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【本の記録】田辺明生、竹沢泰子、成田龍一(編)『環太平洋地域の移動と人種 統治から管理へ、遭遇から連帯へ』

今回は1つのプロジェクトをまとめた論集だ。

2020年の重大な出来事としてBLMが挙げられる。アメリカの根深い人種差別問題から端を発した運動が、日本でも大きな話題となった。ごく最近では、全米テニスで優勝を果たした大坂なおみの抗議行動が世界中から称賛された。

しかし、なんだか日本にいるとBLMや人種差別問題はいまいちピンときていないように感じられる。

NHKでBLMを取り上げようとアニメーション動画を作ったが批判を受け謝罪していた。NHK側は謝罪していたが、何が批判されたのかを理解できていないようだった。大坂なおみの動向に対して「かわいい」と形容して利用しようとする企業もまた勘違いも甚だしい。

日本国内でも差別は根深くあるにもかかわらず、「人種差別」はよその話で自分たちには関係ないことかのように捉えられている。


このことに関して、ひとつのアイディアを『環太平洋地域の移動と人種 統治から管理へ、遭遇から連帯へ』では提供してくれる。

本書では、環大西洋と環太平洋で人種秩序には差異があることをプロジェクト全体の前提理解として述べられている。

環大西洋と環太平洋とでは、「目にみえる差異」か「目にみえない差異」かで差別の指標に違いがある。欧米由来(環大西洋の地域)の人種秩序は皮膚の色・頭蓋骨の形など目に見える(可視的な)身体的なことがらが時代を経て差別の指標になってきた。

他方、環太平洋地域の人種秩序は「目にみえない身体的差異(とされるもの)」が指標となる。

 環太平洋地域に伝統的に存在した集団間の序列階梯は、血統・出自・職業・生活様式などの多元的で身体的には「目にみえない」差異の複雑なからまり合いによって構成されたものであった。劣位集団は、「生まれながらにして変えられない/変わらない」気質や能力をもち、それが身体を介して次世代・その先の世代へと遺伝すると信じられていた[p.11]。

この序列化を維持するために動員されたのが、「血」の神話であり、「嗅覚や触覚、聴覚など視覚以外の感覚に訴える*情動レベル*での「差異」[p.11]だ。

においや声、肌ざわりが違うという感覚、直接的であれ間接的であれ接触すれば「穢れる」といった忌避意識は、「見える人種」の肌の色や髪の形のように、目で見て「差異」を確認/納得することができるものとは性質を異にする[p.11]。

感覚や忌避意識は科学的な理屈では説明できない。他者とされる人と遭遇した瞬間に湧き上がる情動が、行動や言語化を求めるのだ。それにより、世代を超えて日常的に人種化された人びとの「見えない差異」をめぐる言説が繰り返し語り継がれてきた[p.11]。


グローバル化時代の人種主義は以上のことに加えて、「国民国家とグローバル資本主義の結びつきが再編されるなかで、ネーションにとってのリスク集団として現れる」[p.19]。

従来の国民国家体制においては、ネーション間・市民間の平等という普遍的価値と、多数派主義的な「国民秩序=人種秩序」とは、いわば理想と現実として尊重されていた。しかし現在、ナショナルな均質空間という想像の虚構性があらわになり、越境的な多元性と混成性がはっきり現れるなかで、ネーションのなかの平等とネーション間の平等という、国民国家体制を支えてきた基本的な価値が維持しにくくなっている。そこで現われているのは、 国境を超えた普遍的な人権レジームの一方で、国家・資本にとって有用かどうかという観点から人びとを区分し、財と機能を配分していく新たな差別秩序である。これは、グローバル経済のなかで繁栄を求めようとするネーションの効率主義的な統治と結びついて、社会経済を管理する側に立つエリートと、一定の用はあるが使い捨てられる人的資源、そして役立たずや邪魔者として放逐される人びとというヒエラルキーを形成する[p.19]。


ここまで述べてきたように、現代に至るまでに人種主義は時代を経て変形しながらも深く残存してきた。「現在、さまざまな違いにもとづいた差異化・差別化が秩序維持の名において横行し、それが自らの不安を他者のせいにしようとする情動の政治と結びついて、あらたな人種化が生まれているという状況がある[p.20]」。

このような状況であるからこそ、ポピュリスト的な多数派主義にもとづいた、情動的で流動的な差異づけによる他者・マイノリティの人種かが強まっているのだ[p.20]。


本書では、以上の事柄を前提とし、それぞれの研究者が様々な事例をもとに人種主義について検討・考察している。


このnoteは「序章」をもとに記述している。

序章の中で気になったことだが、グローバル化の話以降、「国家」と「ネーション」という言葉が入り乱れている。これは単なる言い換えでいいのか、それとも「国家」と述べているところと「ネーション」と述べているところでは何かしらの理由があるのか、その点がわからなかった。言葉の使い方には重々気をつけなければいけない場面であると考えるため、気になった。


差別や人種主義というのは深く暗いもので、配慮の欠けた発言一つが暴力になる。「私は人種差別などしていない」と語る人に限って、もろな差別発言をしていることが多々あったりもする。まずは「差別」に気がつくこと。指摘されたら、「そんなつもりはない!」と言い張るんじゃなくて、心からの反省と勉強のし直しをしなければいけないことだと私は思う。

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