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[記録]五輪反対派と賛成派の溝。

昨日、2021年7月23日、東京五輪の開会式が行われた。始まる直前まで様々な不祥事があった。感染症の勢いが収まっておらず、東京都は日々感染者数の記録を更新している。たくさんの問題を抱えたまま五輪が始まり、終わる頃には問題は目も当てられないぐらいに悲惨なものになるんだろうと思う。京都大学の西浦教授の新たな試算では「来月上旬に1日3000人超」と言われている。

新聞社や報道局の記事ではなくbuzzfeedやfashionsnapの記事だが、大まかな部分はまとめられていて振り返ることができる。

賛否両論の東京五輪

私は五輪反対派だ。開会式は「見ないぞ!」と思ってたわけではなく、6月から8月に続く諸締め切りに追われているため、休憩時間にTwitterでしか観測してない。ちなみに私のTLは賛否両論だった。「否」がやや多い感じか。「手放しで喜べない」「開会式が始まったからって、突然楽しい気持ちにはなれない」そんな人が多く見られた。


テレビをつけたらどこも五輪の話題だ。

スポーツ選手の活躍に歓喜と賛辞、期待が眩いほどに放送される。他方で、感染者の増加はやむことを知らず、五輪選手の間にも感染は拡大している。23日までに選手も含む累計106人がコロナに感染しているとのことだ。

反対派がデモ活動をする。無観客の開会式のため、そのデモ活動の声は競技場に聞こえて来るそうだ。他方で、始まったんだから楽しめよ、頑張ってる人もいるから応援しろよ、という雰囲気。

反対派と賛成派は日を追うごとに溝が深くなっているようだ。


以下は東京五輪メモ書きだ。話題提供にもならない程度の心の片隅のものだ。

フェアプレーとは何か

今回の大会はトップアスリートが次々に辞退することになった。東京の感染状況と対策指針から出場を見送った選手。東京に来てから陽性反応になり辞退せざる終えなかった選手。チームメイトが陽性になり、ベストメンバーではない状況で大会に挑まなければいけなくなった選手。

サッカーの日本代表の発言が気になった。

「僕らにとってマイナスではない。僕らにとって怖いのは、僕らのチームで仮に陽性者が出たらマイナスだと思うけど、そこはみなさんの協力もあって幸い今は陽性者ゼロなので、自分たちのことに集中して」と日本側は感染対策が徹底されていることを強調してチーム内の動揺を否定。
「相手に何人陽性者が出ていようが誰がケガしていようが、自分たちにとっては、こんなこと言っていいのか分からないけど、損ではなく得であるしかないと思うので、そういった意味で自分たちはしっかり自分にフォーカスしていきたい」
さらに「皆さんが毎日命をかけて戦ってくれていることは重々理解しているし、オリンピックがやれることに僕らは感謝しなければいけない立場であることは理解している」としながらも「サッカーに限らず選手たちは毎日人生を賭けて戦っているからこそこの場に立てている選手たちばかりで、オリンピックにかけている選手たちが山ほどいる。もう一度真剣に検討してほしい」と語り、観客を入れての開催を訴えました。

サッカー選手が一生懸命、サッカーをしているのはわかる。言葉で何かを表明してくれたことはよかった。

しかしここだけ見ると、相手が感染してくれてラッキーだった、自分たちは感染してないからOK、みたいな感じに聞こえて、とてもじゃないけどフェアプレーの精神からはかけ離れている。

不戦勝も出てくる。そのときに「相手が病気になってくれてよかったです」とは思っていたとしても言わない。

インタビューはときに「正解の回答」がある。おそらく、今回の場合、相手の状況にお見舞いする表現がもっとされるべきだったのだ。「早く元気になってほしい」「次はお互いのコンディションを整えてやろう」とかそういうのが必要だったろう。サッカーの時はついつい「長谷部ならなんて言っただろう?」と思ってしまう。これは私がサッカーをよく見ていた時のキャプテンはいつも長谷部だったからだ。


他方で、「フェアなんてあり得るのか?」という問題もある。

私は子どもの頃に10年ぐらい空手をやっていた。相手に勝つためには、相手の弱点を探す。相手が足が弱ければ、足を攻撃するし、ガードが低かったら頭を目掛けて思いっきり蹴る。相手に持久力がなければなるべく疲れるようなプレーをして隙が出るまで自分も持ち堪えることが必要だ。

