蔑視(オリジナル短編小説)

「続いてのニュースです。本日未明、◯◯県◯◯市の住宅で、二十代の女性が、刃物を持った三十代の男性に……」
 朝8時過ぎ。フロアに設置されたテレビから、聞こえるか聞こえないかの音量でニュースが流れている。出社しているのは、まだ俺と一年目の女性社員だけだ。
 今日も、何人もの弱い人間が、他者に依存し、依存され、その末に殺されている。
 どうして人は他者に依存するのか。俺には全く理解できない。親、恋人、それから教祖。そういった自分自身以外の人間を精神的支柱にすることで、いったいなんのメリットがあるというのだろう。
母親から離れられなければマザコン、恋人にしがみつけばメンヘラと言われ、即座に世間から見下される。新興宗教に傾倒するなんて、もっての外だ。いっときの救い……虚構の安らぎと引き換えにすべてを根こそぎ奪い取られてしまう。
 不安だから。冒頭の問いに対し、こう答える者がいるかもしれない。受験や就職は思惑どおりにいくだろうか、恋人に見捨てられないだろうか、誰にも看取られずひとりで死んでいくことにならないか……。こういった人生における悩みや不安は、「質の高い人生を送ることができるか」と「孤独を感じずに生きていけるか」に大別できる。
 日本は弱者に優しい国だ。病気や怪我をしたって食うには困らない。つまり、最低限の人生の質は保障されている。そんな恵まれた国に生まれ落ちた幸せな人間が、不安だ不安だと言って他者に依存しているのだからおかしなものだ。
もちろん、DVやいじめといったものにより現に普通の生活が脅かされている人は、最低限の人生を送れていない状況から抜けることに注力する必要があるだろう。それと、俺の言っている無駄な不安視とは、まったく別の話である。
 話は戻るが、最低限の人生が保障されている日本では、不慮の事態により働けなくなるリスクを大きく捉えすぎる必要はないし、多くの人はそれを理解していると思う。
だから日本の人々の悩みの根源にあるのは、政府に保障されている質よりも高い質の人生を送りたいという欲求だといえるだろう。しかし、ステータスの高い職業に就きたい、良いものを食べたい・身に着けたい、見た目の優れた異性を抱きたいといった一般的な願望は、金と地位をもってすれば、大抵叶えられる。
漠然とした不安を抱えて、ママの指示を仰いだり、異性の経済力に寄生しようとしたりする暇があるなら、英単語のひとつでも覚えた方がよっぽど建設的ではないか。ママは間違っているかもしれないし、異性にはいつか捨てられるかもしれない。人生を不安がるわりに、なぜそのリスクヘッジができないのか、まったくもって意味が分からない。
金・地位、それから、ごく一般的な清潔感と、マニュアルレベルの対人能力。これさえ持っておけば、たとえ容姿に恵まれていなくても、ステータスの強さに惹かれた女がそれなりに寄ってくる。
女の場合は男ほどイージーではないかもしれないが、金があるならヒモ希望の男がちらほら集まるだろう。それでは不満というなら、稼いだその金を使って整形すればいい。つまりは、質の高い人生を送りたいなら、他者に依存している暇があれば、社会に求められる水準に達するよう正しい努力を行えば良いのだ。
 そしてもうひとつの不安、「孤独を感じずに生きていけるか」についてだが……。これもある程度の努力を怠らなければ、まっとうな恋人、ひいては結婚相手ぐらい普通に見つかるだろう。最悪、孤独を埋めるための関係性を買ってもいい。金があればなんとでもなる。
 高校の頃からうっすらそのようなことを思っていた俺は、人並みに勉強して私立最高峰の大学の経済学部に入った。それからこの思想が固まり人並み以上に就活対策を行ったところ、それなりの企業からいくつか内定をもらうことができた。
その中で一番華がある総合商社で総合職として働き始めて、一年と二か月が経ったところだ。
昔から対人能力は高い方だったし、生まれつきの容姿も悪くない。学生時代から比較的モテる方だったが総合商社内定者の箔がついてから拍車がかかった。「そういう飲み会」も増え、遊ぶ相手に困らなくなってからは、彼女を作るのをやめた。あと二、三年はフリーを貫くつもりだ。
恋愛などにかまけず仕事をバリバリこなして、早いとこ出世してステータスを確固たるものにしよう。

