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映画「ファーザー」:混乱を体験する

レイトショーの時間帯に映画館に行くのが好きなのだが、こんなご時世だから気軽に映画館には行けなくなってしまった。「ふらっと映画館に行く」なんてことはもう昔の話なのかもしれない。

「ファーザー」を観に行った。このnoteは鑑賞直後の感想だ。私がもっと年齢を重ねたり、立場が変われば考えることも変わるだろう。*以下ネタバレ

映画を見に行く前日夜にたまたま映画を紹介するテレビ番組で「ファーザー」を見かけた。その中で印象的だったのは、映画を見ている側が"認知症"になっているように混乱する仕掛けがあるということだった。

そのことを聞いた私は「勘違いしないように気をつけるぞ!」の意気込みで、映画の中に出てくるモノの配置や話題の移り変わりに細心の注意を払いながらみた。

先に結果を述べておくと、注意しながら見れば見るほど「現実」がわからなくなりアンソニーと同じ立場になった。それも、怖いぐらいにだ。


毎日起こる奇妙なできごと

アンソニーは「自分のフラット(My Flat)」で暮らしていて、娘のアンが世話に来てくれている。アンはアンソニーのためを思い「介護人」を用意した。しかし、アンソニーは一人で大丈夫だと断固として断る。ある日アンソニーの「腕時計」がなくなる。アンソニーは介護人が盗んだのだとアンに訴える。介護人はアンソニーの態度に耐えられなくなり辞めることになる。

以上の状況から話は始まる。


ある日、見知らぬ男がフラットでくつろいでいる。誰かはわからない。アンソニーは、なんで自分のフラットにいるのかその男に尋ねると、その男は「ここはアンソニーのフラットじゃない」と言う。

また別の日、アンソニーは自分のフラットがアンに勝手に模様替えされていることに気がつく。

そしてまた別の日、夜寝ているときに娘が自分のことを呼んでいることに気がついたアンソニー。起き上がって、部屋の扉を開ける。すると、そこは病院の廊下だ。

My Flatに住んでいたはずなのに。。。


ある日、アンがフラットに帰ってくる。しかし、アンとは顔が違う。なのにその女性は「I'm here!」と言う。でも、アンじゃない。

また別の日、アンのパートナーがフラットにやってくる。しかし、知らない顔だ。以前、フラットに来ていたアンの知人の男性とは違う顔だ。

一体、この女性と男性は誰なのか。My Flatで一人で生活していたはずなのに。。



毎日毎日奇妙なことばかり起こる。

買ったはずのないものがキッチンに置いてある。アンは男性と話していたはずなのに、その男性は消えてしまう。アンと違う顔の人がアンだと言い張る。部屋にあった大事にしていた絵画はなくなる。自分の腕時計もなくなる。

今自分はどこにいて、目の前にいる人は誰なのか。真剣にわからなくなる。ただわかることは、アンは新たな介護人を準備しようとしていて、アンのパートナーらしき人にとって自分は邪魔者であることだ。


わからなくなったことに気がついたときに涙が止まらなくなる

アンはアンソニーを施設(home)に預けることを決める。

アンソニーはある日、いつものように目覚めて窓のカーテンを開ける。

窓の外はフラットにいた頃の景色とは違う。自分がフラットではないところにいることに気がつき、ドアを開ける。すると、自分のフラットで会ったあの男性が廊下にいる。混乱していると駆けつけてくれたのは、フラットで見かけたアンではないのに「I'm here!」と言っていた女性。

アンソニーは自分が施設に預けられたことに気がつく。

女性にひとつづつ尋ねる。

あなたは誰で、あの男性は誰か、ここはどこか、アンはどこに行ったのか。私は誰なのか。

アンソニーはお母さんを呼ぶ。お母さんに会いたいと泣き叫ぶ。


アンソニーの視点と感想

映画で最後まで「答え」は教えてくれないから、何が「現実」だったのかはわからない。映画を見ている側は「アンソニーの見たもの」を追いかけ、「アンソニーの見た現実」を見ている

アンソニーがMy Flatだと思っていたところは、アンの家で彼女がロンドンを離れる前までの期間に泊まっていたことは明らかになる。しかし、どの時点から施設に入っていたのかはわからない。

女性が「I'm Here!」って言っていた時からすでに施設に入っていたのかもしれない。フラットで男性を見かけたとき、そこはフラットのダイニングルームではなくて、施設の中のダイニングルームだったのかもしれない。

アンは毎日来てくれたように思っていたけど、それはアンではなくて介護士だったのかもしれない。

アンの服は「青い服」の日と「白い服」の日しかなかった。だから、おそらく、ある印象的だった2日間をアンソニーは数日?数ヶ月?行ったり来たりしてたことになる。


夜に呼ばれて娘を探しにいくシーンは、これが「徘徊」なんだと思った。夜中にふらふら歩いていたら、はたから見れば「徘徊」のなにものでもないのだが、本人にとっては「徘徊」してるわけではなくて、呼ばれたから探しているだけだ。

私自身、「なんで夜に徘徊なんてするんだろ?」「幻聴のせいだ」と迷惑な行為として徘徊を認識していたことに反省した。


アンソニーが施設にいることに気がつく終盤は涙なしでは見られない。

注意深く見れば見るほど、自分がアンソニーの視点で世界を見ていた。毎日奇妙なことがあるのだが、周りの人に確認しようとしても、できない。「また同じこと聞く」「また物失くす」と迷惑がられる。どんどん自分の世界は混乱し始めて、周りの人は何かを隠そうとしてるし、何が起きてるのわからない。自分が誰なのかもわからない。いつも助けてくれた母はもういない。やり場のない辛さと悲しさが自分を支配する。


アンソニー・ホプキンスは本作でアカデミー賞主演男優賞を獲った。ホプキンスの演技は本当によかった。

最後の最後の座っているシーンが印象的だった。これまでのウイスキー片手に踊って上機嫌で愉快で強気なアンソニーはそこにはいない。認知症でなにもかにもわからなくなって、魂の抜けたアンソニーだった。

フラットで少しずつ不安が増していく顔もなかなかの演技だった。

高齢化社会の今、認知症の人は増えることはあっても減ることはない。素晴らしい映像体験だった。看護師歴約30年の女性と一緒に観に行ったのだが、彼女は私とは全く違う反応と感想で刺激的だった。映画を誰と観るかも大事だなと感じた。

家族の介護をするようになったら、もう一度観よう。

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