ルールの中で勝つために戦略を練るのがスポーツだ。時差や暑さも怪我にも気をつけて準備をするのが選手の仕事だ。

どんな場合でも「フェア」なんてない、とも言える。みんなが同じ体型でもないし体質でもない。食べ物も違うし、トレーニング環境も違う。

フェアを目指すのは難しいから、「フェアプレーをする」と宣誓したりするのだ。しかし、今回は他国の不公平感が大きすぎるのだと思う。だから問題になるのだ。


始まったんだから楽しもう!の雰囲気

スポーツの楽しい報道が増えれば増えるほど、感染症の話題は小さくなる。楽しかったら楽しかったで、不祥事が忘れ去られてしまう。

始まったんだから楽しもう!にはどうも賛同できない。ずっと「これでいいのかな」と思っている。

自分は東京都民ではないから、「五輪の悲劇」を直接被ることはないかもしれない。税金を払うときに「これが五輪に使われるのか」ともあまり思わない。東京都民は都政に国政に躍らせられないように気をつけたほうがよさそうだ。


ナショナリズムの戦いはもうやめたいこと

国別対抗戦は「ナショナリズム戦争」の部分がある。「日本人なんだから日本を応援しろよ」「韓国や中国には負けたくない」とかそういうものだ。

<五輪に政治は持ち込まない>は合言葉のように言われるが、五輪をやってる時点でかなり政治的なのだ。「国を背負って」という選手たちもいる。「国」なんて背負わずに、自分のために戦えよ、と私は思う。

ナショナリズムを動員して人々を扇動するのは危険だ。人を貶めることも恥ずかしげもなくいとも簡単にできてしまう。「我々の国家がオリンピックで勝ったんだ、お前たちは負けただろ」なんて言い出したら、この世の終わり感がある。世界平和なんて夢のまた夢になる。


日本社会が刷新されるきっかけになること

今、インドの大学院で社会学のクラスに在籍しており、そこにはIntroduction Human Rightsという授業がある。日本語にすると「人権入門」だ。授業を受け、マテリアルを読みながら思うのは、自分がいかにこれまでHuman Rightsの勉強をしてこなかったか、ということだ。

小学校でやるべきは「道徳」ではなく「人権」だろう。「人に優しく」なんて言ってないで、「これは人権侵害なので訴えられます。訴えるときはこちらに問い合わせを」だ。

今回の五輪までの不祥事は全部「人権意識の低さ」で語ることができる。女性蔑視もいじめを武勇伝のように語ることもホロコーストへの認識もだ。

日本は「日本国憲法があるから」の理由で、国連の人権宣言などには積極的に参加していない。重箱の隅を突くようなことを言って「これは認められません」の姿勢だ。それが悪いわけではない。日本の立場もある。他方、真摯に受け止めてないようにも取れる。

これをきっかけに社会を一気にアップデートしなければいけない。取り残されないように国際社会に必死についていかないといけない。「昔はこんなことは許された」なんて言ってたら「老害認定」されるだろう。


五輪は必ず負の遺産になる、というのが近年の五輪のセオリーだ。五輪をやってよかった!という側面より、「五輪なんてやらなきゃこんなに悪い状況にはならなかった」と修繕作業と負債への対応に急がれるのが近代五輪だ。

これから数年もしばらく「国難」や「試練の年」は続くだろう。いつ終わるかはわからない。月並みだが「選挙に行こう」しか言えない。


これ以上、不祥事が隠されないことを祈っている。スポーツ選手の功績にスポットライトを当てて、良くない内部事情を見えなくする、みたいなことはないようにしてほしい。

また、不幸にも感染症や熱中症に見舞われてしまった選手たちには早く回復してほしい。帰国を余儀なくされたウガンダの選手もなんとか日本が助けてあげることができたらよかったかもしれない。選手たちが帰国した後に、世界各地でパンデミックが再拡大することがないことを祈っている。

五輪期間中に交通事故や大きな自然災害が一般庶民を襲っても、感染症の影響もあるから病院にすぐ行けて、助けてもらえるとは思えない。くれぐれも、健康には気をつけて過ごす必要がある。

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