 ……といったところだろうか。毎日必ずわたしたち新入社員よりも早く来て、コーヒー片手にニュースをチラチラと見ている先輩の思想は。
この先輩は、職場だけでなく大学の学部の先輩でもあり、わたしは彼のことを四年前から認知していた。イケメンが多いと言われている経済学部の一つ上の学年の中でも、一際目立つグループにいたからだ。
いや、むしろ彼のいたグループだけをもって、あの学年はイケメン、と言われていたのかもしれない。それぐらいの存在感を発揮していた。
 一番有名な先輩は、別の人だった。芸能活動をしていてSNSのフォロワーが数万人の、オーラがすごい人。二番目に有名なのは、とにかくものすごく美形で、顔だけならその芸能人の先輩よりも整ってるんじゃないかっていう人で、この人も彼とは別の人。
この二人以外のメンバーは、誰もが知ってる人っていう感じではなかったけれど、このグループに強い興味を持っていたわたしは、メインディッシュではない、のちに職場の先輩となる彼についても、顔も名前もSNSも、全て知っていた。
 イケてる人が好きだ。かっこよくて、おしゃれで、空気が読めて、世渡りがうまい。そして自分たち以外を心の中で見下している。そんなところも……いや、むしろそこが一番、かっこいいのだ。自他共に認める、選ばれしもの、という感じ。
 先輩は、わたしが思う「イケてる」にどんぴしゃな人だった。顔やオーラがかっこいい先輩よりも、外見はその二人に劣っていてもその頭と要領の良さで、一番強いグループになんなくいられている先輩の方が、わたしにとってはイケていた。
 というと、まるでわたしが彼に長いこと片想いをしていたかのようだが、別にそうではない。
中高と女子校でそれまで彼氏ができたことなかったわたしだったが、大学に入ってすぐに初めての彼氏ができた。学部の同級生で、授業の合間に少し話しただけで、すぐに意気投合したのだ。その人とは一年数か月付き合っていた。
もう一人は三年の夏頃から、半年ちょっと付き合っていた人だ。就活関連のコミュニティで仲良くなったのがきっかけだった。
彼らはいい人だった。人を下に見たり、馬鹿にしたりなんか、一回もしたことなさそうな。
一、二年の頃に付き合っていた人は、頭も良くて趣味も合う人だったけれど、いまいち垢抜けていなくて、異性としての好意を持ち続けることができなかった。
その次の人は、顔も体つきも魅力的なかっこいい人だったけれど、頭の回転が速い方ではなく、会話が噛み合わないと感じることが多く、別れ話を切り出してしまった。でも二人とも、わたしのことを好きでいてくれた。支えようと、力になろうとしてくれた。
わたしはあまりメンタルが強い方ではない。繊細で傷つきやすく、人生に真面目で、生きづらい。そんなめんどくさい性格のわたしのことを、真っ直ぐで、芯が強くて好きだと言ってくれていた。かっこよかった彼は「信念があって尊敬する」と、波長の合う彼は「懸命に生きようともがいているところが好きだ」と言ってくれていた。どちらのタイプの愛情も、嬉しかった。
 彼らのことは大好きだった。私も彼らの力になりたいと思っていたし、このままずっと一緒にい続けられたら素敵だなと感じていた。間違いなく、「良い恋愛」をしていた。ただ、わたしのわがままで、関係を続けることができなかった。
 だから別に、先輩のことが好きだとか、付き合いたいとか思っていたわけではない。ただその圧倒的強者ぶりに、どうしてもメスとして惹かれてしまっていただけだ。
 惹かれて惹かれて、気がつくと高倍率をくぐり抜け、彼の勤務先である総合商社に一般職として入社していた。
 しかし、その圧倒的強者の立ち位置は、たった一度だけ揺らぎかけたことがある。
 一昨年の秋ごろ、彼が参加していた「そういう飲み会」の様子が、SNSのショート動画にあがっていた。鍵付きのSNSだが、わたしはフォロワーだった。先輩とはまったく話したことはないけれど、大学名の略称をプロフィールに書いていたから、フォローリクエストを通してくれたのだと思う。フォローもフォロワーも4桁だったから、なんとなくリアルの界隈だなと思った人であれば許可してフォローバックしているといった感じだろう。
