供の世界と社会が存在しており、これらは自立しており、したがって子供の世界や社会はできるかぎり子供自身に任せなければならないとする」ものである。つまり、「子供の一人一人に何を為すべきであり、何を為すべきでないかを命ずる権威は、子供の集団そのもののうちにある」。

そのように子どもだけで自立した世界というものを想定することは、現実の世界に対する見方を大きく歪めてしまう。

子供と大人の現実のまた正常な関係は、あらゆる年齢の人びとがつねに、同時かつ共に、世界に存在するという事実から生じるのだが、この正常な関係は、子供の世界と大人の世界が分離するため断たれてしまう。

ハンナ・アーレント『過去と未来の間』引田隆也・齋藤純一訳(みすず書房)

こうして、子どもの世界の自立性を過度に尊重するこの教育の立場は、現実の世界に子どもたちを招き入れる教師の責任を放棄し、子どもたちの中だけで閉じた世界を構成することを黙認してしまう。

しかし、アーレントによれば、そのように子どもたちだけで構成された世界には、公的空間の条件としての対等な関係や、本当の意味での自由の実感は決して生まれ得ない。

集団内の子供に関していえば、もちろん(後藤註:教師が権威を行使していた)以前の状態よりもかなり悪くなっている。集団の権威は、たとえ子供の集団であろうと、一個人が手にしうる最も情け容赦のない権威よりもはるかに強力で、いっそう暴政的なのがつねだからである。一人一人の子供の立場からこのことを見てみると、かれが反抗するチャンス、あるいは自分の裁量で何かをするチャンスは、実際には皆無である。なるほど子供は、かれに対して絶対的優越性を誇る人物とのまったく不平等な競争はもはや免れている。だがその代わりに、子供は自分と同類のほかの子供たちとの連帯に頼りながらも、かれらと競争する境遇におかれる。つまり、子供は、自分以外の全員からなる絶対的多数と相対する一人の少数という、まったく絶望的な立場にある(中略)したがって、子供は大人の権威から解放されて自由になったわけではなく、それにもまして恐るべき真に暴政的な権威、つまり多数の暴政に服従させられたのである。いずれにしても、その結果、子供は成人の世界からいわば追放されたのである

ハンナ・アーレント『過去と未来の間』引田隆也・齋藤純一訳(みすず書房)

要するに、教師は「世界」のあり方を示す権威を失っており、子どもたちに「世界」の構成を委ねるが、その結果、子どもたちが学校において直面するのは「多数者の暴政」に晒された世界なのである。

アーレントのこの洞察を日本の教育の現状に当てはめて考えるなら、何が見えてくるだろうか。

すでに指摘したように、教師は子どもを世界に導くための権威を、二重の意味で失っている。一つは、教師の自らの専門性を発揮して生徒に世界の奥深さを示すことができなくなっているという意味においてである。代わりに、教師の役割は「我が子中心主義」的な親のニーズを満たすために、効率的に教科の知識を教え込むことに変質してしまった。

ここから、もう一つの権威の喪失が引き起こされる。「我が子中心主義的」な学力の向上が教育の第一義とされてしまうことにより、私的な利益を超えて「公的な空間」を構成することの幸福を実感する機会を、学校は子どもに提供することができなくなってしまう。そこで、教師は、子どもの世界の構成を子どもたちに委ねる。子どもたちも、学校がもはや「世界」を経験するための場所ではありえず、自らがつねに学力で順位づけられる存在であるということに気付いているため、多くの子どもは、そうした世界に背を向けて、子どもたちだけの世界に安住の地を見出そうとする。なぜなら、学力という単一の物差しで比較された場合に幸福を感じることができるのは、つねに少数の勝者でしかないからであり、つねにそのように他者との比較に晒されることは、強いストレスを生むからである。子どもたちは、学力の面で、つまりは将来の経済的成功に対する見込みという側面のみで評価され、順位付けされることの息苦しさから逃れるかのように、彼ら自身の世界でだけ通用するまた別の階層をクラス内に作り上げる(スクールカースト)。ある順位付けから逃れることができたとしても、また別の順位付けが現れ、彼らは学校において本当の意味で心休まるということがない。テストで順位づけられ、部活で順位づけられ、流行への敏感さやユーモアの高さなどの、日常生活における彼らの一挙手一投足が順位付けの階層システムに組み込まれてしまうからだ。まるで、そうした階層のなかで他者を押しのけ自分が上昇することが、この世界で生きることの意味であるとでもいうかのように。

