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プルーストの描く内的時間について

プルーストは話が長々と脱線していく自らの癖について読者に弁明しているが、この脱線がなく、目標に向けて一直線に突き進むだけだったら、プルーストが『失われた時を求めて』のなかで描く「時間」は随分貧困なものになっていただろう。このうねうねした性質こそが、内的時間の本質だからである。

実際、この弁明のすぐ前で、プルーストは人の名前を思い出そうとする時の現象について次のように述べている。

本当の名前を見つけるまでに通過したさまざまな途中の名前は、どれもこれも間違っていて、われわれをなんら本当の名前に近づけてくれない…(中略)たいていは正しい名前には出てこない子音などの集合体にすぎない。もっとも、無から現実へと至るこの精神のはたらきはきわめて不思議なもので、その間違った子音の集合体にしても、結局、われわれに正しい名前を捉えさせるために前もって不器用に差しのべられた助け舟だという可能性だってある。

プルースト『失われた時を求めて ソドムとゴモラⅠ』(吉川一義訳・岩波文庫)

このプルーストの「人の名前を思い出そうとするとき」についての脱線話が、脱線のように見えて実は彼の主題そのものを指し示しており、プルーストの生きた「時間」の本質を表しているのだと思う。彼の曲がりくねって進む冗長な書き方は、内的時間の流れそのものの表現なのだろう。

まさにプルーストは、この長大な作品を通して「本当の名前を見つけるまでに通過したさまざまな途中の名前」について書いているのであり、それによって「無から現実へと至るこの精神のはたらき」を描き出そうとしているのである。そして結局、彼によって書かれたすべての物事は「われわれに正しい名前を捉えさせるために前もって不器用に差しのべられた助け舟」になるのだ。

一方現代。我々は「10秒で伝えろ」「相手の時間を奪うな」「ポイントは端的に」と言葉の使い方についてくり返し指導を受ける。はっきりいってクソくらえである。私たちはそうした時間の節約を目指すことによってかえって内的に流れる時間を貧しくしてしまっていることを知るべきだろう。

名前を思い出そうとするときに私たちの内部で起こることについてのプルーストの長々としたこの脱線話について「『そんなことをくどくど聞かされても』と読者は言うだろう」とプルーストは先回りして弁明を試みる。ここでプルーストは明らかに、読み飛ばさずに注意深くこの箇所を読んでほしいと願っている。彼にとってそれは、語らずにはいられぬこと、決して省略することのできない世界の重要な一側面なのである。

こうした冗長で、一見些細な事柄を語っているように思えることにも、全身全霊で耳を傾けること。そんな聞き方・読み方を私たちが体得するとき、それだけ一層私たちは真実へと迫ることができる。時間をかけて文学を読むことはそのための優れたトレーニングなのである。

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