「そういう飲み会」は彼が内定を手にしたあたりから何回も開催されていただろうけれど、わたしが先輩の投稿を見つけたのはその一回きりだった。
わたしはその動画を何度も再生したけれど、先輩も、先輩のいつメンも、映ってなくて、声すら聞こえなかった。聞こえたのは「おいブスここで寝んな」というふざけた怒鳴り声だけだ。酔っ払いの怒声だから誰の声かはわからなかったが、先輩の声ではなさそうだった。どちらにせよ、先輩は立ち回りの上手い人だから、そんなことは絶対に言わないけれど。
動画は深夜一時過ぎに上げられて、三時には消えていた。酒の勢いで上げて、目が覚めたときにマズいと思って消したのだろうと察した。
 わたしはその動画を画面収録していた。先輩が映っている投稿はよくスクショや画面収録をしていたけれど、映っていないのに保存したのは初めてだった。それだけ「そういう飲み会」に興味があった。
 生まれてこの方、わたしはそういう飲み会に行ったことがない。それどころか、酒で記憶を無くしたことも、付き合っていない人とベッドインをしたこともない。真面目に生きてきた。これまでにしたことがある「悪いこと」なんて、小学生のときに一度掃除当番をサボったことぐらいだ。
だからこそ、表ではキラッキラのキャリアを築きながら、裏でそういう「悪いこと」を平気でしているであろう先輩が、なんとも魅力的に思えた。
人生で一度ぐらい、乱れてみたい。でも言葉で、態度で、身体で、傷つけられるのはとても怖いから、きっと一生行かないんだと思う。
 事件が起きたのは、その動画があがってからちょうど二十四時間後のことだった。
『昨日サークルの先輩に誘われて飲み会に行ったら強引に二次会に連れてかれて総合商社行く経済学部の人にレイプされたまじで許せない』
という文章が真っ黒な画面の右下に小さな文字で書かれた画像を親しい友人限定公開で投稿した女がいたらしく、経済学部であるわたしの元へすぐにスクショが回ってきた。
 これで、完ぺきだった先輩のステータスに、傷がついてしまうのではないかと思った。
しかし、翌日になっても、翌々日になっても、先輩はいつものメンバーと普通に過ごし、普通に笑っていて、その様子を普通にSNSにあげていた。中学のときに根も葉もない噂に負けたわたしには、根も葉もありそうな噂を圧倒的地位でねじ伏せた先輩が、これまでで一番遠い存在に思えたし、たまらなくかっこよく感じた。
この文章を投稿をしたのは他学部の同級生だった。
 あらゆるツテを使って、わたしはこの女のことを徹底的に調べた。
 この女の投稿を信じているわけではない。かと言って、信じていないわけでもない。レイプと聞いて失望してもないし、より危険で魅力的に思えたということもない。この女に嫉妬しているわけでも、もちろん同情しているわけでもない。
 ただただ、知りたかった。先輩に関することを、一つでも。
 まずわかったことは、相当めんどくさい性格で、同性に好かれていない女だということだ。だから、親しい友人限定で公開しているはずの投稿が、見ず知らずのわたしのところまで回ってくるのだと合点がいった。
 それから、この女には彼氏がいた。女の方はもう冷めていて、そのうち別れようと思っていたみたいだった。
 だが、まだ別れていないのだから、そういう行為をしたら当然浮気だ。ここからは憶測になるが、彼氏が先輩との浮気を疑っていることを人づてに聞いた女が、先手を打って友達だけに対してレイプされたと発信しておくことで、言い逃れできなくなったときの切り札にしようと考えたのではないだろうか。それなら、わざわざ自ら汚点を晒すのも納得だ。
 また、プライドが高く、すぐにマウントを取りたがるらしいということも聞いた。だからわざわざレイプ報告にも「総合商社行く」という修飾がついたのだろう。
 本当にあさましい女だ。
 もし……もし、先輩の動画と同級生女の文章という二つの証拠を社内のメーリングリストに送って「先輩がレイプしたらしい」と噂を流したら、強くて強くてたまらない先輩は、弱ってくれるだろうか。そこでわたしは、ずっと昔から先輩のことを知っている、なにがあってもあなたの味方だと伝えて彼を支えたい。心の底から頼りにしてほしい。わたしがいないと生きていけないと思ってほしい。