アーレントが指摘するように、こうした空間で過ごすことに人間は耐えることができない。こうして子どもたちは、学校において公的な空間を形づくり、その空間の構成員であることの歓びを知ることなく、彼らの目には、公的な空間はむしろ個性を抑圧する不自由な場所として映ることになる。そして、子どもたちは、各々が自分を守り、落ち着いてそこで過ごすことのできる私的な領域に逃げ込み、引きこもることになる。不登校はその最たる例であるだろうし、学校に通う子どもたちも、それぞれが同質性の高いグループの中に溶け込むことによって、その小さな世界だけで得られる他者からの承認に甘んじている。しかし、それでは多様な人びとの関係によって成立する「世界」への参入の道は閉ざされてしまう。

かくして公教育は、その意義を喪失する。

それでは、私たちは何をするべきか

それでは私たちは何をするべきか。

教育者は、自らの権威をもって宣言しなくてはならない。
この場にいる全ての人の声を決して聞き逃してはならないことを。
そして、全身全霊で相手の声に耳を傾けることを。

これはたとえばアーノルド・ミンデルのディープ・デモクラシーの実践が意図していることでもあるだろう。ディープ・デモクラシーは、縦と横の二方向への民主化を図るものである。縦の方向においては、自分自身の感覚や感情とつながることが求められ、横の方向においては、そうして表明された各々の声が周縁化されることのないように、どんな小さな声も聞き逃すまいとする姿勢が求められる。

たとえば集団のなかで沈黙している子どもがいた場合、多くの日本の学校では「発言が得意でない子は無理に発言する必要はない」という言葉でその沈黙を放置してしまう。それは一見理解ある態度であるように思える。しかし、それはその沈黙に居場所を与えることとは少し違う。なぜなら、大人がそのように言うとき、それは「その集団において声を発することは決して安全ではない」ということを含意しているからである。そのような場においては個々の子どもたちが自分自身でいることは難しいし、その沈黙の奥にどのような感情が潜んでいるのか、どんな「声」が隠されているのかを当人や周りの人々が真剣に探究することは起こりようがない。そのようにして自分に対しても他人に対しても無関心な状態が維持されていることは、日本の若者の自己肯定感や他者への共感が低いことの大きな原因でもあるだろう。

このことを深く理解している教育者は、子どもたちが自分自身とつながることができるように、そして、互いの声を受け止め合うことができるように、社会的・情動的スキルのトレーニング(SEL)に意図して取り組む。

マインドフルネス、傾聴、NVC、パブリック・ナラティブ、ワールドワークなどの手法がそこでは意識的に活用される。これらの実践を積み重ね、人々がアウェアネスを高めることが、公的な世界のあり方を劇的に変える「革命」となるだろうとミンデルは語っているが、このことを全ての教育者が理解したならば、教育は確実に社会を変える大きな力を生むだろう。

ここで思い起こすのが、ミレニアムスクールの先生方のワークショップに参加した時の経験である。ミレニアムスクールの教員の一人がファシリテーターとなって「サークルメソッド」と呼ばれる対話を体験したのだが、サークルを構成する人たちは多くが初対面であったにも関わらず、その集団のなかには、ここでは自分をありのままに表現しても受け止めてもらえるという絶対的な安心感のようなものがあった。その集団的な感覚をつくり出していたのは間違いなくファシリテーターの存在であった。彼の話を聴く姿勢には全身全霊の真剣さがあり、その真剣さが、このように話し、聴くことこそが私たち皆を尊重する最良の方法なのだということを暗黙の裡に参加者に伝えていたのだ。

あのような佇まいこそが、公的な空間に人々を誘い、人間的な生のあり方を可能にする「権威」の表現なのだと思う。そして、その場にいる人は気づくのだ。そのように自然に従いたくなるような権威とは、それを体現する一個人のものではなく、先人たちが築き上げてきた「人間の空間」そのものから流れ出るものであり、それゆえ正統性の源泉となり得ているのだと。

そのようにして、この世界における「美的、知的、倫理的な重荷」を背負い続けることのできる教師こそが、私たちの社会には求められている。そして、教育に携わることの喜びもそこにあるのである。

(注1)ケン・ウィルバーは「すべての存在には等しく価値がある」という基底価値と、「すべての人は経験の質において異なる深さを持つ」という内在価値を明確に区別し、どちらの価値も重要であることを指摘した。ここで「優越」という言葉を用いるとき、それは内在価値を指すものであり基底価値を問題としているのではない。一方、公的空間における意見の対等性は基底価値に基づくものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?