 彼の、なんでもそつなくこなして、人脈が広くて、勝ち続けてきた無機質な人生を立ち止まらせたい。異性は自分のステータスを維持するための存在や、一時の快楽を分かち合う相手だけでなく、互いに絶対的な味方であると認識して、互いの人生を背負っていくパートナーになり得るということ。そしてそれは「弱い人間」が依存し合ってるということではなくて、わたしたちの人生に欠かせない「良い恋愛」をしているということだと知ってほしい。
 わたしは彼と「良い恋愛」を始められたらすぐに「誤解だったみたいです」って発信する。そうしたら彼はまた強い立場に戻って、でも「良い恋愛」の良さを知って、わたしと支えあって生きていく……。
 と、妄想をめぐらすも、こんな計画を実行することなど、当然できやしない。もし情報を流したのがわたしだとばれたら会社も彼も失うわけで、小心者のわたしにそんなリスクを取ることができるわけないだろう。
 そして、もし実行してもそんな風にはならないんだろうな、と思う。きっと彼の弱者を蔑み、周りを見下す価値観は変わらない。すべては夢物語だ。あー、人生って本当につまらないな。
 先輩はニュースを見ながらコーヒーを飲むルーティンを毎朝こなしているが、わたしは毎日毎日、彼の心の中を想像し、到底実現できやしない計画について妄想することを、まるでルーティンかのように繰り返している。
 入社して約二ヶ月。わたしは出社時間が飛び抜けて早い先輩に合わせて、他の新入社員よりも早めに来ている。
一秒でも長く先輩と同じ空間を共有したいという気持ちはやまやまで、そのための早起きであれば朝飯前ではあるけれど、「真面目で、新人の中で一番早く来る人」の域を超えるのは怖いため、結局二人きりの時間はたった五分くらいで、すぐに次の人が出社してきてしまう。
とは言え、ほぼ毎日フロアに二人きりの時間があるのだ。その五分のために生きている、という感覚だ。
しかし、その五分の機会が毎朝あるにもかかわらず、結局まだほとんどまともに話したことがない。
わたしは毎朝、フロアに入るときに必ず挨拶をする。それは先輩に向けて、というより、部活でコートに入るときに失礼しますと言うのと同じような、場に対する挨拶だ。
だけど、先輩はそれに対して、九割返してくれるのだ。五割ぐらいはパソコン、四割ぐらいはテレビを見ながらの挨拶だが、ごくたまにわたしに顔を向けてくれる。それがたまらなく嬉しい。
初めて顔を見てくれたのは、集合研修後、普通にフロアに出社するようになって二週目の月曜日だった。わたしのいつものつぶやくような挨拶に、
「おーおはようございます。今日も早いですね。」
と言ってくれたときには感動した。
先輩に憧れはじめて早四年。ようやく彼の人生に登場できたのだ。
 しかし、その先に踏み出すことができない。彼のデスクが隣の隣の島で、微妙に遠くて話しかけづらいというのもある。だけど、もはやどう声をかけたらいいのか、いや今後どう接していけばいいのかがわからなくなっているから何もできないというのが真の理由だろう。
ああ、先輩の人生にもっと登場したい。強くて、悪くて、イケている人生に。そしてその勝ち続けてきた人生に一度だけブレーキをかけたい。
でもそれが叶わないなら、彼との距離を縮めたくない。傷つきたくない。なにもかもこのままで、いい。
こうやって、また先輩のことを考えている。いい加減にしたい。わたしがこれまでに付き合ってきた彼氏たちとは違って「良い恋愛」を知らない浅い人間のことなど、別に好きじゃないのに―

 新入社員の髙橋綾さんが、わずかに視線をこちらに向け、かすかなため息を漏らしている。
 誰よりも早く会社に来ないと業務をこなしきれない、仕事のできない俺を見下しているのかな。それとも、彼女は僕の学部の後輩でSNSをフォローしてくれてるけど、なんか印象悪いのかな。一緒に飲んでた同じ学部の人、レイプどうこうとかでプチ炎上してたし……。
どちらにせよ、いやだな。

この発信活動において、編集外注などの活動資金が足りておらず(3月末に貯金残高5桁になりそうです)、「本当は人に頼みたいけれど自給自足でやっている」というものがとても多いです。 100円でもすごくありがたいので、お心遣いいただけると幸いです。